三章 3
3
「カール! 二時……じゃない、右手前方!」
巨大な熊が二頭、咆哮を上げながら木々を縫うように駆ける。
「ルークは左! 罠を!」
左右からの挟撃で一頭は網にかかり転倒したが、すり抜けたもう一頭は突っ込んできた。
「セギン将軍!」
「将軍はやめろって」
声を上げるカールに返して、セギンは下ろしていた剣を構えた。木を避けた熊が、向かって左側に回り込むのに舌打ちをする。―――左は視界が狭い。
跳ね飛ばそうというのか更に速度を増す熊をいなし、左前足の付け根に刃を突き入れる。突進を止めた熊は苦痛に咆哮を上げ、頭を抱え込むように姿勢を低くした。その背に鋭い針が現れるのを見て、セギンは熊から距離を取り、大木の陰に身を隠す。熊が巨体を震わせると、背から人の親指ほどの太さがある針が飛び散って、周囲の木々に突き刺さった。
セギンは熊の動きが一止まった一瞬の隙に、
「―――っ!」
一息に鍔元まで突き刺し、仕留めたと思ったのだが、熊は
(見た目どおり頑丈だな)
首を刺し貫かれてまだ動くとは思わなかった。熊が事切れているのを確認し、セギンはやれやれと息をつきながら剣を引き抜く。ずれてはいないだろうが、念のために眼帯の位置を直した。
「
嬉しそうに言うカールへ、セギンは渋面を向ける。
「だから将軍はやめろ。―――二頭目は
背に隠し持っている毒針から「蜂熊」と呼ばれる熊は、体内で作られる毒が薬の原料となるため、毒嚢が高値で取引される。できれば無傷で確保したかったのだが、最後の突進で潰れてしまったかもしれない。
罠の始末が終わったか、ルークも駆け寄って来る。
「倒すのが第一ですから、問題ないですよ。一頭は捕まえられましたし」
「そうだが、村が潤う方がいいだろう」
「ええ、まあ。でも、命あっての物種って言うじゃないですか」
「……ルークは、なんで熊退治についてきたんだ?」
「それは、セギンさんの腕前を近くで見てみたくって」
「おまえな……俺はただの農家のおっさんだ」
「ただの農家のおっさんは一人で蜂熊を倒したりしませんよ」
「やかましい。好奇心は猫を殺すぞ」
ため息交じりに言えば、ルークは誤魔化すような笑みを浮かべて頭を掻いた。
蜂熊の毒嚢が高価なのは、単純に流通量が少ないからだ。如何せん、動くものを見ればまず襲いかかるほど凶暴であるがゆえに、返り討ちにされる狩人が後を絶たない。セギンとしても、あまり相手にしたくない危険種だ。今回は、村の近くまで出没するようになったので、若手の有志を連れて仕方なく狩りに来た。
「あとは任せていいか?」
「ええ、お任せください将軍―――セギンさん」
睨んでやれば、カールは慌てた様子で言い直した。もう軍を
セギンが
「報酬は後で家までお届けします」
「頼む」
短く言い置いてセギンは村へと足を向けた。役場へ顔を出し、妻から頼まれた卵を調達して帰ろうと思う。
雷国ノールレイの南の端にある、人口一〇〇〇人にも満たない小さな村である。商店は片手で足りるほどしか存在せず、役場などと共に村の中心部に集まっている。必然的に、人通りも多い。
「あら、セギンさん。熊退治お疲れ様でした」
顔見知りの婦人に声をかけられ、セギンは会釈で応える。
「そのうち若いのが捕れたのを運んで来ますよ」
「あらあら、じゃあお迎えの準備をしなくては。役場に声をかけておきますね」
「お願いします」
仕事を一つ減らしてくれた婦人に感謝しながら、セギンは商店の並ぶ通りに向かった。報告は必要なことだが、役場の人々は皆、総じて話が長い。加えて、一部の人間はセギンの昔の話を聞きたがる。訊かれる度に適当に誤魔化しているが、面倒は面倒なので、あまり関わりたくはない。
「セギンさん、おかえりなさい!」
食料品店の前にさしかかると、少年の声が飛んでくる。住民の殆どが畑を営んでいるこの村は、収穫で忙しい今の時期、村唯一の学校が休みになる。少年は留守番と店番だろう。
「熊退治どうだった? 僕も行きたかったな」
セギンは足を止め、少年の頭を軽く撫でた。
「坊主にはまだ早い」
「そんなことないよ! こないだなんて、畑に出た
「そいつは凄い。でも、一人でってのはいただけないな。そういうときは、まず大人を呼ぶんだ」
「でも」
「こら。セギンさんを困らせるんじゃない」
反駁しようとする少年を遮り、店主である
「孫がすみません」
「いやいや。一人で大土竜を追い払うなんて勇ましいお孫さんだ」
少年はぱっと顔を輝かせた。
「ほら! 一人でも大丈夫だって」
「坊主一人で大丈夫とは言っていないぞ。まずは大人を呼ぶこと。あとは一人で対処しようとしないこと。脚を怪我でもしたら、逃げられないし助けを呼ぶこともできないだろう」
釘を刺すセギンに合わせて、店主はうんうんと大袈裟に頷いた。
「言ってやってください、セギンさん。この子は
「棒きれじゃないよ! 木剣だよ!」
「同じようなもんじゃろ。振り回すなら
「ちーがーうー! 全然違う! 僕はお城の兵士になるんだから、鍬なんて使わないよ!」
「何を言うとるか。鍬もまともに振るえんで剣が使えるか」
「じいちゃんだって鍬振れないだろ!」
「それは腰を傷めたからじゃ。使い方を知らん子どもと一緒にするでない」
「まあまあ」
親子ならぬ祖父孫喧嘩が始まってしまいそうなので、セギンは口を挟んだ。
「いいか、坊主。剣は兵士になれば嫌でもやらされる。畑ができるのは今のうちだ、何事も覚えておいて損はないぞ」
「でも……僕、強くなりたいんです。強くなって、父さんの仇を……」
俯いて木剣を握りしめる少年の頭を、セギンはやや乱暴に撫でて顔を上げさせた。
「大丈夫だ、坊主は強くなれる。俺が保証しよう」
「本当?」
「ああ。強くなれるのは、強く在ろうとする者だけだ。―――そのためには、今できることをやらないとな。店番なんだろう? 卵はあるかな。六つ欲しいんだが」
少年は束の間セギンを見つめ、納得したように頷いた。
「すぐ用意するよ。ちょっと待ってて!」
店の中へ駆け込んでいく少年を見遣り、老爺は苦笑めいた複雑な表情になった。
「ありがとうございます。……あの子の父親は、アピス島戦役で戦死しましてな。あの子は末って子で、一番父親に懐いておりましたから」
「……そうだったんですか。お気の毒に」
セギンは思わず眼帯に遣りかけた手を下ろした。
五年前のアピス島戦役で、帝国軍を壊滅させるのと引き換えに、セギンは左半身に大火傷を負った。痕は残ったが回復した身体と違い、紋章のある左目は光を失った。白濁した眼球に雷の紋章が焼き付いたようになってしまったので、普段は眼帯で隠している。セギンが軍を退くきっかけになった出来事だ。
あのとき、どこかの部隊に少年の父親もいたのだと思うと、セギンも複雑になる。帝国軍を押し戻すことはできたが、ノールレイ側の被害は甚大だった。
ノールレイは、玄耀の裏切りを強く非難し、追求した。返答次第によっては事を構えることも辞さぬとまで言い切り怒りを露わにするノールレイに、しかし玄耀は、逆に帝国に
結局、双方とも主張の決め手を欠き、武力衝突は免れたが、ノールレイと玄耀の国交は、現在に至るまでほぼ断絶している。
(だが、俺はもう……)
「お待たせ! 卵持って来たよ」
少年の声で我に返り、セギンは代金を払って卵を受け取る。
「ありがとう」
「また来てね!」
「ああ、またな」
少年の頭をもう一度撫で、店主に会釈をしてセギンは帰り道を急ぐ。意図せずいろいろ思い出してしまったのと、少年の姿が、記憶の中の別の少年と重なり、一つ息をつく。
(……ご無事だろうか)
ノールレイ国王は、度々こっそりと使いや手紙を寄越す。雷の継承者であるセギンの居場所と安否確認も兼ねているだろうが、情報が手に入るのは助かる。
光国アルドラの王子アルクスは、シェリアークに亡命したと聞いた。しかし、国王リュングダールの行方は
(
リュングダールは神擁七国の盟主だ。七つの国の纏め役というのは
(今の俺にできることは、妻と子を守ることだけだ)
考えながら歩いているうちに家へ着き、セギンは扉を開けながら声を投げた。
「ただいま」
しかし返事はなかった。体調が優れず横になっているのだろうかと居間や寝室を覗いても、妻の姿はない。
「ミリア? いないのか」
首を捻りながら荷物を置き、セギンは裏の畑へ出た。すると、水撒きをしている様子のミリアがいて、ほっと息をつく。
「ミリア」
呼べば、
「あなた、帰ってらしたの」
駆け寄ろうとするミリアを制し、セギンが歩み寄る。ミリアはセギンを見上げて柔らかく笑んだ。
「おかえりなさい。ご無事で何よりです」
「ただいま。―――休んでいなくていいのか、産み月も近いのに」
「あら、大事にしすぎる方が難産になるって、ラケルおばさまが仰っていたわ。少しの運動は必要だそうよ」
「なら散歩にするといい。続きは俺がやろう」
柄杓を取り上げようとすると、ミリアはそれを背中に隠して不満げに唇を尖らせた。
「んもう、過保護なんだから。あなたこそ、お休みになって。熊退治お疲れ様。お茶を淹れましょう」
水を張った
「卵、ありがとう」
「ああ。それで足りるか?」
「十分。今夜はオムレツにしましょうか」
卵を籠に移したミリアが、薬缶を手に取りながら言う。
「……ねえ、あなた」
「なんだ?」
「リュングダール陛下がご心配なのでしょう。アルクス殿下も」
世間話の延長のように言われて、一瞬、反応が遅れた。アルドラ落城の報せを受けてからこちら、妻がこのようなことを口にするのは初めてのことだ。何を言っても見透かされるような気がして、セギンはただ疑問を返す。
「……そんなに顔に出ていたか?」
「お顔と言うか、空気と言うか。―――ずっと、お心に掛かっていたのよね?」
セギンは苦笑しながら
「君に隠し事はできないな」
「そうよ。何年あなたの妻をやっていると思っているの?」
冗談めかして言い、薬缶を火にかけたミリアは、目を伏せてそっとセギンの手に触れた。
「だから、ごめんなさい……、気付かないふりをしていたの。あなたが……」
「お二人が心配は心配だが、俺はもう引退した身だ。できることはない」
強引に遮れば、妻は本当に不思議そうに小首を傾げた。
「あら。将軍でなくなっただけで、レクトール・セギンに何かできないことがあって?」
思わず瞠目し、二の句が継げないセギンにミリアは笑んで見せる。
「わたしなら大丈夫。ラケルおばさまや、村の人たちが助けてくださるもの」
ラケルは隣家の婦人だ。四人の子を持つ母であり、
「今は、君と生まれてくる子の傍にいることが俺の一番の望みだ」
ミリアは困ったように笑んで、セギンの手を強く握った。
「そう言ってくれるのは嬉しいわ。わたしも、あなたに傍にいてもらえたら凄く心強い。……でもね、あなたが辛そうにしているのは、もっと辛いの。だから、これはわたしの我儘よ。あなたには、あなたの心のままに在って欲しいの」
「ミリア……」
口籠もるセギンを束の間見つめ、ミリアは明らかに無理矢理とわかる笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、困らせたいわけではないの。変なことを言ったわね。―――さ、お茶にしましょう。お座りになって」
「ミリアこそ座ってくれ。俺がやろう」
「いいから、いいから。大事にしすぎると難産になるって、さっきも言ったじゃない。ねえ、あなたのお父様は随分心配性ですね」
セギンの背を押して席に着かせると、ミリアは大きなお腹に話しかけながら食器を取り出してお茶の準備を始めた。その姿を見ながら、セギンは無意識に零れそうになる吐息を飲み込む。
(俺の心のままに……か)
リュングダールとアルクスを捜しに行きたいのもそうだが、ミリアの傍にいたいというのも本当だ。その二つは両立しない。
(俺は……)
自分が本当はどうしたいのか、セギン自身も掴みかねている。ただ一つ確かなのは、妻を悲しませたくないということだけだ。
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