三章 8-1

 8


夜千ヤチ殿」

 呼び止めれば、滑るように廊下を歩いていた侍女頭は大儀そうに振り返った。

「なんでしょうか、義晋ギシン様」

 夜千はにこやかに応じるが、顔をこちらに向けた瞬間、しかめた顔を元に戻したのを義晋は見逃さなかった。そのことは頭の中に刻みつつ、尋ねる。

「例の件、陛下は何と?」

「例の件とは、何でございましょう」

 笑顔でうそぶく夜千に、舌打ちをしたくなりながら義晋は声を潜めて言う。

「『若様』との『会食』のことだ」

「そのことでしたら、断っておくようにと仰せでした」

「やはりか」

 想像と違わぬ答えではあったが、失望は否めない。あの女王がここで是と言うような気性でないことは重々承知の上で、承諾がないと困るのだ。―――もう、話が進んでしまっている。

「陛下を説得するのは、そなたの役目であろう。早急になんとかせよ」

「そう仰いましても……陛下は心底『若様』をお嫌いのご様子。お嫌いと言うよりは、ご興味がおありでないと申し上げた方が正確でしょうが」

「だから、そこをなんとかせよと申しておる」

「美しいかんざしにも、目を見張る反物たんものにも見向きもなさらない御心みこころを、どうご説得申し上げれば良いやら。ましてや、帝国は今や敵ですもの。雷国らいこくノールレイとの会談とはわけが違います」

 ノールレイの国名が出て、義晋は僅かに眉を寄せた。

「よもや、ノールレイからの会談の要請を陛下のお耳に入れたのではあるまいな」

「いいえ、わたくしの口からは何も。……しかし、よろしいのですか? いかなノールレイ国といえど、会談を拒み続けては支援を打ち切られてしまうのでは」

 そうなったらそうなったで、帝国へ着く理由の一つになろうと義晋は考えているが、無論、口には出さない。政を取り仕切る殿上人の中に、親帝国派は半数ほどしかいない。もう少し増やさねば表だった行動は危険だ。

「何、無視をしているわけではない。陛下が応じられぬというだけだ、仕方あるまい」

「陛下は、ノールレイとの会談であればお出ましになると思うのですが……」

「会談が成ったとして、なんとする。もっと支援を増やして欲しいと強請ねだるのか。夜千殿は、玄耀げんようの恥を晒すつもりか」

 夜千は困惑した様子で首を左右に振った。

「そのようなことは……ただ、我が国は神擁七国しんようななこくが一国、よしみを結ぶのであれば雷国ノールレイの方が」

「外交というものは、そう単純なものではない。わきまえよ」

 遮れば、夜千は口をつぐんで不満げに小さく息をついだ。

「……差し出がましいことを申しました」

「とにかく、そなたは陛下の説得を急げ。またとない機会なのだからな」

 一方的に打ち切り、義晋はきびすを返して歩き出した。柱を蹴り飛ばしたくなる衝動をこらえる。

(まったく忌々しい。何故、この私が小娘に振り回されなければならんのだ)

 闇の継承者であり、女王という立場にありながら駆け落ちという、前代未聞のことをしでかした色狂いの母親よりは幾分ましかと思っていたが、娘も娘で愚鈍だ。紋章持ちだからというだけで女王に担ぎ上げられている小娘には、まつりごとなどわからぬのだろうと、義晋は隠しもせずに舌打ちをした。

(なんとかして女王と第一皇子を会わせなければ)

 どういうわけか、第一皇子クローディスは、闇国あんこく玄耀女王螺伽らかに会いたがっている。相手は新興国の皇子風情、本来ならば謁見を申し込んでくるのが筋だろうが、背に腹は代えられない。スヴァルド帝国は玄耀と比肩する国であると示したいのかも知れない。

(この面倒も、あの小娘が闇の紋章持ちでさえなければ……)

 そこまで考えてふと思いつき、義晋は口元に手を当てた。

(いっそ、消してしまうのも手ではないか?)

 邪魔なものは避けてしまえばよい。義晋はこれまでもそうしてきた。幸い、螺伽に子はいない。絶やしてしまうのは造作も無いことだろう。気付いてみれば、何故今まで思い至らなかったのだろうと不思議に感じる。

(いや……それで次はどこに継承者が現れるかわからんか。精霊が選ぶ血だからな)

 紋章が確実に継承されるのは親子のみで、子を持たず継承者が死んだ場合は、近い血縁が残っていればそのどこかに、いなければまったくの他人から選ばれる。基準や法則は知られていない。そういったものがあるのかもわからない。

(血縁を囲っておくか? 数を絞れば紋章が現れる先も限られよう)

 だんだんと算段が見えてきて、義晋はうっそりと笑みを浮かべた。

(無理難題にも賢く立ち回るのが能吏というものよ)

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