三章 4-1

 4


螺伽ラカ様、今月も扶翼ふよくが届きましたよ」

 弾むような侍女頭の声に、螺伽は目も上げずに応える。

「そうか」

「それと、『若様』から『ご会食』のお誘いも」

 これには舌打ちを堪えねばならなかった。忌々しく思いながら手元の書面から目を離し、顔を上げれば、侍女頭はにこにこと書状を差し出している。

「そんな暇はない。断っておけ」

「そう仰らずに。この間もお断りになったではありませんか、一度だけでも……」

「必要ない。あまりにしつこいなら扶翼ごと返してやれ」

 月に一度だった「扶翼」が、最近は感覚が狭まり半月に一度になりつつある。螺伽個人への贈り物を勘定すれば、十日に一回は何かしら届いている。スヴァルド帝国も、何やら焦ることがあるらしいと螺伽は鼻を鳴らした。味方面をし、「扶翼」などと称して一方的に物資を送りつけてくるのが気に入らない。それ以上に、不要だと突き返せない自国の現状―――己の不甲斐なさに腹が立つ。

 闇国あんこく玄耀げんようが貧しく、これから冬に向かうにつれ、それが加速していくことを、帝国は知っている。金品などではなく、米や炭、薬など、絶対に必要になるものを送ってくるのも小賢しい。玄耀がね付けられないとわかっていて、反応を伺っているのが透けて見えていけ好かない。無論、公式なものではないし、記録も残っていない―――ことになっている。しかし、そんな建前を信じるほど螺伽はおめでたくはなれない。

(だから、最初から断っておけと言うのだ)

 五年前もそうだ。あの年の夏は寒く、米が不作で酷い飢饉になるのが確実だった。螺伽はまだほんの十五の小娘で、帝国の「人道的支援」を、いぶかしみながらも周囲に言われるまま受け入れてしまった。その結果、じわじわと蛇に巻き取られるように、雷国らいこくノールレイ襲撃の片棒を担がされることとなったのだ。

 そこで一度、帝国とは手を切ったはずだった。しかし、手を変え品を変え、どうにか懐に入り込んでこようとする。帝国としては、今後に備えて玄耀を蝙蝠こうもりにしておきたいのだろう。あるいは、獅子身中の虫に。

 ノールレイとの一件で、玄耀は神擁七国しんようななこくの一国とは言え、他国からの信用はないに等しい。老人たちの中には、いっそ帝国側に着いた方がいいのではと言う意見すらある。思い出すだに忌々しい。

(保身しか考えぬ老害どもめ)

 先代玄耀女王―――螺伽の母、莉李リリ夭折ようせつしたがゆえに、今の官吏は莉李の代から仕えている者が殆どだ。しかし、老人たちが憂うのは国の行く先でも民草でもなく、己の既得権益が脅かされることだけ。変化を嫌い、自分たちだけが安泰であればいいと考えている寄生虫どもを、しかし螺伽は、排除できないでいる。

「螺伽様、どうか」

「断れと言った。二度言わせるな」

の国の『若様』は、螺伽様に是非お目に掛かりたいと……」

夜千ヤチ

 久方ぶりに名を呼べば、侍女頭は言葉を途切れさせて目を見開いた。

「これが最後だ。―――断っておけ」

「……御意」

 夜千が引き下がると、後はもう誰も口を開かない。ようやく静かになったと息をついて、螺伽は書面に目を戻した。しかし、腹が立っているせいで内容が頭に入ってこない。

 夜千たちが言う「若様」とは、スヴァルド帝国の第一皇子クローディス・ゼタ・スヴァルドである。現在、最も帝位に近く、妻子もいるというのに螺伽へ度々「会食」の誘いがある。玄耀に首輪をつけておくために螺伽を側女そばめにでもしたいのだろうが、身の程をわきまえよと螺伽は苦々しく思う。

(たかだか百年程度しか歴史のない国の皇子風情が……)

 また、夜千をはじめとして「会食」を進める動きがあるのも螺伽には度し難い。市井しせいの男女の不倫とは違うのだ。玄耀が軽んじられている、言葉を選ばなければ、舐められているというのがわからないのか―――わかっていて帝国におもねるような真似をしているのであれば、それは最早、緩やかな謀反むほんではないだろうか。

(国家間のことを個人の感情で動かしていいはずがない)

『それだけ困窮にいておるのであろ』

「……っ」

 不意に声が聞こえて、螺伽は顔を上げて息を飲んだ。異変に気付いた夜千が怪訝そうな表情になる。

「螺伽様、どうなさいました」

「……なんでもない」

『なんでもないか? そうかそうか』

 平静を装って顔を伏せた螺伽の耳を、笑い混じりの声がなぶる。たまらず螺伽は書類を机に叩き付けた。侍女たちがびくりと竦む。

「皆、外に出よ。呼ぶまで誰も入れるな」

 侍女たちは不安げに顔を見交わしたが、何も言わずしずしずと退室して行った。最後に護衛が躊躇ためらいつつも出て行き、扉が閉められる。

「……橡鴉しょうあ様。何用でしょうか」

 呟けば、声はくつくつと笑う。

『おや、聞こえてしまったか』

 嘯く橡鴉に、思わず舌打ちしそうになるのをすんでの所で堪える。精霊の機嫌を損ねては、何をされるかわからない。

『何、退屈で出てきただけだ。気にするでない』

「そうも参りませぬ。橡鴉様の心をお慰めするのが我が役目なれば」

『ふん。心にもないことを』

 社交辞令のようなものなので、鼻で笑われても螺伽が動じることはない。橡鴉―――闇精あんせいアートルム自身は、封じられている奥の間から動かないが、気紛れに分霊のようなものを飛ばしてくる。決まった法則や時間はなく、予測できないのが厄介この上ない。そう長い距離は飛ばせないらしいというのが、せめてもの救いだ。執務室へ現れたのは初めてだが、移動を検討した方がいいかもしれない。

『しかし、側近が主たる女王に身売りをそそのかすとはのう』

「お見苦しいものをお目にかけました。平にご容赦くださいませ」

『我は構わぬ。―――先程も言ったが、あれらは困窮に倦いておるのだろう。帝国にくだるのもやむなしと思うほどに』

 螺伽は応えず、静かに拳を握りしめた。

(帝国に降ったとて、神擁七国との戦の盾にされるだけであろうが……!)

 心中を読んだわけではないだろうが、橡鴉は笑みを含んだ声音で言う。

『我が身のみが可愛いやからはどこにでもいるものよ。そのような不届き者どもににえにされてよいのか? 理不尽だとは思わぬか』

 橡鴉の言いたいことが察せられ、螺伽はため息を飲み込んだ。何を言われようとも、逃げ出すことはできない。玄耀の王である以前に、螺伽は闇の「継承者」なのだ。

「橡鴉様、おそれながら……」

『そうくな。我はここから出せとは言うておらぬ。どうせおぬしは無理だと答えるのであろうからな』

 ならばなんなのだと問う前に、橡鴉は楽しげに続ける。

『我がおぬしを出してやろう』

「……今、なんと?」

『我がおぬしを出してやろうと言った』

 聞き間違いではなかったらしいと、螺伽は頭を抱えそうになった。

(橡鴉様は奥の間から離れられない……それは確かなはず)

 それとも、螺伽らが知らないだけで、精霊には封じなど意味をなさないのかもしれない。しかし、だとすれば退屈だここから出せと繰り返しながら、ずっと留まっていた理由がわからない。

「畏れながら……、わたくしを出してくださると仰るのは、どのような意味でしょうか」

『おぬしは、現状にみながらも出て行こうとせぬ。出られぬものと決めつけておる。その目の曇りを取り払ってやろうではないか。我は親切であるゆえな』

「……お戯れを」

『戯れなどではない。我にはそれができるぞ。あとはおぬしの心一つよ。おぬしも囚われておるのだろう? ならば、我と共に来るがよい』

 事もなげに言われた言葉が、螺伽には存外こたえた。己の境遇を、囚人のようだと思ったことはないが、端から見ればそう見えると言うことだろう。

 喉まで出かかった反駁を飲み込み、螺伽は尋ねた。

「何故、今なのですか? わたくしが橡鴉様とお話をさせていただくようになって、随分経ちます。もし橡鴉様が意のままにお出ましになれるのならば、もっと早くにお出になってもよかったのでは」

『何、深い意味はない。風向きが変わっただけのことよ。理由が欲しいのならば、時の巡り合わせと言う他ないな。―――奥の間へ来い。脱出の算段を詰めようではないか』

 それきり、橡鴉の声は聞こえなくなった。分霊を戻したのだろう。

 橡鴉がどこまで本気なのか、螺伽にはわからない。しかし、螺伽が一度、是と答えたならば、橡鴉は何を置いても実現させてしまいそうな気がした。予感と言い換えてもいいかもしれない。

(……わたし一人で抗わねばならぬのか)

 国を、民を守らねばというのは本心だ。だが、現状に倦んでいるのも事実―――認めたくはないが。ともすれば、橡鴉の手を取ってしまいそうになる程度には、揺らいでしまっている。

(母上の気持ちが、今になってわかる……)

 決して公にされることはなく、今となっては知っている者はほんの数人しかいないこと。―――螺伽の母、先代玄耀女王莉李は昔、駆け落ちをしたことがある。

 無論、間もなく連れ戻されたが、そのとき既に身籠もっていたという。そして、莉李は生涯、夫を持つことはなかった。

 莉李を連れ出したのは人間だった。螺伽をいざなうのは精霊だ。状況も全く違うが、今の螺伽には、どちらも同じように思える。―――否、きっと同じなのだ。この国を出るという、その一点に置いては。

(わたしは……)

 仕事を進めなければならない。しかし、螺伽はしばらく、人を呼び戻すことができなかった。

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