第3話 僕が出会った世界は

「あ…あの……桜さん?」

 少し不安になりつつも、冷静を装い応答を求めた。

「い、いや、今のは忘れて?うん、それで……日向ちゃんが私の事……そういう……」

 桜さんは言葉に詰まっていた。それはそうだろう。急に同性のクラスメイトに告白なんてされたのだから。

 寧ろこうならない展開があったのだとすれば、それはそれで大問題だ。

 しかし、彼女から返ってきた言葉は、単純なものだった。今までの己が悩み貫いてきた長き日々がなんだったのだと苦笑いをこぼしそうになる程。

 桜さんの俯いた表情には、先ほど眼の中に増えていったきらきらと例えるのが近しいであろう光が、夕景に照らされる風景と同化する、違和感のない元の姿に戻る様子が感じて取れた。

「その……それじゃあ……よろしく……ね……?」

 彼女は、人差し指同士をつんつんと合わせ、目線を逸らして口を尖らせて言う。しかし、物理的に口を尖らせたのであるが、きっと不満などによるものではなく照れ隠し。それの類いだろう。

 この言葉は誰の言葉よりも自分自身の深層心理にある記憶のフォルダに残ることになる。簡素な返事なのだが、それに込められた意味は、とても大きいのだ。

 悩みに悩んだ末にこの答えを出して良かったと、今こうして思えている。無意識に、喜びだとかが抑えられなくなっていたのだろう。唇の端を上に向け、ゆっくりと振るわせていた。

「そ……それじゃあ……!」

 今の自分は、笑顔を取り戻せただろうか。今己を支配しているのは、あらゆる過去の自分に勝るレベルの喜びと例えるに相応しいものだ。

 しかし残念なことに、現在を除けば、特に喜ばしい様なことはここ数年起きていないのだが。


 いつも通りの夜景は、街灯や一軒家の灯り。特に見ていて困るような光はないが、眺めていて楽しいものでもない。

 いつも通り、優香と二人だけの夕飯を終えてから部屋に戻ってベッドに寝そべり夢と現実の間を彷徨っていた。

 今日の自分はなかなかにテンションが高かったようで、先日と比べて唐突な変化を遂げた僕を見て優香が微笑んでいた。斗真の阿保面とはまた違う、なんかこう、柔らかい感じのやつだった。

 いつのまにか夢を見て、ふとした時に目が覚める。そしてまた気がつくと眠り、目が覚めると10分ほど時間が進んでいる。こんな事を繰り返していた23時頃。ご満悦でスマートフォンを手に取ってパスワードを入力。メッセージアプリの連絡先を見ると『ミカゲ』と書かれた連絡先が表示されていた。

 しかし、『ミカゲ』『トウマ』『お母さん』『お父さん』『優香』『ピザ屋(公式)』と。なんとも登録されている連絡先が少なすぎる。普通に見てて無念と解釈するに相応しい画面が、眼前の小さな液晶には広がっていた。

 というか、このピザ屋なんて一度も利用したことがないのに、何故登録されているのだろうか。怖い。


 今日という日、長きに渡り……と言っても数ヶ前から始まった事だが、その苦難が全て打ち砕かれ、遂にハッピーエンドにたどり着いてしまったのだ。連絡先が少ないなんて言っている場合ではない。

 ……いや、よく考えてみれば、微塵も終わってなどいない。寧ろこれから始まる様なものだ。これからはしたい事が沢山ある。

 それは、今の自分を変える為の試練だろうか。それを実行するに当たって、自分を甘やかさずに、という言葉の真髄を知れるような気が、なんとなくした。

 まずは彼女に相応しい存在として、桜さんを下の名前で呼べる様になる事。

 これが、そのうちの一つ。おそらく最も簡単に達成出来るだろう。こちらの意識の問題だという事は分かっていた。自分次第でどうにかなる事柄だからだ。

 しかし、その自分が残念な訳だが。

 残りはまあ、今この試練を乗り切ってから考えれば良い。今は忘れていよう。


 ただ、一つ気になる事がある。

 桜さんは僕の事を『彼女』と呼んだ。最初に男だという、今回の一件で最も大切な事柄は伝えたのだが、あのタイミングを聞き逃すなんてあり得ないというのを信じたい。

 少し不安になりつつも不安要素は考えない様にして、眠りについた。



「お姉ちゃ〜ん、朝だよ〜‼︎」

 まだ睡眠時間を欲する身体に備え付けられた五感のうち聴覚が妹の声を感知した。続いて、光を遮断していた瞼が少し開いて日光の餌食となる。

 朝日ってこんなに眩しかったっけな。

「うぅ……まってすぐ起きるから……多分……」

「多分って何⁉︎早く起きてよお味噌汁冷めちゃうでしょ⁉︎」

 台所から響く叫び声。そんなに声を張り上げなくとも聴こえているぞ妹よ。

 と、御託を並べていたのだが、平日の朝から味噌汁なんて作ってくれていたのかと少し申し訳なく感じ、まだ眠たいながらにベッドを後にした。


 白米の向こう側に添えられたキムチのパックと納豆のパック。好きな方を選べというのにも、少し酷ではないか。早朝炊き立て白米には、基本おかずがなんでもあってしまうのだから、無論なんでも食べたい、全て食べたい。

 そうして、結局行き着いた先では、ご飯に卵と納豆をかけてキムチを添えた。これを贅沢と言わずしてなんと呼ぼうか、なんて考えながら醤油に手を伸ばした。

 ちなみに八雲家の納豆はひきわり一択。別に特別こだわっている訳ではないが、何故かひきわりなのだ。


 いつも通りの朝ごはんを食べ終えた後、昨日の出来事を不意に思い出し急に顔が火照り出した。昨日はなんでもなかった、というよりは、嬉しさその他諸々があまりに強すぎたのだろう。

 彼女と顔を合わせる事になる事が必然の空間が近づくせいか、そんな感情が唐突に蔓延り始める。

「いや……桜さん分かってくれてたし、何も心配しないで大丈夫だよね……」

 寝巻きを脱ぎ、畳の上に放り投げた後、いつもと同じように変わっていく自分の身体に呆れながら気怠げにセーラー服を手に取った。

 遮光カーテンの作る六畳は、空気そのものが重いようだ。布一枚噛ませていない己の絶壁に手を当て、俯いて嘲笑する。

 入学してから制服に強制されるスカートはかなり苦手だった。動きづらい上に何かと事故が起きやすい。それが何とは言わないが。

 やはり心は男と言えど多少羞恥心というものはあるにはある。

 というか、男だからこそ恥じている。

 それこそ体育の授業を受ける前に更衣が必要だ。そんな中一人心拍数を上げながら素早く着替え足早に去るいつもの姿は周りから見たら『少しおかしい』と言われても反論は出来なかった。

 それらも、この絶壁を見られたくないと理由付けして正当化させてきた訳なのだが。

 なんて考えていると、ランドセルを背負った妹が部屋の前を横切った。いつの間にかランドセルに相応した成長を遂げていた優香に、時の流れは早いなあとしんみりした空気を作ってみる。

「行ってきま……お姉ちゃんいつまで裸なの⁉︎早く服来てよ‼︎」

 盛大なノリツッコミだろうか。いや、乗ってはくれてない。普通に、行きがけに目に留まっただけだ。

 相談に乗ると言ってくれた頃の妹は少しらしくなかった。今こうして大声で指摘してくれてこそ、普段の彼女だと少し安心して無い胸を撫で下ろす。

「分かった分かった、今着るから……」

 素早く袖を通して首を出し、いつも通りの姿に戻った。この部屋にもそろそろ姿見を置くべきだろうか、なんて考えながら、洗面所へ向かった。

「いやお姉ちゃんスカート履いてないよ‼︎」

 指摘を受け、少し眠気が残っているのかと疑った。やっぱり姿見を置いた方がいいかもしれない。

 その後優香を見送って、スカートを履き、身嗜みを整え、自宅の鍵を閉める。不安を抱えたままではあるが、仕方なく学校へと向かった。

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