第30話 いじられたり
その日の小林まどかは朝から機嫌が悪かった。ちょこちょこと周りのミスをつついては怒鳴っていた。
――小林やばいね。今日やばい。ねぇ、あおい目ぇつけられてるから、今日あまり話しかけないほうがいいよ。
周りの同僚もひそひそと囁いていた。
確かに。こういうときは、あまり話しかけないほうがいい。小林に聞きながら進めたかった仕事があったが、私はなるべく分からないところを箇条書きにして、完成に近づけて持っていくように努めた。
その日は電話が鳴りやまない日で、フロアの誰もが忙しさにいらだっていた。電話応対ばかりでちっとも仕事が進まない。結局小林に見せたかった書類は終業ぎりぎりに出来上がった。三日後提出だからどうにかなる。よし。
終業間際になっても、小林は明らかにいらついていた。私が書類を持っていくだけで目を吊り上げた。
「なに!?」
なにって何だよ。書類だよ。確認させろってあれだけ言ってた紙の束だよ、見てわかれよ。
「上長に上げる前に先輩が確認すると仰ってたもの、すみません、今出来上がったので。明日にしたほうがいいですか?」
「今出来たのに、なんで明日持ってくるのよ」
いやアンタが不機嫌だからだよ、何言ってんだ。余裕なさそうだから言ってんのに何だよ、生理前か?
仕方ないので書類を渡す。
小林は私の小脇に抱えているほうの束をじっとりと見た。
「ずれてる」
「はい?」
「その手に持ってるのは? ホチキスの位置がちょっとずつズレてる。そういうの気持ち悪い」
これは支店に郵送する用の束だ。わざとだよ。
言おうか迷った。
ホチキスで留めたせいで膨らみ、レターパックに入り切らない束は、上下逆さまにして入れる。それでもギリギリな場合、わざとホチキスの位置をずらして、なんとか入れる。今回はギリギリだと分かっていたから、わざとそうした。
「支店に送るものです。レターパックに入れたいので、わざとずらしてみました」
「わざと?」
言わなきゃよかったパターンかなこれ。
「あなた、前から思ってたんだけど」
前から?
「ズレてるの。あなた自身がズレてるから。自分の常識で考えるんじゃないよ」
自分の常識じゃねえよオマエが前に言ったんだよ! 支店宛てだったら身内なんだからホチキスの位置ずらしてでもレターパックに突っ込めって、オマエが言ったんだよぉぉぉ!!!
小林まどかは唇のはしをひん曲げて、私の顔からホチキスされた紙束へ視線を移した。
「あのさ、昨日、山内さんと食事してなかった?」
「へ?」
山内さん。エリートとまではいかないが将来を期待された、はきはきとして若々しい好青年。このフロアの社員で、四人くらいの飲み会を昨日やった。飲み会メンバーに入っていたから、食事したといえばしたことになるが……。
「山内さんが、天野さんと付き合ってることは知ってるよね?」
「はい」
昨日の飲み会のメンバーはまさに、山内さん、天野さん、関根さんと私の四人だった。二人が結婚することの報告を兼ねたものだった。
「天野さんと付き合ってる山内さんと、なんで食事とかしてんの? そういうとこがズレてんだわ」
「あ、いえ、山内さんとだけ食事してたわけじゃなくて、天野さんともしましたから」
「別々に二人と食事すればいいってもんじゃないんだわ」
べ……別々じゃないんだワ!!! 一緒なんだワ!!
トイレで他の二人が席を立った所を偶然見られたのかもしれない。
常識の権化と化したお局ほど面倒くさいものはない。そもそも勘違いだし。
「あんた、自分がズレてること、わかっといたほうがいい。常識ないってずっと言ってきたよね? 小さなことでいいから聞けって言ってきたよね? 相手の身になって考えるくせがついてないから仕事で失敗すんのよ。あんたがちょっとズレてるのは前からわかってたよ。でも、あまりにもなんていうの? 男女の? そういうのに疎すぎない? そういう常識がないんだよ。いっつも」
「…………」
小林まどか。こいつは今、私の地雷を踏んだ。
小林まどかを攻撃したくなる地雷でもあり、――私が怪我を負う地雷を。
私の体が、お腹と胸のあたりが、怒りと判断のつかないもので小さく震えるように揺れ始める。そのままその震えが、熱い感覚をもったまま涙腺へと上がって来たとき、このまま泣いてなるものかと思った。
「山内さんと天野さんと関根さんと私の四人で! 昨日食事しましたけど、何か!?」
フロア中に響くような大声で、私は小林に怒りの弾丸をぶち込んだ。
ざわざわしていた室内が一気にしんと静まり返った。
目の端に、二、三人こちらを見たのが映った。他の大人数は、自分のパソコンや書類を見ているが……多分こっちの様子を、目を使わずに伺っている。
わかっている。今、私はまさに「常識のない」声を使った。「常識のない」反応をしている。それをフロア中の人に見られている。そして今、そういう外野の反応はどうでもいい。常識がないから。
「常識がなくてすみませんでした!! お先に失礼します!!」
すみませんでした、の単語にありったけの怒りをぶつけた。謝っているようには絶対聞こえない言い方。追加の叫びに、震えがでそうだった。
私は自分の席に戻るとレターパックに紙束をぎゅうぎゅうと突っ込み、封をして、鞄を引っ掴むと会社を出た……大股で歩いて行って、集荷の遅いポストの入り口にレターパックを咥えさせ、そのままパックに回し蹴りを入れた。ガコンと音を立ててポストは郵便物を飲み込んだ。
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