三章 2

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「……酷いな」

 呟いたレーヴハルトの言葉を、少し前にも聞いたような気がして、ノアは胸中で首を捻った。記憶を探ると、すぐに思い至った―――ミルザム南方国境要塞だ。ただ、あのときとは違い、レーヴハルトの声色には明確な怒りが感じられる。

「我が軍の所業だとは思いたくないが、我が軍の所業なのだろうな」

 現在、光国アルドラ王城と城下町に駐屯している、スヴァルド帝国軍第四師団長グレナル少将は、一瞬目を泳がせてから応えた。

「は、思いのほか、アルドラ残党の抵抗が激しく……」

「激しく抵抗されたから、調度品を盗み、無意味に破壊し、捕虜に不要な暴行を加えて殺したと言いたいのか。城外はともかく、内部のこれは戦闘の傷ではないだろう」

「お言葉ですが、殿下。勝利した我々には相応の権利というものがございまして、兵たちの働きにも報いてやらねばなりませぬし」

 困ったような、小馬鹿にするような笑みを浮かべて言うグレナルへ、レーヴハルトは冷ややかに返す。

「兵への報償は十分に出しているはずだが、それでは不満だという者がいたか。連れてこい。話を聞きたい」

 グレナルは一転、落ち着きなく視線を彷徨わせる。

「い、いえ、滅相もないことで……」

「違うのか? では誰か着服しているのか。だから兵たちに行き渡らないのだろう。由々しき事態だ。詳しく調べねばならんな」

「いいえ! そのようなことは、決して」

 高くなっていくグレナルの声とは裏腹に、レーヴハルトの声は低く、吹雪のような響きを帯びる。普段は感情の起伏を感じさせず、淡々としている分、落差が恐ろしい。向けられる方は生きた心地がしないだろうと、ノアは文字通り他人事に考えた。

「ならばなんだ、勝者の権利とやらは。一方的に相手の尊厳を踏みにじることか。―――西大陸の民に、我らがなんと呼ばれているか知らぬわけではあるまい」

「無論でございます。まったく、西の魔人どもが思い上がりもはなはだしい」

 おもねったつもりらしいグレナルの言葉を聞いて、レーヴハルトは隠しもせずに嘆息した。その胸中は察して余りある。グレナルのような男がいるから、帝国軍は西で蛮族呼ばわりされているのだと、ノアもひっそりと溜息をついた。

「今後一切の非人道的行為を禁ずる。末端まで徹底させろ。違反した者は覚悟しておけ」

「……御意のままに」

 グレナルの返事を待たず、レーヴハルトはきびすを返した。ノアとグレイス以下、レーヴハルトの護衛や侍従が続く。置いて行かれる格好になったグレナルが、慌てて追いかけてきた。

「お待ちください、案内を……」

「必要ない。適当に見て回る」

 言い捨て、レーヴハルトは常にはない速度の早足で進んでいく。グレイスや侍従が小走りになっているのを見て、ノアはレーヴハルトに囁いた。

「レーヴハルト殿下、いま少しゆっくり歩かれませ。殿下は御御脚おみあしが長くていらっしゃいますので」

 冗談めかして言えば、レーヴハルトは徐々に歩調を緩めた。細く息を吐き出して、独白のように呟く。

「……すまない」

 謝ることはないのにと思いながら、ノアは声を潜めたまま続ける。

「珍しいですね、殿下がああまで仰るとは」

「あまりに腹が立って。……まだまだ未熟だな」

 レーヴハルトは己の持つ力に自覚的だ。強く言えばどうしても相手を萎縮させてしまうと、常日頃から自制しているのだが、それを振り切るほどの怒りだったらしい。

「よろしいのでは? あれくらい言われないとグレナルのような相手には響きませんよ」

 同意も否定もせず、レーヴハルトは広い廊下を見回した。

「歴史ある美しい城だったろうに。ミルザムも酷かったな、改築に改築を重ねて、殆ど原形を留めていなかった」

 象牙色の石を四角く切り出し、気が遠くなるような数を積み上げた壁や柱は、所々、見るも無残に抉られていた。残っている部分から推察するに、抉られた部分には繊細な彫刻が施されていたのだろう。複雑な文様を織られた絨毯じゅうたんは乱暴に剥がされ、同じく上質な生地のカーテンも引きずり下ろされている。

(これじゃあ蛮族呼ばわりもやむなしだわな)

 ノアの胸中を読んだわけではないだろうが、レーヴハルトは嘆かわしいとでも言いたげにかぶりを振った。

「歴史や文化を尊べない国は滅びる。いくら修復しても元には戻らないというのに」

「そういえば、レーヴハルト殿下は史学と民俗学の専攻でしたね」

「帝国は歴史が浅いからな。千年単位で続く西大陸の国々が羨ましい。言っても詮無いことだが」

 怒りが消えたわけではないだろうが、大分収まったらしく、レーヴハルトは気を取り直した様子で顔を上げた。予定では城内を見て回った後、中央棟へ向かうはずだったが、案内がいなくなってしまった。中央棟は元から政庁として使われていたらしく、今は暫定の総督府となっているという。

 場所は知らないはずなのだが、レーヴハルトは迷いのない足取りで進んでいく。止めた方がいいだろうかとノアは迷うが、ノアも正確な場所は知らないので口出しできない。

 しばらく進むと、開けた回廊に出た。広い中庭のようで、本来ならば季節の花々が目を楽しませるのだろうが、今はやはり破壊の痕が見える。

「……何故」

 不意に呟いて足を止めたレーヴハルトに一泊遅れて、ノアたちも立ち止まる。

「いかがなさいましたか、殿下」

 ノアが尋ねると、レーヴハルトは前方を示した。それを追えば、この場には似つかわしくない大きな絵画が無造作に立てかけられている。

「何故こんなところに絵が」

「私もそう思った」

 大人の身長ほどの高さと、その倍はありそうな幅、金属製の額で、重量は相当なものだろう。外したはいいが、ここまで運んで持ち出すのを断念し、放置したのかもしれない。

 レーヴハルトは吸い寄せられるようにその絵画に近付いた。必然的にノアもついて行き、絵をしげしげと眺める。

 ノアは、これほど大きな絵画の現物を目にするのは初めてだ。美術品にはあまり興味がないし、学生時代に半強制的に連れて行かれた美術館に展示されていたのは、縮小されたレプリカだけだった。帝国の歴史が浅いことに加え、代々の皇帝が無関心だったようで、帝国国内には美術館や博物館、図書館、劇場など、文化的な施設が少ない。一応、国立の施設はあるにはあるが、どこも冷遇されて細々と経営している。

(せっかくハコはあるんだから、西から略奪した美術品でも飾ればいいのに。そこまで厚顔無恥じゃないのか、心底無関心なのか)

 描かれているのは、美しい湖のほとり床几しょうぎにに腰掛けた男性と、寄り添うように立った女性、駆け回っている風情の少年が二人と、少女が一人。当代の国王には王子が一人しかいないはずなので、身なりからしても、昔の国王一家だろう。風景も人物も、明るい色彩で写実的に生き生きと描かれている。アルドラ国内のどこかにこのような場所があるのかもしれない。

「いい絵ですね」

 思わず口に出てしまったノアを見て、レーヴハルトは微かに笑んだ。

「うん」

 幼子のように首肯したレーヴハルトは周囲を見回し、廊下の端に立っている警備兵を呼んだ。

「君」

 警備兵は一瞬何が起こったかわからないような顔をしてから、慌てた様子で駆け寄ってくる。

「は、はい。お呼びでしょうか」

「人を集めて、この絵を元の場所に掛け直して欲しい。どこにあったかはグレナル少将が知っているだろう。私がそう言ったと伝えれば教えてくれるはずだ」

「は……、御意のままに」

 敬礼を残し、警備兵は走り去っていった。それを見送り、絵画に視線を戻してレーヴハルトが吐息のように落とす。

「もしも……」

 聞き取れず、ノアはレーヴハルトを振り返った。

「申し訳ありません、今、何と」

「……いや。中央棟への行きかたを訊けばよかったな」

 レーヴハルトが飲み込んだのは道順ではなかっただろうが、それ以上尋ねることは出来なくて、ノアは周囲を見回した。

「第四師団の兵士に尋ねましょうか。警備なら各所にいるでしょう」

「頼む」

 レーヴハルトの返事を受けて、ノアは護衛の数人を探しに行かせた。ややあって、護衛たちが警備兵と共に戻ってくる。案内を頼むと、不思議そうにしながら先導に立った。

 歩きながらノアは、レーヴハルトが何を言いかけたのかを考える。

(もしも……なんだ? 絵が気になったのか、絵の内容が気になったのか)

 レーヴハルトは血のえにしが薄い。第四妃だった母は既に亡く、同母のきょうだいはいない。父親は父親以前に皇帝であり、異母兄弟とは否応なしに皇位を争わなければならない。文字通り絵に描いたような幸福な一家を見て、何か思うところがあるのかもしれない。

(単に美術品を守りたいとか戻したいとか、そういう方向かもしれんが)

 なんにせよ、本人に訊かないと正解はわからない。そしてレーヴハルトは、一度飲み込んでしまった言葉は、滅多に吐き出すことはない。

「こちらです」

 警備兵の声でノアは考えるのをやめた。中庭から中央棟はさほど離れていなかったらしい。

「ご苦労」

 レーヴハルトが頷いて、警備兵は持ち場へ戻っていった。正面の大扉が開け放たれて、人が忙しく動き回っているのが見える。

 グレイスが取り次ぎを頼むと、すぐに奥から文官が数人やってきた。灰色の髪をひっつめにした中年の女性が、慌てた様子で頭を下げる。彼女が長官なのだろう。

「レイーヴハルト殿下! 申し訳ありません、お出迎えもせずに」

「忙しいところすまないな、アトリー」

 名乗る前に呼ばれたことに驚いたか、一瞬瞠目してからアトリーはかぶりを振った。

「滅相もないことでございます。―――グレナル少将が、ご案内申し上げるとのことでしたが……」

「途中ではぐれてしまってね。別の兵士に案内を頼んだ」

「何か……、想定外の事故などございましたか」

 まさかグレナルがレーヴハルトを怒らせたなどとは、つゆ程も思わないのだろう。不可解そうなアトリーに、レーヴハルトは微苦笑を向けた。

「いいや。少将とは上手く意思の疎通がとれなかったようだ」

「そうでしたか、申し訳ありません。案内には詳しい者をと申し上げたのですが聞き入れられず……レーヴハルト殿下を煩わせ申し上げることになってしまうとは」

「構わない。おかげで『見学コース』に入っていなかったであろう場所を見られた」

 レーヴハルトが揶揄やゆを滲ませた口調で言うと、アトリーも何かを含んだような笑みを浮かべる。どうやら、彼女もグレナルには手を焼いているらしい。

「畏れながら、殿下。こちらのアトリー女史とは、お知り合いでしょうか」

 侍従たちの困惑を察してか、グレイスがレーヴハルトに尋ねる。彼が答える前に、アトリーが改まって一礼した。

「申し遅れました。わたくしはイレイナ・アトリー。アルドラの暫定民政長官を務めております。こちらは次官のピエタル・サーリと副官のカウル・フェトルでございます」

 アトリーの背後に控えていた文官二人もそれぞれ礼をして簡単な挨拶を述べた。それが終わるのを待ち、アトリーは一同に奥を示す。

「どうぞこちらへ。まだ何も片付いておらず、満足なおもてなしはできないのですが」

「気にしないでくれ。もてなされに来たわけではない」

 片付かないのも無理もないとノアも思う。光国アルドラ王都を落として、まだ四月ほどだ。しかも、国王リュングダールは行方不明、王子アルクスには水国シェリアークに亡命されるという為体ていたらくである。アルドラ国民がスヴァルド帝国の支配をすんなり受け入れるはずがない。今もどこかでリュングダールが匿われ、反攻への準備が進められているかもしれない。

(国王と王子、両方逃がしたのは痛かったよな……どっちかでも捕らえられていれば、また違っただろうに)

 暫定総督府と言えば聞こえはいいが、ただの広間にに机が並べられ、書類や資料が積み上げられて雑然としている。広間の左右には更に別の部屋へ繋がる扉がいくつもあり、そのすべてが開け放たれて、資料を抱えた文官たちが忙しなく動き回っていた。

 手を止めて跪こうとする文官たちを、レーヴハルトは片手で制する。

「私たちのことは気にせず、職務に戻るように」

 文官たちは意外そうな表情を見せたが、迷う時間も惜しいのか、一礼して仕事へ戻っていく。

 アトリーに着いていくと、広間の奥に衝立で仕切られた応接スペースがあった。どこからかテーブルと椅子を適当に運んできただけらしく、意匠がちぐはぐである。

 レーヴハルトが座り、ノアたちが脇に控えるのを待って、アトリーは彼の前に銀盆に載せた書状を恭しく置いた。

「皇帝陛下より、レーヴハルト殿下宛ての親書をお預かりしております」 

「ここに直接届いたのか?」

「左様でございます」

 レーヴハルトは眉を寄せながら親書を取り上げ、封を切った。書面に目を通して嘆息にも似た息を吐き出す。

「なんのことはない、正式な任命書だ。アルドラ総督の」

 一瞬、その場にいたレーヴハルト以外の全員が耳を疑った。

「……今、なんと?」

「アルドラ総督の任命書だ」

 期せずして皆の胸中を代弁したノアへ、レーヴハルトは同じことを繰り返す。

「ちょっと待っ……お待ちください。レーヴハルト殿下が光国アルドラへいらっしゃったのは、アルドラ国王リュングダール捜索のためではありませんか」

 思わず素が出そうになって、ノアは慌てて言い直した。レーヴハルトは事もなげに首肯する。

「そうだな」

「その上、殿下は既にミルザム総督でいらっしゃいます」

「そのことは陛下も当然ご存じだろう。ミルザム総督と、アルドラ総督を兼務せよとのことだ。加えて、アルドラ国王捜索の任も負えということだろうな」

 束の間、沈黙が支配する。誰の顔にも「そんな馬鹿な」と書いてあった。

「それは、些か……その……」

 言葉を濁すアトリーへ、レーヴハルトは苦笑めいた表情を向けた。

「勿論、無理だ。―――そんな予感がしたのでミルザム副総督に全権を委任してきた。アトリー、後で少し話せるだろうか」

 レーヴハルトの思惑を察し、気の毒に、とノアは内心彼女に同情する。恨むならば、たまたま責任ある立場にいて、良識的な人物だったという時の巡り合わせを恨んで欲しい。

「時間ができたら教えてくれ。それまで適当に見て回っている」

「とんでもないことでございます、わたくしの都合など如何様にも」

 慌てた様子のアトリーの言葉に、レーヴハルトは首をかしげた。

「いいのか? 仕事はが山積みだろうに」

「殿下のお言葉に優先する仕事がありましょうか。それに皆、優秀な者ばかりです。わたくしがおらずとも」

「それは心強い。私も安心できるというものだ」

「勿体ないお言葉です」

「やはり、お飾りなどいない方がアトリーたちも仕事が捗るだろう」

 レーヴハルトの言い回しを聞いて、怪訝そうな顔になるアトリーを気遣ってか、グレイスがため息交じりに口を挟んだ。おそらく、彼女もレーヴハルトの思惑を薄々感じ取っているのだろう。

「殿下。お戯れも大概になさいませ」

「戯れではないのだが……」

 心外そうに言ってから、レーヴハルトは尋ねる。

「では、アトリー。報告はここで聞こう。その後、場所を変えたいのだが、どこかあるだろうか」

「かしこまりました、ご案内いたします。―――まずは、概況から」

 アトリーの報告を聞きながら、ノアは考えを巡らせる。

 十中八九、レーヴハルトはアルドラ総督の全権をアトリーに委任しようとしている―――ミルザムでエインズレイにそうしたように。

(アトリー殿には気の毒だが、これでレヴィは、そこそこ自由に動けるというわけだ)

 無論、護衛という名の監視は着くだろうが、総督の椅子に縛り付けられることはなくなる。レーヴハルトの権限を超える者は、本国の皇帝と第一皇子だけだ。こちらの動きが伝わり、何かの沙汰があるとしても、しばらく時間がかかるだろう。

(何を企んでんのかねえ、うちの皇子様は)

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