第110話 八つ当たりに殺し文句で返されたり

 お湯がたまっている間に、シャンプーとコンディショナーを使う。体を洗おうとしたときに、浴室のドアに芽生の影が映った。


「あおい」


 ドアの向こうから芽生が話しかけてくる。


「なに?」

「前菜みたいなの作ってつまんでるから、焦らないでゆっくり入ってていいよ」


 そう言ってもらえると、少しだけゆっくり浸かれそうだ。夕飯前にあまり長湯したら悪いと思っていたところだった。


「ありがと。シチューも先に食べてていいよ」

「そうする」


 待たれるとゆっくりできないと思ったんだろう。先に食べていてくれるなら、焦らなくて済む。芽生の返事はありがたかった。


「あおい」

「なに?」

「あとでわたしも入って掃除するから、お湯はためっぱなしでいいよ」

「うん。ありがとう」


 脱衣所から出ていくと思った芽生は、なかなかいなくならない。


「あおい」

「なに?」

「今日は、出血大サービスだから」


 出血大サービス? なんだ?


「なに?」

「全部あけっぱなしにしていいよ」


 え……?


「シャンプーもリンスも乳液も。全部蓋、あけっぱなしでいいよ。水道もシャワーも水出しっぱなし! 電気もつけっぱなし! 服も脱ぎっぱなし! 靴下も丸まったまま放りっぱなし。今日だけトクベツ! 換気扇もつけなくていいからね!」


 嫌味かよ! そこまでやったか私!? 

 なんでテレビショッピングの司会者みたいになってんだ。


「今日に限り、もうひとつサービス! 今日はお風呂の蓋もあけっぱなし! あけっぱなしでいいから」


 さっき私が変な事言ったせいだよな、これ。

 悪気は……ないんだよな? たぶん。


「あけっぱなしでいいから、今日は。あおい……」


 どうしよう。気持ち悪いぐらい優しい気がする。

 蓋をあけっぱなしにしろって、私言ったもんな。

 芽生が悪いわけじゃないのに。気にしてるんだよな。どうしよう。


「あおい」

「わかった。全部あけっぱなしにする。ありがとう」


 正直もう、なにをしたいのか自分でもわからない。これで返事合ってるかな。


「あおい、あのさ」


 なにか言おうとしたまま、芽生は次の言葉を言わない。


「……なに?」


 本当のところ、一人にしてもらいたいのは事実で。もう少し落ち着いたら、謝れそうなのに。本当なら、芽生にもっと、ありがとうって言って、謝ってもいいはずなのに。


「あおい」

「聞いてる。なに」


 芽生がすっと息を吸って、そのまま息を止める気配がした。


「あおい」

「だから、なにって」


 早く先を言え、先を。


「どれだけ迷惑かけてもいいよ。迷惑でいいよ。一緒にいてくれたら」

「…………」


 膨れ上がった、自分でわからない感情に、なんと返事していいかわからなくなった。


「め……」


 名前を呼びかけて、言葉を飲み込んだ。変なことを口走りそうで。


 誰とも同居なんかしないで、一人で部屋の中でのたれ死ぬぐらいが、私には相応しいんじゃないかと思いかけたところに。なんでそういう、……そういうことを、急に言うんだよ!


 それを言うために、わざわざ脱衣所に居座ったのか?


 ばかじゃないのかこいつ。


 無意識だから言えるんだろうが、心臓に悪い。勘違いしたらどうすんだよ。


 ……こんな、わけのわからない八つ当たりをするような人間に、そんなことを言って。

 私が変な依存しはじめたらどうすんだよ。こんなに気が合わないのに。


「シチュー食べてて」


 私は浴室のドアを少しだけ開けて、それだけ言った。

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