三章 5-2

「失礼いたします、バルトロ様」

 呼ばれてバルトロは思索から引き戻された。振り返ると、薬箱を手にしたフィアルカが立っている。

「なんじゃ。様なぞつけぬでいいと言っているのに」

 バルトロの正体を知ってから、フィアルカの態度は貴人に対するそれになった。隠居のじじいだから敬語など不要と何度言っても改めない。こっちはこっちで相当な頑固者だ。

「薬箱、ありがとうございました。お薬を煎じているのでしたら、お手伝いさせてください」

「あとはしばらく煮出すだけだから大丈夫じゃよ。薬箱はそこの棚においといてくれ。アルクス殿下は?」

「走って来ると仰って出て行かれました。少しお休みになってほしかったのですが……」

「元気が有り余っているようじゃの。順調に回復している証拠だ」

 バルトロが頷いてみせると、フィアルカは困ったような笑みを浮かべた。安静にしていて欲しいのに、言うことを聞かず飛び出してしまった弟を案じる姉のようだ。

「フィアルカ嬢。少し時間があるなら、煮出すのを待つ間じじいの話し相手になってはくれんかね」

「はい、わたくしでよろしければ喜んで」

 笑んで頷くフィアルカに頷き返し、バルトロは壁際に避けてあった丸太を輪切りにしただけの腰掛けを引っ張って来る。

「かたじけない。これにかけなさい」

「いいえ、こちらこそ。ありがとうございます」

 礼を言いながらフィアルカは、丸木椅子を引き摺って少し離れた場所に据えた。なぜそんなところに、と思ったが、少し考えて理由を察し、バルトロは顎を撫でる。

(火の継承者なのに火が怖いか? ふむ……)

 家事は進んで請け負ってくれるフィアルカが、炊事を嫌がる様子はないので、あるいは今のも無意識なのかも知れない。

「フィアルカ嬢は、アルクス殿下の侍女なのじゃったか」

「はい。……とはいえ、リュングダール陛下が、アルドラ人ですらないわたくしをアルクス殿下のお側に置いてくださったのは、わたくしが火の継承者だからですが」

 独白のように言って目を伏せるフィアルカに、バルトロは尋ねる。

「何故そう思うんだね」

「わたくしだけではなく、他にも侍女や侍従がいました。皆様、高貴な出自の方々ばかりで……わたくしのような者は、一人も」

 推測でしかないが、フィアルカはアルドラ王城の最奥さいおうで、しかもアルクスに最も近しい侍女でいることで、随分と辛酸を舐めてきたらしい。過剰に出自を気にするのもそのせいかもしれない。そしてそれを、誰にも―――特にアルクスには悟らせることなく。

(火の継承者とはいえつ国の平民の娘が、さも王子の姉のような扱いをされていたら、元々王家に仕えていた者には面白くないじゃろう。フィアルカ嬢のせいではないのだが)

 それは周りの人々もわかっていたに違いない。それでも人の心ははままならないものだ。

「よければ、城にいた頃……帝国が仕掛けてくる前、アルクス殿下がどういう少年だったか、聞かせてくれるかの」

 問えば、フィアルカは一つ目を瞬いて、言葉を選ぶ素振りを見せながら語り出した。

「とても、お優しい……今もそうですけれど、誰も分け隔てすることなく、その場にいらっしゃるだけで皆が笑顔になってしまうような……わたくしどもの気持ちまで明るくしてくださるような、そういうおかたです」

 頷きながらバルトロは、その優しさあだとなって、他人を切り捨てられないのだろうと考える。優しいのはいいことだが、取捨選択と、優先順位をつけるのは不可欠だ。腕は二本しかないのだから、こぼれ落ちるものが必ず出る。アルクスは、そのことを受け入れるところから始めなければならない。

「なるどほの。アルクス殿下に兄弟姉妹はおらんのだったか。従兄弟いとこもか?」

「はい、ご兄弟はいらっしゃいません。ご親戚は、リュングダール陛下の妹君のお子様がたと、今は亡き弟君のお子様がたがいらっしゃいます」

 アルドラ王妃は早くに亡くなったと聞いているが、後添えも側室もめとらなかったらしい。国王にしては珍しいことだと、バルトロは首を捻る。

 継承者を王とする国で、王位継承争いは起きづらい。紋章という、目に見える形での継承の正当性を表すものがあるからだ。簒奪さんだつしようと思えば、自分の順が巡ってくるまで継承者を殺し続けるしかない。とはいえ、世継ぎを作るのも国王の仕事の内だ。物事に絶対はない。子がたった一人だけで、不安に思わなかったのだろうか、周囲は何も言わなかったのだろうかと疑問に思う。

(まあ、他国の事情はわからんからな。側室はおらずとも、落胤らくいんがどこかにいるのかもしれん)

 口に出したら方々ほうぼうから怒られそうなことを考え、バルトロはつと立ち上がって鍋をのぞき込んだ。順調に煮出されていることを確かめ、火加減をして椅子に戻る。すると、フィアルカが遠慮がちに口を開いた。

「あの……バルトロ様」

「なんだね」

「わたくしに、調薬を教えていただけませんでしょうか」

 申し出を意外に思っていると、顔に出てしまったか、フィアルカが急いだ様子で付け加える。

「勿論、バルトロ様がよろしければ。―――申し訳ありません、差し出がましい真似を」

 一瞬でどこまで考えたか、頭を下げ始めるフィアルカに苦笑し、バルトロはかぶりを振った。

「まだ何も言っとらんぞ。見ての通り、弟子や後継はおらんでな。フィアルカ嬢が教わってくれるなら、願ったり叶ったりじゃ」

「ありがとうございます」

「しかし、大丈夫かね」

「なんでしょうか?」

「おぬし、火が怖いのではないか」

 フィアルカはひゅっと息を飲み、それが失敗だったとでも言うように眉根を寄せた。

「……そんなに、態度に出ておりましたでしょうか」

「いいや、そんな気がしたという程度じゃ。アルクス殿下は気付いておらんだろう」

 告げれば、フィアルカは安心したように小さく息をついた。彼女の優先順位はやはり、アルクスが最も高いのだということを実感し、バルトロは複雑になる。

「火が恐ろしいのなら、煮炊きは辛かっただろう。すまぬことをしたな」

「とんでもないことでございます。バルトロ様がお謝りになることではありません」

 慌てた様子で言い、迷いを含んだ沈黙の後に、フィアルカは改めて口を開いた。

「……焚火や竈くらいなら平気なので、恐怖症というわけではないのだと思います。怖いのは……もっと大きな、炎です」

 燃え盛る炎が恐ろしいのだと、消え入りそうな声でフィアルカは語った。

「火の継承者なのに、炎が怖いだなんて……本来ならば、わたくしにアルクス殿下のお側にある資格はありません」

「何を言う。火の継承者であることと、炎が怖いことは矛盾せんじゃろ。それにな、誰かの傍らにいるのに資格なぞ不要じゃて」

「お言葉ですが、わたくしがアルクス殿下のお側にいることが許されているのは、火の継承者であるからに他なりません。……本当に、どうして紋章は……」

「紋章は、なんじゃ?」

「いえ……レイツェル猊下げいかのお言葉を思い出しました。精霊のことわりを、人間が計れるわけがないと」

「ほう。レイ坊がそんなことをのう」

 レイツェルの口からそのような言葉が出るとは、あの小生意気な少年が随分成長したものだと、バルトロはひっそりと感動した。

 幼い頃のレイツェルは、どちらかというといにしえからの慣習に懐疑的だった。無論、水皇すいこうという立場上、声高に疑問を投げかけるわけにはいかない。その分、内に秘めた鬱屈は根深いものがあった。今のフィアルカもまた、昔のレイツェルと同じだろう。抱いた疑問を口に出すことはできず、否定することもできない。

(ややもすると、フィアルカ嬢のほうが根が深いのかもしれんな)

 どうしても、周囲の目はアルドラ王子であるアルクスに向きがちだ。王城では、特にそうだろう。フィアルカは、抱えたものを一人で飲み込むしかなかったのかも知れない。

「そうじゃのう、精霊の考えなど儂らにはわからぬ。人には人の、精霊には精霊の理がある。それでよいのじゃ」

 バルトロの言葉を肯定も否定もせずに、フィアルカは曖昧な笑みを浮かべた。その表情からして、このことは彼女の中でまだ折り合いがついていないと判断し、バルトロは話を変えることにした。

「フィアルカ嬢は、何がきっかけで炎を恐ろしいと思うようになったんじゃ」

「それは……」

 言い淀んだフィアルカへ、バルトロは告げる。

「ああ、話したくないのならよい。余計なことを言ったな」

「……いいえ」

 目を伏せて逡巡を見せたフィアルカは、おもむろに顔を上げて口を開いた。

「厚かましいことを申しますが……これからお話しすることは、ここだけの話しにしてくださいますでしょうか」

「うむ。外には漏らさぬと約束しよう」

 ありがとうございます、と呟いて、フィアルカは再び俯いてしまった。爪先を見つめるようにして、ぽつりぽつりと落とすように話し始める。

「わたくしは……、故郷を、焼いたのです。……紋章の力で」

「……なんと」

 フィアルカの話によると、彼女が三つの頃、炎国えんこくミルザムは帝国の侵略を受けた。王族や貴族は皆殺しにされ、血が絶える。紋章が次に選んだのがフィアルカだった。

 帝国軍はフィアルカの村まで押し寄せて、村は戦場になった。巻き込まれたフィアルカは、目の前で行われる破壊に衝撃を受けて炎を暴走させ、帝国軍ごと彼女の故郷を焼いてしまった。察知したリュングダールによって救い出されなければ、フィアルカも村と共に焼けていただろう。

「わたくしは火の継承者なので……、王城で保護していただくことになりました。しばらくしてアルクス殿下がお生まれになって、それから侍女としてお仕えすることに……とはいえ、わたくしに何ができるわけでもなかったのですが」

「あんまり自分を卑下するものではない。フィアルカ嬢が傍にいることで、アルクス殿下は随分救われたんじゃないかね」

 フィアルカは、小さくかぶりを振る。

「救われていたのは、わたくしのほうです。リュングダール陛下とアルクス殿下には、返しきれないほどのご恩があります。……恐れ多いことですが」

「恐れ多いということはないじゃろ。ちなみに、フィアルカ嬢のご家族は?」

 問えば、フィアルカはほんの少しだけ視線を泳がせた。

「……両親と、兄か姉がいたことは朧気に……けれど、行方はわかりません。帝国兵が攻めてきたときに、はぐれてそのまま……どこかで元気にしてくれているといいのですが」

 言葉とは裏腹に、フィアルカは家族が健在だとは信じていない声音で言う。当時の惨状を知らないバルトロの言葉など、気休めにもならないだろう。

「そうか……すまなかった、辛い話をさせてしもうたな」

「とんでもないことでございます。この話を、どなたかに聞いていただいたのは初めてで……少し、気持ちが軽くなった気がします」

 ありがとうございます、とフィアルカは頭を下げた。礼を言われることではないので、バルトロは首を左右に振る。

(フィアルカ嬢の中にある怯えと、後ろめたさ……負い目かの。それの正体はわかったが……)

 彼女が語ったことに、偽りはないだろう。しかし、まったくの真実でもないような印象を、バルトロは受けた。それは無理からぬことで、会って半月ほどの得体の知れない老爺ろうやにここまで話してくれたことが僥倖だ。

「じじいでよければ、いつでも話し相手になるからの」

「そんな、勿体ない。わたくしの話し相手など、バルトロ様には役不足です」

「では、じじいの話を聞いておくれ。―――そろそろいいかな」

 バルトロは立ち上がり、鍋の中をのぞき込んで火から下ろした。

「どれ、では手始めに、この水薬の作り方から教えて進ぜよう」

 振り返りながら言うと、フィアルカはぱっと顔を上げて嬉しそうに立ち上がった。

「はい、是非お願いいたします」

 思わずといったふうに零れた笑みは、バルトロが初めて見るもので、作ったものでも、愛想笑いでもない、フィアルカの素の表情なのだろう。この顔が、気兼ねなくできるようになればいいと思いつつ笑みを返し、柄杓を手にバルトロは鍋に向き直った。薬草を詰めた麻袋を取り出していると、背後から声が掛かる。

「あの……バルトロ様」

「なんだね」

「ご迷惑でなければ、もう一つ教えていただきたいことがあるのです」

「迷惑などあるかね。なんじゃ?」

「……紋章の力を制御する琉方法を、ご教授願えませんでしょうか」

 申し出が意外で言葉を返せずいると、彼女は思い詰めた表情で続ける。

「また暴走させてしまったらと思うと、力を使うのは躊躇われて……ですが、これからはそんなことを言っていられる場合ではないと思うのです」

「ふむ……」

 考える時間を作るために、バルトロは鍋をかき回す。レイツェルを教えた経験はあるが、小生意気な少年と思い詰めた侍女では、持てる知識も考え方もまったく違うだろう。

「教えたいのは山々じゃが、儂は『継承者』ではないからのう。紋章の力を制御することについて教えられることは殆ど無い」

「そうですか……」

「だから、レイ坊に薦めた本を教えよう。出しておくで、ここにいる間、読んでもいいし、読まんでもいい。あとは、レイ坊本人に聞くのが早そうじゃな。―――何、遠慮することはない。あの子も『お茶会』を休む口実ができて喜ぶじゃろう」

 フィアルカの表情を読んで先回りすれば、彼女は目を瞬いて困ったような笑みを浮かべた。

「儂から伝えておく。水都に戻ったらレイ坊を取っ捕まえるとよい。向こうからやってくるかもしれんがのう」

 何せ、レイツェルは「お茶会」を回避するためにあれこれと知恵を絞っている。水皇の勤めだと割り切っているようだが、出なくてよい理由があればそちらに飛びつくだろう。

「ありがとうございます。何から何まで」

「そこまで言われるほどのことはしとらんよ。その皿をとってくれんか」

「はい」

 フィアルカが差し出した更に、バルトロは取り出した麻袋をのせた。開いてみるよう促す。中身は薬草を組み合わせたものだ。

「四種類入っとる。わかるかね?」

「ええと……、リムデ草とキカヤの蕾……ソミリカの葉、ケール草でしょうか」

「おお、正解じゃ。さすが、詳しいのう。儂の教えることはないかもしれんな」

「そんな、たまたまです。この四つを組み合わせるとどのような薬効があるのですか? キカヤの蕾が多いような気がしますが」

 先程、身の上話をしていたときとは打って変わって、研究者のような顔つきになるフィアルカに、バルトロは思わず笑む。彼女は、己を認め、いたわる方法を知らないだけなのだ。

(他人のためになるようなことなら頑張れてしまう……自罰感情が強い。過去をかんがみれば仕方ないのかもしれんが……他人の前にまず自分だと気付かなければ)

 こればかりは、他者が言葉を尽くしても届かない。フィアルカ自身が気付き、改めるしかない。いつか―――できれば、近いうちに―――彼女が気付いてくれるよう、バルトロは祈りにも似たような気持ちで思った。

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