第二章 14

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橡鴉しょうあさま、お加減はいかがですか」

 螺伽ラカが声をかけても、返事はない。呼びかけた相手は濡れ縁の端に腰掛け、茫洋ぼうようとした視線で外を眺めていた。身の丈よりも長い黒髪は、光の加減で暗紫あんしに光る。

「今日は何をいたしましょうか。新しい絵巻物など……」

「外に出たい」

 橡鴉は螺伽を遮り、呟いた。独白のようなそれは、不思議な圧力を持って螺伽に届く。揺らぎそうになり、螺伽はゆるゆるとかぶりを振った。

「申し訳ありません。それはできないのです」

「外に出たい」

 繰り返し、橡鴉は螺伽を見た。刹那、足下に水が広がり、螺伽は息を呑む。同時に壁や天井、窓もなくなり、視界は曇天どんてん鈍色にびいろ水面みなもだけになる。しかし、橡鴉は腰かけた姿勢のまま微動だにしない。―――この風景は、幻影だ。わかっていても、身一つで大海原に放り出されたような気がして足がすくむ。

「ここは煩くてかなわぬ。それに、酷く退屈だ。そなたなら我を外へ出せよう」

「お許しくださいませ、わたくしの一存では……」

「女王が何を言う。……このやりとりも飽いたわ。そなたもそうであろ」

 同意も否定も出来ず、螺伽は口を噤んで目を伏せた。橡鴉の言うとおり、螺伽が闇国あんこく玄耀げんようの女王に即位してから、幾度となく繰り返された会話だ。外に出たがる橡鴉と、応じられない螺伽―――玄耀国。

 いつもならばこれで終わりの決まり切った会話なのだが、今日はこれで終わらなかった。橡鴉は見えない濡れ縁から立ち上がる。すると、海原が凍土に変わった。立ち竦む螺伽にひたひたと近付き、すくい上げるように見上げてくる。

「終わりにせぬか。のう? そのほうが、そなたも楽になろうぞ」

 子どものような見た目に似合わず、橡鴉は老獪ろうかいな笑みを浮かべた。

 たしかに螺伽にとっては魅力的な誘いだ。できることならば、すべて終わりにしてしまいたい。自分一人のことだったらうに終わらせていただろう。しかし、不幸にして螺伽は玄耀の女王だ。民に生かされている以上、民を守る義務がある。

(終わらせてしまえるならば、どんなに……)

 螺伽の胸中を読んでいるかのように、橡鴉は笑みを深くする。

「我と共にゆかぬか。太古からの人の業を、そなたが一人で背負い込むことはあるまいよ」

 首を縦に振ることは出来ず、螺伽は頭を下げた。

「……お許しくださいませ」

「つまらぬのう。そなたならなびくかと思うたのだが」

 螺伽の答えを予想していたかのように鼻を鳴らし、橡鴉は再び腰掛けた。凍土が消え、風景が戻る。螺伽と橡鴉は元の濡れ縁にいた。

「わたくしの他にも……過去の玄耀の王にも、同じことを仰ったのですか」

「いいや? 我とて相手は選ぶ。今のところそなただけだ。光栄に思うがよい」

 橡鴉はくつくつと笑う。耳を塞ぎたくなりながら、螺伽はこぼれそうになる溜息を堪えた。

「これまでどおり、わたくしの耳目じもくをお貸ししますので、何卒……」

「そなたの中は居心地が悪い。見えるものも代わり映えせぬでつまらぬ。―――ね。我の誘いに乗る気になるまで顔を見せるでない」

 虫を払うかのように片手を閃かせる橡鴉に一礼して、螺伽はきびすを返した。こうなってしまった橡鴉には、食い下がってもますます機嫌が悪くなるだけなので、退散するに限る。玄耀では当分、雨が続くかもしれない。

 禁域を出て、螺伽は大きく息を吐き出した。すぐさま待ち構えていた女官と護衛に囲まれる。さほど長くいた気はしないのだが、昼過ぎに禁域に向かって、今は夕暮れの気配が濃い。

「お勤め、つつがなく」

 深く礼をする女官に一瞥いちべつをくれて、螺伽は歩き出した。

闇精あんせいが、人間のようなことを)

 内裏だいりの奥深くに閉じ込めてあるのは、闇精アートルムだ。名をはばかり、呼びかけるときは橡鴉と通称で呼ぶ。

 大陸に広く伝わる「口伝」は、すべて事実だ。闇国玄耀には「大いなるもの」が封じられている。そのせいで封じに大地の力がかれ、国土の殆どが痩せているのだ。その上、七精しちせいの一柱である闇精は「大いなるもの」が騒がしいと言って眠らずにいる。ゆえに他国のような加護は望めず、それでも闇精がいるおかげで、辛うじて民が飢えないほどの実りがある。いなくなってしまえば、国全体が凍ってしまうだろう―――先程見せられた凍土のように。

(精霊には、人が死のうが飢えようが関わりのないことなのだろうが)

 胸中で吐き捨て、螺伽は拳を握り締めた。耳にはまだ、闇精の囁きが残っている。



      *    *     *



「アルドラへ……で、ございますか」

 思わず繰り返した言葉を、総督の椅子に座ったレーヴハルトは首肯した。左右には側近の騎士二人が控えている。

「アルドラ国王リュングダール捜索の指揮をれと、勅命が。ミルザムから指示を出すより現地に入った方がいいだろう」

「しかし……レーヴハルト殿下はミルザム総督というお立場がございます。その上でアルドラ国王の捜索というのは、いささか……」

 これ以上は皇帝批判になってしまうので言葉を濁せば、レーヴハルトはちらと苦笑のような表情を浮かべた。

「父上のお考えはよくわからん。ミルザム総督にしても、アルドラ国王捜索にしても、私よりも適任がいるだろうに。―――そういうわけだから、しばらくの間、総督の全権を委任する」

 レーヴハルトが言葉を切り、少し待っても続かなかったので、尋ねる。

「……おそれながら、どなたにでしょうか」

「あなたにだ。エインズレイ副総督」

「は……え?」

 てっきり、側近のどちらかが残って総督代行を務めるのかと思っていたエインズレイは、ゆるゆると目を見開いた。

「め、滅相もないことでございます。私めには荷が勝ちすぎます」

「何を言う、そのための副総督だろう」

「お言葉ですが、私がこの地位におりますのは、ひとえに運と偶然にございます。巡り合わせと申しましょうか」

 家柄は並、頭は平凡、特筆すべき能力もない。

 十五年前、ミルザムに赴任したがる者がおらず、半ば強制的に集められた文官の中にエインズレイもいた。それから、周囲の人間は何度も入れ替わったが、帰る時機も決め手も見失ったまま、ミルザムに留まって十五年が過ぎ、いつの間にか副総督と呼ばれるようになっていた。だから今の地位は、エインズレイ自身の才覚によるものではなく、ただ長く留まっていたからに過ぎない―――訴えても、レーヴハルトは端正なその顔に笑みさえ浮かべて切って捨てた。

「運も実力のうちと言うだろう」

「は、いえ、しかし……」

「珍しい御仁ごじんだな、貴殿は。総督の権が転がり込んできたら、飛びつく者の方が多いと思うが」

 それには同意するが、エインズレイ自身はと問われると首を左右に振るしかない。

「……私は、身の程を弁えているだけです」

「では、言い方を変えよう。―――ミルザムは帝国の支配下に入って長く、統治も安定している。お飾りの総督が不在にしたところで問題ないさ」

「とんでもないことでございます。お飾りと仰るのなら、前総督の方が……んん」

 思わず口が滑りそうになって咳払いで誤魔化したが、側近の男の方がくしゃみを失敗したような声を出して顔を背けた。肩が震えているところを見ると、笑いを堪えているらしい。

 視線に気付いたか、レーヴハルトが側近を振り返って顔をしかめた。

「ノア。失礼だろう」

「ふ……申し訳ありません。エインズレイ殿は、とても……率直でいらっしゃる」

 笑いを噛み殺している様子につられ、エインズレイも小さく笑う。

「気を遣っていただかなくとも結構。私は率直なのではなく、腹芸が出来ないたちなのですよ」

「そういうところも含めて、レーヴハルト殿下はエインズレイ殿を買っていらっしゃいます」

 話題が逸れたと思いきや、元に戻されてエインズレイは鼻から息を抜いた。こちらがどう言おうと、レーヴハルトの心持ちは変わらないらしい。

(ようやくまともな総督が着任なさったと思ったのだが)

 歴代の総督―――特に軍出身は酷かった。手に入れた権力に舞い上がり、領主気取りで威張り散らすだけで、真っ当に統治しようという姿勢が見えなかった。西側大陸をはなから見下しているので、ミルザムの民が窮状を訴えようと見向きもしない。救済が行き届かず大勢死んでも、「燃料」が増えてよかろうと言い放つ者すらいた。

 戦に勝つだけならば容易い。問題はその後だとエインズレイはしみじみと思う。

 レーヴハルトは着任して二月足らずだが、ミルザムの歴史や地理、気候風土、文化、習俗を学び、既に治水や医療、教育など、不足している部分の補強に着手している。このまま良い方向へ向かうと思っていたのだが、見通しが甘かったようだ。

「永遠に委任するというわけではない。とりあえず一月、あとは様子を見て。定期的に連絡はする。細かいところは後で詰めよう」

 最早エインズレイに断る権利はないのだが、最後の抵抗としてぐずぐずしていると、レーヴハルトは机に両肘を付いて手を組み、その上に顎を乗せた。

「人を見る目はあるつもりだ。何せ、命がかかっていたからな」

 駄目押しのように微笑んで小首をかしげる。

「ここへ来て短いが、私は、エインズレイ副総督に任せたいと思った。引き受けてくれないだろうか」

 皇子にここまで言われて抗える者などいないだろうと、半ば諦めの境地でエインズレイは頭を垂れた。

「御意のままに」

「ありがとう」

「勿体ないお言葉です」

「では、正式な委任状を作らせる。詳細は後ほど。下がってよい」

かしこまりました。失礼いたします」

 退室して、エインズレイは深々と息をついた。引き受けざるを得なかったが、己に総督が務まるとはどうしても思えない。これまでの仕事は殆どが誰かの補佐であったし、これからもそれでいいと思っていた。

(アルドラ国王捜索が早急に終わることを祈ろう)

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