すばらしい最後

Meg

すばらしい最後

 Gは死ぬことにした。付き合ってからしばらく経つ恋人からなんの音沙汰もなくなったからだ。

 Gが男か女かということはこの際どうでも良い。Gは生まれてこの方いいことなしだった。貧乏な家に生まれ、親から顧みられず、学校ではいじめられ、かろうじてありついた仕事は激務のわりに薄給な上よくしかられる。面接も苦手だから転職は難しいだろうし、年もまあまあとってしまった。異性から好かれた経験もほぼなく、たまに付き合えても利用されて無残に捨てられるだけだった。貧乏でろくなものを食べていないはずなのになぜか太っていて、顔もよくなければ頭もよくない。器用に世を渡っていけるコミュニケーション力もない。鬱ぎみで生活能力も仕事の能力も低い。今は親が呪いのように残した古びた狭苦しい実家で、ゴミに囲まれながら1人で暮らしている。ローンがあと何年分か残っている。

 むかしもいまも、そしてこれからも生きていてもいいことなど一つもない。なんのために生まれてきたのかもわからない。自分などいてもいなくてもいい存在だ。

 だがGにはたった一つだけ心残りがあった。それは今連載中のweb小説の続きを最後まで読みたいということだった。

 Gはweb小説を読むのが日課だった。無料で楽しめる空想の世界にひたることだけが唯一残されたGのなぐさめだった。そこでGは運命の小説と出会った。

 Gはその小説のヒーローとヒロインが大好きだった。毎回2人の冒険を楽しみにしていた。2人の関係をなによりも愛していた。2人の行く末にたいして心から幸福を祈っていた。

 他人が知ったらいい年をしていたいたしいと嘲笑されるのはわかっている。だがそれでもGには小説を読むことに激しい情熱を注ぐことをやめられなかった。

 小説は1話ずつ3日に1回律儀に投稿された。だが、完結にはあと1年ほどかかるとGは見たてていた。あと1年もこの絶望と空虚を耐えなければならないのか。Gは大きなすり鉢で体が少しずつすられる思いだった。

 しかしだ。一方で前向きな見方もできる。1年のうちにすっきりと死ねるよう、終活ができる時間があるのだ。どうせ死ぬなら身の回りを整頓し、できるだけいい思いをして死にたい。

 

 Gはまず大嫌いな仕事を辞めた。さいわい貯金はいくらかあった。1年くらいはなにもしなくても十二分に生きていける額だ。どうせ死ぬのだからこれ以上ローンを払ったり金を貯めたってしかたあるまい。

 次に部屋のゴミを捨て、最低限のものを残しほとんどのものを売ったり捨てたりして処分した。忙しい日常の中で整理整頓をするのは苦手だったが、一つのことに集中して取り組むことは得意だったから案外すぐ終わった。

Gは物を捨てるのは苦手だった。ついついもったいない、いつか使うだろう、場合によっては物がかわいそうと思ってしまう。だがあと1年以内に死ぬのだからほとんどの物は取っておいてもしかたがない。きっと自分が死んだ後業者かなにかが一斉に、無慈悲に処分するだろう。そうなったら逆にもったいない。

片付けきった物のない部屋はひろびろと清潔だった。Gはすっきりとした気分になった。

 しかしほとんどなにもない部屋の中、感激しながら小説を読み終わった後で、Gは考えるのであった。あと1年、この部屋で小説を読む以外なにもせず暮らすのも退屈だ。どうせなら、そうだな、旅行をしてみたい。死ぬまでに貯金も有用に使いきろう。そういえばコンビニのトイレかなにかでクルーズで世界一周する旅行のポスターが貼ってあったな。それは3ヶ月くらいで終わってしまうんだ。だが個人で行ったら1年かかるかも。

 Gはすぐに行動を起こした。すなわち世界一周旅行をはじめた。家は売り払った。1年以内に死ぬのだから持っていたって意味がない。にくったらしい親に押し付けられたバカな家のローンも払わなくて済む。それよりは小金を懐に入れて旅を満喫しよう。

 

 旅行はすばらしいものだった。旅行中飛行機は使わないことにした。日本から出港した船上で、Gは青い空、青い海をぼんやりながめた。ユーラシア大陸におりたったGは、異国の街並みや人々の間を物珍しげに歩いた。多くのweb小説を読んだGは、今度は自分がまるでファンタジー小説の中に放り込まれた気がした。

 北方の雪をかぶった広大で平坦な森、北京のゴミゴミとしたばか広い道、モンゴルの鉄塔一つないどこまでも続く草原、巨大な壁のようなヒマラヤ山脈、南アジアの強烈な暑さと城のごとき巨大な寺院、中東のカラカラした岩と砂の地、東欧の絵本に出てくるおとぎ話のような街並み、ヨーロッパの優美な建物、地中海のエメラルドグリーンの海、赤道直下の灼熱とジャングル、北米の雄大すぎる自然、南米の美しい海と人々のエネルギッシュさ、果てのない海。行く先々でGは宗教も思想も体格も肌の色も衣服も住居も様々な人々とすれ違った。意外と言葉は片言の英語かジェスチャーでなんとかなった。Gは自分の住んでいた世界の小ささを思い知らされた。もちろんポケットWiFiを常に携帯しweb小説はこまめに読んでいた。

 十数か月経った後、Gはようやく船に乗って日本に戻った。とりあえずは港近くのホテルに泊まった。そして例のweb小説を読み、Gは困った。小説はラストスパートに入りそうだ。だが完結するにはまだもう少しかかりそうだ。あともう少しの間、なにをして過ごそう。貯金もまあまあ残ってはいる。

 Gは考えた。世界一周の間に気づいたのだが、世界には驚くほど物価が安い国がいくつもある。治安や生活の質だって悪くなさそうだった。今の貯金を使って、そんな国で贅沢な生活ができるんじゃないだろうか。

 

 Gはとある国に移住した。日本ほど豊かではないが、海に囲まれた南国の平和な国だ。ビザは語学留学を理由に取得した。 

 Gは港町にある、プールとジム付きのコンドミニアムを借りた。部屋は広く、寝室の大きな窓からは美しい夜景の見えた。家賃はあの狭苦しい家の月々のローンより安かった。家具は南国風の趣味のいい物がそろえてあった。現地人のやさしいお手伝いを住み込みで雇って家事全般を任せた。かわいい子猫も飼った。

 Gはプールでのんびり泳ぐかジムで気持ちよく汗をかいた後、清潔でひろびろとした趣味のいい部屋に戻り、お手伝いの作ったおいしい料理を食べながら、猫をひざにのせ、web小説を読むか動画配信サービスで面白い映画やドラマを気の済むまでみあさるのが日課になった。お手伝いは南国にふさわしいさわやかな匂いのするアロマをいつも部屋に置いてくれた。夜はよく眠れた。かつてないほど健全で健康な生活だった。体もみるみる痩せていった。Gはやせるには断食よりも適度な運動と規則正しいストレスフリーな生活の方が有効なことをはじめて知った。 

 ビザ取得のために申しこんだ語学の学校にもひまつぶしに通った。Gは自分は頭が悪いと思いこんでいたが、現地の学校の勉強方法が合っていたのか、意外にも語学は苦手ではないことがわかった。知識が積み上がっていく手ごたえに楽しささえも感じられ、勉強はすこぶるはかどった。先生もみんなやさしくやる気をそがれることもなかった。

 学校で多国籍の多くの友人もできた。週末はかれらとパーティをした。かれらに誘われ、格安のエステやヨガやマッサージもはじめた。健康な生活もあいまってGはすっかり見た目がよくなり若々しくなった。

 Gはやっぱり女性だって?それはわからない。男性だって語学学校なんかで友達を作れるし、パーティをしてみたら楽しいし、見た目をよくしてみたいし、ヨガで体を伸ばしたりマッサージをすればすっきりするのだ。

 これらは移住してからたかだか半年以内の出来事だった。Gはみずからのすばらしい死に向けて時間とお金とエネルギーとを惜しみなく使った。散財してもちっとも心は痛まない。がんばることがおっくうではない。もうすぐ死ぬのに余計なお金やエネルギーを残してもしかたがない。どちらもとにかく使えるところで有効に使いきってしまいたかった。

 

 窓から港街の光のまたたきが見えた。Gは広い部屋で泣きながら、かのweb小説を読んでいた。Gの見立てよりもやや長く続いたその小説はとうとう完結した。すばらしいエンディングだった。ヒーローとヒロインは長い困難の末に多くの犠牲を払いながらもついに結ばれ幸せになった。どれほどこの日を待ち望んだことだろう。Gはこの小説と自分とを巡りあわせたすべてに感謝した。あれほどにくんでいた両親にさえだ。Gの生きる目的はついに果たされたのだった。貯金も大体使いきった。これでいつでも死ねる。

 だが、Gは自問した。

 自分は今死にたいのだろうか?プール付きの広い趣味のいい部屋を、さわやかなアロマの香りを、おいしい料理を、やさしいお手伝いを、かわいい猫を、友達との楽しいパーティーを、積み上げた英語力を、面白いドラマの続きを、よくなった見た目を、ストレスフリーの毎日を、快眠を、健康で幸福な充実した生活を、あっさり捨てたいのか?


 数十年後、Gという人物がある国の病院で死んだ。翻訳家や通訳、語学教師としてそれなりに稼いだ人だった。財産は現地人の家族へ相続された。死因は老衰だった。

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