第三章 10-2

 *     *     *


 通りを歩いている途中、不意にヒューベルトが振り返った。

「しかし、記憶喪失って本当にあるんだな」

 雑談の延長なのだろうが、「本当に」というのが引っかかってゼロは問い返す。

「どういう意味だ」

「どういうって、そのままだが。記憶喪失って言葉も意味も知っちゃいるが、その状態にある奴に会ったのは初めてだ」

「……なるほど」

 ヒューベルトの説明を聞いて、ゼロは一応納得した。ヒューベルトに悪気がないのはわかる。ゼロとて、自分がその状況になければ信じるのは難しいだろう。

(しかも、思い出せないのは自分のことだけだ……)

 物の名称や地理、歴史など、世界に関する基礎的な記憶は残っている。記憶喪失の症状には、言葉や歩き方、味覚をはじめ、すべてを忘れて赤子のようになってしまう場合もあるらしいので、その点は不幸中の幸いかも知れない。

 気がついたとき、傍にいたのはエルクだけだったが、ゼロにはエルクが誰なのかもわからなかった。そのエルクいわく、ゼロは生死の境を彷徨さまようほどの怪我だったらしい。眠り続けて目が覚めてみれば、何も覚えていなかった。

 エルクの話では、彼とゼロは旧知の仲というわけではなく、出会ったばかりで、友人でもなんでもないという。それなのに助けてくれた理由を問えば、「成り行きで」としか返ってこなかった。もしそれが本当なら、底抜けのお人好しだとゼロは思う。

 ゼロの持ち物は剣のみ、身元がわかるような物は何もなかったので、エルクが殆ど唯一持っていた情報―――怪我を負う前、ゼロと一緒に知り合いらしき少年少女がいて、少年はゼロを「ゼロ兄」と呼んでいた―――に一縷いちるの望みをかけて、弟かも知れない少年を捜すことにした。

 そのうちひょっこり記憶が戻るかも知れない、あまり思い詰めず気長に構えろとエルクは言うが、ゼロの胸中には不安よりも、理由のわからない焦燥感が常にある。

(何か、しなければならないことがあったはずなんだ)

 焦燥感の正体も、「しなければならないこと」も、いくら考えても思い出せない。こうしている間にも取り返しのつかないことになったらと思うと、叫び出したくなる。けれど、それがなんなのかは、やはり、わからない。

「ああ、ここだ」

 ヒューベルトの声でゼロは我に返った。見れば、長屋のように間口の狭い建物があり、戸が念入りに打ち付けられている。

「……どうやって入るんだ」

「そりゃ、これを外すに決まってるだろ」

 言いながらヒューベルトは、入り口の脇にある一抱えほどのたるから工具を取り出した。慣れた手つきで打ち付けられた板を剥がしていく。迷いのない様子からして、工房を長く開けるときは毎回こうしているのかもしれない。

 ややあって、剥がした板を脇に立てかけて、ヒューベルトが戸を開く。どうやら外鍵がないらしい。

「お邪魔します」

 律儀に断ってから中に入るエルクに続いて踏み込むと、土間の左手側に瓦礫としか思えないものが天井に届くほどまで積み上がっている。屋内に入ると急に暗くなり、ゼロはゴーグルを引き下ろした。

 ゼロが受けた長屋のようだという印象は間違っていなかったようで、部屋は奥へと伸びている。瓦礫の山をしげしげと見上げながら、エルクが感心したような声を上げた。

「凄いですね、これ。崩れてこないんですか?」

「崩れたらまあ、そん時はそん時だな。―――ゼロ」

 奥にある机の埃を払いながら呼ぶヒューベルトへ、ゼロは冷ややかな視線を向ける。

「支払いが先だ」

「堅いこと言うなよ」

「支、払、い、が、先、だ」

「しょうがねえな。適当に……」

「ああっ!?」

 突然エルクが大声を上げ、ゼロとヒューベルトは同時に振り返った。

「なんだ?」

「どうした」

「これ! これをどこで!?」

 ヒューベルトに食ってかかる勢いのエルクの手には、妙に有機的な形の金属かいが握られている。ヒューベルトがややりながら意外そうに眼を瞬いた。

「おお? エルク、それがなんだかわかるのか」

「わかります! どこで!」

「それはどこだったかな……西の森だったか。たまにいるんだ、金属と融合したような『混ざり物』が」

「やっぱり……こっちにはまだいるんですね!」

?」

 言い回しを不思議に思ったか、眉を顰めるヒューベルトへ、エルクは慌てた様子で付け加えた。

「あ、いえ。私の故郷ではもう殆ど見られなくなったものですから。狩り尽くされてしまったようで」

 ゼロは興味本位でエルクの手元をのぞき込んだ。片手でつかめる大きさの、鈍色にびいろに光る金属塊は、動物の骨を何種類も混ぜたような形をしている。

「なんなんだ、それ」

「生物と非生物の間のような、不思議な金属です。これがとれる鉱山はいまだ発見されていなくて、寄生体から剥ぐしか入手方法がありません」

 エルクの説明を要約すると、こうだ。

 希少種や危険種、動物や植物など、種類を問わず、身体の一部が金属化した個体が極稀ごくまれに見つかる。まるで金属に寄生されているように見えることから、それらは「寄生体」と呼ばれるようになった。動物の「寄生体」の場合、例外なく非常に攻撃的なので、安全面からも狩られて数を減らし、今では絶滅したとさえ言われている。

「そう。しなやかで丈夫、異様に加工しやすいってんで、ついた名前が自在金属ミスリクロムだ。―――やたらに詳しいな、エルク。『寄生体』なんてのは俺は初めて聞いたぞ。確かにそう見えなくもないが」

 言われて我に返ったか、エルクは一度口を閉じて、落ちてもいない眼鏡を押し上げた。

「……工作が趣味でして」

「工作ねえ?」

「私の周りでは、『寄生体』と呼ばれていたんですよ。誰も生きているのを見たことがないので、半分、伝説みたいな扱いでしたが」

「誰も見たことがねえって、生粋の都会育ちか? 職人には見えないがな」

「こう見えて手先は器用なんです」

 笑んでうそぶき、エルクは金属塊を掲げた。

「代金の代わりにこれをいただけませんか? いいでしょう、ゼロ」

 話を振られたゼロは、内心顔をしかめた。交渉するのにそれは悪手だ。足下を見られるに決まっている。

「待て待て待て。勝手に進めんな、それなら逆に俺が金を貰わないと釣り合わねえな」

 ヒューベルトはいい獲物を見つけたとでも言うように、にやりと片頬だけで笑う。

(ほら来た)

 こういった交渉事には慣れていないのか、エルクは真面目に受け答えをする。

「いくらです?」

「エルク。駄目だ」

 このままでは本当に財布を出してしまいそうなので、ゼロは慌てて止めた。ヒューベルトは人の悪い笑みを浮かべたまま言う。

「そうだな。ゼロの剣を俺に預けてくれるなら、無料でくれてやってもいいぜ」

 そっちの方向から来ると思わず、ゼロはぎょっとヒューベルトを振り返る。

「冗談じゃない」

「直してやるっつってんのに、わからねえ奴だな。いいだろ、減るもんでもなし」

 ヒューベルトの言い方が癇に障り、ゼロは舌打ちを堪えて睨み付けた。

「あんた、賭博師ギャンブラーの他に鍛冶屋か何かをやっているんだろう」

「あん? まあな」

「命より大切な仕事道具を、会って数日の得体の知れない相手に渡してもいいと思うか?」

「……ま、無理だわな」

「だったら」

「わかった、わーかった。悪かったよ、怒るな」

 発言を取り消すとばかりに片手を振り、ヒューベルトは愉快そうにゼロの剣を指さした。

「しかし、ゼロ。おまえさん、その剣は命よりも大切か」

「そ……」

 ゼロは思わず絶句する。命よりとは考えずに出た言葉だが、たしかに、この剣は絶対に手放してはいけない気がする。

(……その理由もわからないというのに)

 記憶がないと言うことは、土台がないということだ。そう感じる。そんな気がする。その由来はわからない。その感情がどこから来ているものなのか、わからない。

 ゼロの内心の戸惑いを知ってか知らずか、ヒューベルトは続ける。

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