三章 5-1

 5


「痛てて……」

 手当をされながら顔をしかめるアルクスを見て、フィアルカは傷に響かないよう慎重に包帯を結んだ。

「本当に大丈夫?」

「うん。バルトロさん、加減が上手いから。セギン将軍を思い出したよ」

 セギンは雷国らいこくノールレイの将軍である。アルドラ国王リュングダールの旧知であることもあり、一時期アルクスの剣術指南役をしていた。

 セギンは主に剣術だったが、バルトロとアルクスを見ていると、武器は使わず体術の稽古が多い。教えを受けたというレイツェルも組み手でアルクスを圧倒していたし、バルトロが得意とするのは徒手空拳に特化した武術なのだろう。

「あ痛て」

「ご、ごめんなさい」

 アルクスが呟き、フィアルカは軟膏なんこうを塗っていた手を止めた。元導師、現在は薬師と言うだけあり、ここにある薬は全てバルトロのお手製だという。

「ううん、大丈夫」

「やっぱり治したほうが……」

「大丈夫だって。大怪我以外は魔法で治すのは控えた方がいいって、バルトロさんが言ってただろ」

「聞いたわ。でも、痛むのなら治してしまった方がいいと思うのだけれど」

「魔法に慣れちゃうと、怪我しても魔法で治してもらえばいいやって思っちゃうから。……と言うか、思ってたから」

 アルクスは恥じ入るようにぼそりと付け足す。しかし、すぐにぱっと顔を上げて笑んだ。

「今度、手当のしかたを詳しく教えてよ。自分で手当てできるならやりたいし、他の人が怪我したときに手当てできるように」

「ええ、勿論よ」

 頷き、フィアルカも笑い返す。

 バルトロのもとで学ぶようになってから、アルクスは目に見えて明るくなった。城にいた頃を思わせる笑顔も増えて、落ち延びてからずっと気を張って無理をしていたのだということを痛感する。

(バルトロ様にはいくら感謝しても足りないわ)

 ここに来られなかったら―――レイツェルの提案を受けなかったら、早晩、アルクスは潰れてしまっていたかもしれない。そして、フィアルカはきっと、それを防げなかった。寄り添うと言えば聞こえはいいが、実際は楽な方へ流れているだけだ。道を外れようとしている主を、いさめて翻意ほんいさせるよりも、何も考えず盲従してしまった方が楽に決まっている。

(わたしには、壊すことしかできない……)

 ため息が零れそうになって、フィアルカは首を左右に振った。己の憂いなどという、取るに足らないことで思い悩んでいる暇はない。もっと建設的なことに時間を使わねばならない。

(……バルトロ様は、薬の作り方を教えてくださるかしら)

 バルトロに教えを請いたいことは山ほどある。シェリアークの都へ帰るのは、もう少し先になるだろう。


 *     *     *


 フィアルカに手当てされているアルクスの様子を、薬草をせんじながらそれとなく見ていたバルトロは、知らず笑みを浮かべた。

(良い方向へ向かっているようだの。ここへ来たときはどうしてくれようかと思ったが)

 笑みを微かに苦いものに変えつつ、バルトロはつい数日前を思い出す。



「……これは鍛え甲斐がありそうじゃ」

 バルトロが思わず呟くと、語り終えたアルクスは一つ目を瞬いた。

「稽古をつけてくれるってことですか?」

「いや……まあ、稽古はつけてやらんこともないが……ふむ」

 言葉を探し、バルトロは顎をさする。

 泣き止んだアルクスの口から、ことここに至るまでのことを改めて聞いていたのだが、口を挟まないようにするには結構な忍耐が必要だった。

 アルクスは、剣術の基礎は身についており、武芸の腕を磨くだけならばそれほど苦労はしないだろう。問題は、良くも悪くも真っ直ぐな、心の在りようにある。言葉を選ばず言えば、驚くほど甘い。潔癖と言い換えてもいいかもしれない

(王城など魔窟じゃろうに、よくもまあ歪まず育ったものだ。よほど周囲を信のおける者で固めたんじゃろうの)

 その筆頭が、度々たびたび話に出て来る「ゼロ兄」と、今もくりやから心配そうにこちらを伺っているフィアルカだろう。リュングダールは、一人息子を真綿にくるむようにして大切に大切にしていたらしい。

 しかし、立場ある者が我が身をかえりみないのは問題だ。村での少女誘拐の一件など、どう考えてもディゼルトとフィアルカの言い分が正しい。よわい十五の子どもには酷かもしれないが、アルクスは、護衛に自分を守って死ねと命令して、一目散に水国すいこくシェリアークを目指すべきだった。結果として亡命には成功したが、これは最早、運が良かっただけに過ぎない。実際、フィアルカ以外の手勢を全員失っている。

(レイ坊とはまた違った厄介さだの。レイ坊はまだ己の「力」に自覚的じゃったが、アルクス殿下は無自覚じゃからのう)

 バルトロ個人としては、素直な少年のまま育って欲しいと思うが、一国の王子、光の継承者にして光国こうこくアルドラの世継ぎとしては、そうも言っていられまい。

「久方ぶりに腕が鳴るわい」

「え」

 目を瞬くアルクスが言葉の意味を理解する前にと、バルトロは笑みを向けた。

「では、アルクス殿下」

「は、はい」

 バルトロは席を立ち、つられるように立ち上がったアルクスを外へ促す。

「好きな動物はいるかね」

「動物……犬でしょうか」

「犬か。犬はいいな、一度主と定めれば忠義を尽くす。―――ちょっと待っておれ」

 庭先に出たバルトロは壁に立てかけられていた箒を手に取った。逆さにしてで地面に魔法円を描く。それを眺めながら、アルクスが首をかしげた。

「何かを召喚するんですか?」

「おお、よくわかったな」

 魔法の基礎も身についているらしいと、バルトロは頷く。話していても教養のなさは感じられないので、武芸のみならず学問もきちんとおさめてきたのだろう。その上で今のアルクスがあるのだから、一からの鍛え直しが必要だ。

(帝王学だけ教えられなかったというのは考え難い。フィアルカ嬢に当時の様子も訊いてみるか……)

 魔法円を描き終え、バルトロは数歩下がった。箒を杖代わりに呪を唱えながら地面を突く。

「アッシュ、ベオーク、エオー。ラド、ラド、ダエグ!」

 滲むように光り出した魔法円は光量を増し、すぐに目を開けていられないほどになる。束の間、光が収まるとそこには、水を固めたような鹿が三頭、現れていた。

「犬……じゃない!」

「なんじゃ。犬がよかったか」

「訊かれたので、てっきり犬が出て来るものと……」

「そりゃ、好きな動物に追い回されるのは、いやかと思うてな」

 アルクスは一瞬動きを止め、錆付いた鎧のような動きで首をかしげた。

「……追い回される?」

「うむ。長く座って喋っていたで、少し運動したいじゃろ。ちょっと山の中で追いかけっこをしておいで」

「ええ!?」

「三十数えたら、こ奴らは動き出す。四半刻にしようかの、逃げ切れればアルクス殿下の勝ちじゃ。夕餉を一品多くしてしんぜよう。ではゆくぞ」

「ま、待ってください!」

「待たぬ。いーち、にーい、さーん」

「心の準備がー!」

 戸惑いながらも、アルクスは森の中へと駆け出していった。山はぐるりと結界で囲んであり、今は誰も出入りできないようにしてあるので、危険なことはないだろう。

 結界の内側ならば、ある程度の動向は察知できる。迷子になってもすぐに見つけられるはずだ。魔法障壁と似ているが、バルトロにできるのは、この小さな山を囲む程度がせいぜいだ。「要」が必要とは言え、国一つを覆ってしまう障壁を展開できる継承者が並外れているのだ。

 それもそのはず、継承者は世界に七人しかいない。その力は文字通り一騎当千、継承者に対抗できるのは継承者のみと言われる。彼らが手を結べば誰も太刀打ちできなくなるがゆえに、各国に一人ずつという状況が丁度良かったのだろう―――帝国が攻め込んでくる前までは。

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