第3話 独り水の中で
弥太はもがいていた。周りは真っ暗で何も見えない。
躰の自由はきかず、粘っこい黒いものが覆い尽くして息さえままならない。
苦しい。苦しくてもがく。更に苦しくなる。
どうしようもない苦しさで、声にならない叫びで助けを呼ぶ。
お願い、お願いっ。何とかなんとかしてっ。
力一杯に魂を込めて、声にならない叫びを叫ぶ。
おいらは、おいらは……。
その時一条の眩い光が差し込んで―― 。
弥太は気が付いて目を開けた。辺りは薄暗い水の中だ。手足を放り出したまま、流れに任せてぼんやりと漂っていた。目がちかちかするし、頭はほんのりと痛むし気分も悪い。
「あれ? おいら……ここは何処?」
川に流され結座石の大岩を過ぎたあたりまでは憶えているが、瀧から落ちる時からの記憶が全くない。突然目の前が真っ白になって、そこから先はどうなったのかさっぱりだ。気が付いたらここに漂っていた。
ついさっきまで怖い夢を見ていたことはよく覚えている。とても怖くて嫌な夢で思い返すだけでも、背中の甲羅もカタカタいうくらいに怖くて苦しいとても嫌な夢だった。
頭がジンジン痛いし命皿がキシキシする。
躰も瀧から落っこちる際に打ち付け擦りむいているのだろう。あちこちが痛む。ぐるぐると目が回っていて気分もとても悪い。
「痛いし、気持ち悪いよぅ」
このままでは駄目だ。
弥太は『痛いの飛んでいけ』をすることにした。
いわゆる河童の死なずの膏薬、文字通りどんな深い傷でも痕すら残さず、ケガや病をする前の元気な躰に戻してしまう身戻りの癒しの秘術で、千吉にも褒められた自慢の術でもある。
きれいな水があるところでしか、上手く使えないし、そもそもこれしか術は使えないのだが。
弥太は軽く左右に頭を振り命皿の上に水の流れを作って、目をぱちくりさせて深く水を吸い込んだ。
口の中に広がる水がとても良い水で、気分が少し良くなっていく。
ここの水は産霊の森の神域から注ぎ込む水だし、とても清らかな上に千丈の瀧が水を研ぎ澄ましていることが分かる。
ふうと一息ついた。
水が大丈夫なら、痛いは治せる。今までも何度もやってきたことだ。
どんぐり眼をしっかり瞑ると、更に深く水を吸い込んでいく。
すると、頭の命皿に小さな光る渦が起きて、その光る渦から水泡がどんどんドン湧き起り、ついには小さいとはいえその躰をすっかりと覆ってしまった。
泡が覆ったところの擦り傷や切り傷がたちまちにして消えてゆく。
癒しのもとは『命皿の水』だ。河童の活力を支える命皿の水。
痛みも気持ち悪さも無くなって、背中の甲羅だけがまだ少しピリピリと沁みるが直にそれもよくなるだろう。
やっと気分も落ち着いたところで、辺りの様子を確認する余裕が出てきた。
「ここは何処? ねえ、誰かぁー」
声を出して見るものの、返事をするような相手はいない。
狼岩から流されて、滝から落ちて、その後は……あれ、わかんない。
気を失うという言葉すら知らない子河童の弥太は、今は自分だけで何とかしなければならないという状況すら理解できていない。
常に物知りの千吉と一緒で、千吉が寝ている時は、千吉の知り合いの皆が代わる代わる優しくしてくれていたので、独りになったことがなかったのだ。
千吉も千吉の知り合いも皆、物の道理をわきまえるどころか、気立てのいい優しい存在ばかりで、自分は河童という生き物であるとか、生きるための術であるとか、常に誰かが傍にいて何かに付け見てくれ、不安や心細さを感じたことなど一度も無い。
そんな弥太が今はただ独り。何をすればいいかもわからず途方に暮れている。
取りあえずこれからどうするかを考える為、言われたことを色々思い出すことにした。
これが裏目に出てしまった。
弥太は山神様の「ケガレがまだ多い」との言葉を思い出していた。
山神様が手を焼き、産霊の森の皆が恐れるケガレ。
千吉が山神様に頼み込まれて、一緒にケガレの大祓いを初めてから七日七晩、風は轟轟と渦巻き大地はぶるぶると大揺れして、挙句には変な叫び声とか呻き声とか随分と怖い思いをした。
弥太は直接そのさまを見てはいないが、太郎治や山の皆の話ではかなり激しい大祓いだったらしい。
北の山嶺の守り主様が大祓いで命を落とし、その遺骸が大岩と化して今もその姿を谷底に横たえていて、他にも沢山の山や森のもの達が命を散らしたと聞いた。
そうだ、ケガレだ。とんでもないものを忘れていた。
弥太はハッとして首をすくめる。
ここには長く居てはいけない。
早く戻らなければ……。
千吉と山神様や太郎治が待つあの森へ。
命皿がキシキシする。
「どうしよう。怖いよう」
思った恐れが言葉になって外に出た。自分の言葉が自分の気持ちを削り取る。
「千吉っー、山神様ー」
呼べど当然、返事はない。
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