三章 4-1
4
「
弾むような侍女頭の声に、螺伽は目も上げずに応える。
「そうか」
「それと、『若様』から『ご会食』のお誘いも」
これには舌打ちを堪えねばならなかった。忌々しく思いながら手元の書面から目を離し、顔を上げれば、侍女頭はにこにこと書状を差し出している。
「そんな暇はない。断っておけ」
「そう仰らずに。この間もお断りになったではありませんか、一度だけでも……」
「必要ない。あまりにしつこいなら扶翼ごと返してやれ」
月に一度だった「扶翼」が、最近は感覚が狭まり半月に一度になりつつある。螺伽個人への贈り物を勘定すれば、十日に一回は何かしら届いている。スヴァルド帝国も、何やら焦ることがあるらしいと螺伽は鼻を鳴らした。味方面をし、「扶翼」などと称して一方的に物資を送りつけてくるのが気に入らない。それ以上に、不要だと突き返せない自国の現状―――己の不甲斐なさに腹が立つ。
(だから、最初から断っておけと言うのだ)
五年前もそうだ。あの年の夏は寒く、米が不作で酷い飢饉になるのが確実だった。螺伽はまだほんの十五の小娘で、帝国の「人道的支援」を、
そこで一度、帝国とは手を切ったはずだった。しかし、手を変え品を変え、どうにか懐に入り込んでこようとする。帝国としては、今後に備えて玄耀を
ノールレイとの一件で、玄耀は
(保身しか考えぬ老害どもめ)
先代玄耀女王―――螺伽の母、
「螺伽様、どうか」
「断れと言った。二度言わせるな」
「
「
久方ぶりに名を呼べば、侍女頭は言葉を途切れさせて目を見開いた。
「これが最後だ。―――断っておけ」
「……御意」
夜千が引き下がると、後はもう誰も口を開かない。ようやく静かになったと息をついて、螺伽は書面に目を戻した。しかし、腹が立っているせいで内容が頭に入ってこない。
夜千たちが言う「若様」とは、スヴァルド帝国の第一皇子クローディス・ゼタ・スヴァルドである。現在、最も帝位に近く、妻子もいるというのに螺伽へ度々「会食」の誘いがある。玄耀に首輪をつけておくために螺伽を
(たかだか百年程度しか歴史のない国の皇子風情が……)
また、夜千をはじめとして「会食」を進める動きがあるのも螺伽には度し難い。
(国家間のことを個人の感情で動かしていいはずがない)
『それだけ困窮に
「……っ」
不意に声が聞こえて、螺伽は顔を上げて息を飲んだ。異変に気付いた夜千が怪訝そうな表情になる。
「螺伽様、どうなさいました」
「……なんでもない」
『なんでもないか? そうかそうか』
平静を装って顔を伏せた螺伽の耳を、笑い混じりの声が
「皆、外に出よ。呼ぶまで誰も入れるな」
侍女たちは不安げに顔を見交わしたが、何も言わずしずしずと退室して行った。最後に護衛が
「……
呟けば、声はくつくつと笑う。
『おや、聞こえてしまったか』
嘯く橡鴉に、思わず舌打ちしそうになるのをすんでの所で堪える。精霊の機嫌を損ねては、何をされるかわからない。
『何、退屈で出てきただけだ。気にするでない』
「そうも参りませぬ。橡鴉様の
『ふん。心にもないことを』
社交辞令のようなものなので、鼻で笑われても螺伽が動じることはない。橡鴉―――
『しかし、側近が主たる女王に身売りを
「お見苦しいものをお目にかけました。平にご容赦くださいませ」
『我は構わぬ。―――先程も言ったが、あれらは困窮に倦いておるのだろう。帝国に
螺伽は応えず、静かに拳を握りしめた。
(帝国に降ったとて、神擁七国との戦の盾にされるだけであろうが……!)
心中を読んだわけではないだろうが、橡鴉は笑みを含んだ声音で言う。
『我が身のみが可愛い
橡鴉の言いたいことが察せられ、螺伽はため息を飲み込んだ。何を言われようとも、逃げ出すことはできない。玄耀の王である以前に、螺伽は闇の「継承者」なのだ。
「橡鴉様、
『そう
ならばなんなのだと問う前に、橡鴉は楽しげに続ける。
『我がおぬしを出してやろう』
「……今、なんと?」
『我がおぬしを出してやろうと言った』
聞き間違いではなかったらしいと、螺伽は頭を抱えそうになった。
(橡鴉様は奥の間から離れられない……それは確かなはず)
それとも、螺伽らが知らないだけで、精霊には封じなど意味をなさないのかもしれない。しかし、だとすれば退屈だここから出せと繰り返しながら、ずっと留まっていた理由がわからない。
「畏れながら……、わたくしを出してくださると仰るのは、どのような意味でしょうか」
『おぬしは、現状に
「……お戯れを」
『戯れなどではない。我にはそれができるぞ。あとはおぬしの心一つよ。おぬしも囚われておるのだろう? ならば、我と共に来るがよい』
事もなげに言われた言葉が、螺伽には存外
喉まで出かかった反駁を飲み込み、螺伽は尋ねた。
「何故、今なのですか? わたくしが橡鴉様とお話をさせていただくようになって、随分経ちます。もし橡鴉様が意のままにお出ましになれるのならば、もっと早くにお出になってもよかったのでは」
『何、深い意味はない。風向きが変わっただけのことよ。理由が欲しいのならば、時の巡り合わせと言う他ないな。―――奥の間へ来い。脱出の算段を詰めようではないか』
それきり、橡鴉の声は聞こえなくなった。分霊を戻したのだろう。
橡鴉がどこまで本気なのか、螺伽にはわからない。しかし、螺伽が一度、是と答えたならば、橡鴉は何を置いても実現させてしまいそうな気がした。予感と言い換えてもいいかもしれない。
(……わたし一人で抗わねばならぬのか)
国を、民を守らねばというのは本心だ。だが、現状に倦んでいるのも事実―――認めたくはないが。ともすれば、橡鴉の手を取ってしまいそうになる程度には、揺らいでしまっている。
(母上の気持ちが、今になってわかる……)
決して公にされることはなく、今となっては知っている者はほんの数人しかいないこと。―――螺伽の母、先代玄耀女王莉李は昔、駆け落ちをしたことがある。
無論、間もなく連れ戻されたが、そのとき既に身籠もっていたという。そして、莉李は生涯、夫を持つことはなかった。
莉李を連れ出したのは人間だった。螺伽を
(わたしは……)
仕事を進めなければならない。しかし、螺伽はしばらく、人を呼び戻すことができなかった。
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