第89話 傷ついているのに気づいたり

 待ってて、と入力して、しばらくしてから、あおいからLIMEが入って来た。


 ――ごめん。ごはん、私の番だった。会社でトラブルあって、処理するから遅くなる。先になにか食べてて。焼きおにぎり勝手に食べていい。ほんとごめん


 トラブルか。珍しいな。

 あおいの焼きおにぎりが食べられるのか、あの不揃いな形の。それはそれで嬉しい。ジャケットに袖を通しながら、OKのスタンプを送る。短文も送る。


 ――気をつけて帰ってきなよ。


 ここ数年で、久しぶりに、あおい以外の人間を優先する気がする。いつものわたしなら、あおいの帰りの時間を聞く。時間によっては「トラブル処理大変だったね会」と称して外食に誘ったかもしれなかった。

 財布と携帯を適当な小さな鞄に突っ込んで靴を履く。


 そういえば、どっち側のホームにいるんだろう?

 チャット画面を確認すると通知が入っていた。


おつぼねぷりん:来ないでください


 ……来ないでください?


 その言葉を読んで、すぐに返信した。

 制止の言葉が、強めだったからだ。


 玄関を出て、突っ立ったまま、私は画面を眺めていた。


purinmania:どうして


おつぼねぷりん:会ってちゃんと謝りたい。でも、ちょっと、まだ


purinmania:それは本当にいいです。本当に怒ってない


おつぼねぷりん:今、変だから


 変だから行こうとしてるんだけど。全然大丈夫じゃなさそうだ。行って何ができるのかわからないが、何かできることがあればと思う。


purinmania:変でも大丈夫ですよ


 とりあえず、わたしは駅に向かって歩き始めた。

 信号待ちでトーク画面を見る。


おつぼねぷりん:嫌です


purinmania:嫌?


おつぼねぷりん:遠慮してるとかじゃなくて、今は来ないで欲しいです


 はっきりした書き方に、本当に来るなと伝えようとしていることがわかった。


おつぼねぷりん:プリンマニアさんに、会ってみたくてしょうがないけど、会いたくない、まだ


purinmania:どうして


おつぼねぷりん:プリンマニアさんに話せていない事が沢山あります。チャットでのやりとりでこんなに震えるのに、会ったら、話せなくなる


purinmania:一言も話さなくてもいいです


おつぼねぷりん:これからもってことです。チャットでもってことです


purinmania:これからも?


おつぼねぷりん:私は多分、リアルでは本当に話せない


おつぼねぷりん:今はまだ、リアルの人には話せないです。リアルでそのままを晒せば自分を消したくなりそうで


 どきっとした。この人、本当に今、たぶん、そのままの気持ちを話してる。


おつぼねぷりん:私がこういう事を話せるのはプリンマニアさんだけです。会ったら、これ以上話せなくなりそうで。まだリアルの人になってもらいたくない。プリンマニアさんともっと話したいんです


 ――リアルでそのままを晒せば自分を消したくなりそうで。

 傷ついているのは、自己像なのか。


 赤信号が青になった。わたしは渡るかわりに、脇の小道に入り、そこに据え付けられた木のベンチに座った。


 行かないほうがいい……か?


 さっきまでの文章を打つのに、おつぼねぷりんは、かなりの精神力を使っていたはずだった。短かい文字の羅列は、言葉を無理やり押し出すといった空気を醸していた。

 カムアウトできたのは、わたしが、ネットの知り合いにすぎないからだ。匿名だから。その条件で、やっと書けた。本来は、おつぼねぷりんの限界のラインを越えるような事だったのかもしれない。たぶん、まだ自分のなかで何の折り合いもついていないのだ。機が熟したから書いたのでも何でもなく、わたしに謝ろうとして無理に書いた。


 匿名だから話せることがある。

 それは、そうかもしれない。おつぼねぷりんは、怖がりだから。


 今のわたしができるのは、匿名のまま、顔を見せないままでいることなのかもしれない。


おつぼねぷりん:まだ、もう少し。あともう少ししたら、きっと大丈夫になる気がします。それまでは、まだ会わないでいたいです


purinmania:わかりました。行かないようにします


purinmania:でも、家についたら、一個だけスタンプ送ってください。遅い時間でもいいから。もし気がかわって、来てほしくなったら、言ってくださいね

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