第二章 13-2

     *     *     *



「おお、アルくんとフィーアさんだったか。その節は世話になったな」

「バルトロさん!」

 声を上げるアルクスの隣で、フィアルカもぽかんと老爺ろうやを見る。茂みを掻き分けて二人の前に現れたのは紛れもなく、国境の森で帝国兵に足止めされていた人物だった。

 フィアルカは怪我のせいで途中で気を失ってしまったのだが、アルクスから、バルトロも無事に逃げおおせたとは聞いていた。しかし、まさかこんな場所で再会するとは思いもしなかった。

 驚きから我に返り、フィアルカは頭を下げる。

「アルから、バルトロさんがわたしの応急処置をしてくださったと聞きました。ありがとうございました。おかげで命拾いしました」

「なんのなんの、元はと言えばわしを助けてくれたのが原因だ。元気そうで何より。しかし、君たちがレイぼうの知り合いだとは思わなんだ」

「レイ坊……」

 思わずといったふうに呟くアルクスに、フィアルカも内心で同意する。あのレイツェルを、坊や呼ばわりできる人間がいるとは思わなかった。

 二人の表情を読んだかのようにバルトロが揶揄やゆめいた笑みを浮かべる。

「今でこそレイツェル猊下げいかだなんだと崇められておるが、昔のレイ坊は、大人を舐めきったクソガキだったものだ」

「え、レイさんがですか?」

「うむ。あの見目で、利発な子どもだったからの。大人の操縦法をよく心得ておった。困り果てた先代の水の継承者、レイ坊の母君に頼まれてな。性根を一から叩き直してやったわ。はっはっは」

 バルトロは快活に笑うが、フィアルカとアルクスは困惑して顔を見合わせた。幼少期のレイツェルは天使よりも愛らしかっただろうが、それでいて周囲の大人を手玉に取っている様子は想像が出来ない。

「立ち話もなんだ、こちらへおいで。たいしたもてなしはできないがね」

「お邪魔していいんですか?」

「そのつもりできたのではないのかね? レイ坊から連絡はもらっとるよ。光の継承者、光国こうこくアルドラ王子アルクス殿下と、その侍女で火の継承者、フィアルカ嬢」

 名を正確に呼ばれて、フィアルカは瞠目した。そこまで伝えているのなら、レイツェルはバルトロを全面的に信用しているのだろうし、こちらの情報の殆どがバルトロに伝わっていると考えたほうがよさそうだ。

「……バルトロさんは、何者なんですか」

 アルクスが警戒を隠さず言うと、バルトロは愉快そうに口角をつり上げる。

水国すいこくシェリアークの元導師にして、現『水皇すいこう』の元教育係。今はただの隠居じじいだ」

 レイツェルの教育係だったというのなら、彼が「老師」と呼ぶのも頷ける。武芸の師匠というだけではないのだろう。

「暇を持て余しておるじじいのあばら屋に、誰か遊びにきてくれんかのう」

 冗談めかして言うバルトロに、アルクスは小さく笑った。

「すみません。お邪魔します」

「うむうむ。フィアルカ嬢もいいかね」

 まさか意向を訊かれるとは思わなかったので、フィアルカは慌てて首肯した。

「は、はい。ご一緒させてください」

「では、こちらだ。道が悪いで、足下に気をつけてな」

 アルクスとフィアルカはもう一度顔を見合わせ、頷き合う。いろいろと警戒しなければならない立場だが、ここまできてバルトロが偽物だったり、レイツェルが何かをたくらんでいたりということはない―――気がする。

 ひょいひょいと軽い足取りで山道を上っていくバルトロは、老齢を思わせる見た目とは裏腹に健脚だ。

(レイツェル猊下は、どこまでわたしたちのことを伝えたのかしら……)

 フィアルカは、ほんの束の間レイツェルと話したことを思い出す。



「一人かい」

 中庭で時間を潰していたフィアルカは、声をかけられて振り返った。白と薄い青の衣装をまとったレイツェルが護衛を引き連れて近付いてくる。

「レイツェル猊下」

 フィアルカが膝を折ると、レイツェルは片手を振った。

「レイでいいよ。―――アルクス殿下は?」

「お部屋でお眠りになっています。わたくしがおりましては、お邪魔だと思いまして」

「なるほど、さすがに疲れが出たかな」

「ええ……そのようです」

 アルクスが昼寝―――もう夕方だが―――をするのは久々だ。夕餉ゆうげには起こさないといけないのだし、眠れるうちに眠った方がいいだろうと、部屋を出てきた。そうでなくても、アルクスはここのところよく眠れていないようだった。少しでも眠れるのなら、その方がいい。

 護衛たちは、そう言いつけられているのか、フィアルカだけが出歩いても四人が張り付き、囲んでいる。フィアルカとしては恐縮しきりだが、彼らも仕事なのだからと割り切ることにした。

「少し話せるかな」

「はい、勿論です」

 フィアルカが返事をすると、レイツェルは護衛たちを振り返って人差し指でくるりと円を描いた。すると彼らは、フィアルカの護衛も含めて一斉に散っていく。何が起きたのかわからないフィアルカがぽかんとしている間に、護衛たちは二人を中心に大きな円を描くように立った。

「これなら話を聞かれる心配も、邪魔が入ることもない」

 悪戯いたずらめいた笑みを浮かべるレイツェルを見上げ、フィアルカは小刻みに頷いた。彼も護衛も慣れている様子なので、レイツェルが誰かと話したいときは、いつもこんな感じなのかもしれない。

(人と話をするだけでここまでしなければならないなんて、水皇猊下も大変ね……)

「先代の火の継承者にお会いたことがあるよ。私が片手で足りるくらいの年の頃、一度だけだけれどね」

 フィアルカは目を見張った。先代の火の継承者は、炎国えんこくミルザムの王弟だった。当時は先代の水の継承者も存命だっただろうが、次代の継承者としてレイツェルがミルザム王弟と顔を合わせていてもおかしくはない。

「先代様は……わたくしにとっては、雲の上のおかたでした。お目にかかったことはおろか、お見かけしたこともありません」

「そうか。では、フィアルカ嬢は王家の遠縁などでもないんだね」

「滅相もないことでございます」

「帝国は、ミルザムの王侯貴族を皆殺しにしたのか。それで、火の紋章が次に選んだのが君の血だった」

「はい。ですが……、何故わたくしだったのか、いまだ……わたくしは、アルクス殿下やレイツェル猊下のような、高貴な出ではありませんのに」

 言いながらフィアルカがかぶりを振ると、レイツェルは不思議そうに首をかしげた。

「私は、七精しちせいの意思を人間の物差しで測れると考える方が、どうかと思うけれど。精霊に人の世のことわりが通用するはずがない」

 フィアルカは思わず小さく息を呑む。―――何故自分がと戸惑うばかりで、レイツェルの言うようなことを考えたこともなかった。

火精かせいイフリートは君を選んだ。それは紛れもない事実だよ。だから、人の世での出自など取るに足らないことさ」

 レイツェルは微笑み、フィアルカの返事を待たずにがらりと話題を変えた。

「アルドラの女官は皆、髪を短くする決まりなのかい?」

「え? は、い、いえ、そのような決まりはございません。これは……」

「路銀かな?」

 驚きと、答えにきゅうしたのとで言い淀んでいるうちに当てられ、フィアルカは言葉を失った。咄嗟に首を左右に振る。

「ち、違います、これは……その、そう、変装を……わたし……わたくしの赤毛は目立つので……」

「変装も兼ねての路銀調達で、一石二鳥じゃないか」

 しどろもどろに言い訳をするフィアルカを、レイツェルは彫刻もかくやという笑みで見ている。何を言っても誤魔化せそうにないので、フィアルカは諦めて認めることにした。

「……アルクス殿下には、どうかご内密に願えませんでしょうか」

「なんだ、言っていないのか。まあでも、そうだね。路銀のためにフィアルカ嬢が髪を売ったなんて知ったら、アルクス殿下のことだから、物凄く気に病むだろう」

 否定できず、フィアルカは無言で顔を伏せる。

 金銭のことが深刻な問題だと気付いたのは、アルクスと二人になってからだ。先立つものがなければ、食事も、宿を取ることもままならない。

 ディゼルトが共にいたときは、彼が知らぬ間に路銀を調達してくれていた。狩りの獲物を売るなどしていたらしい。

 フィアルカにディゼルトと同じことはできない。路銀が心許なくなり、最も手っ取り早くお金を手にできる方法が、髪を売ることだった。

 フィアルカが勝手にしたことで、アルクスに命令も依頼もされていない。しかし、レイツェルの言うとおり、アルクスはきっと気にする。自分のせいだと思ってしまう。

(だから、知らせないのが一番いい……)

 アルクスは既に十分すぎるぐらい重荷を背負っている。これ以上、どんな取るに足らないことでも、心労を増やしたくない。

「わかった、アルクス殿下には内緒にすると約束しよう」

「ありがとうございます」

「お礼を言われることではないよ。―――話せてよかった。少し気になってていたんだ、どうして君はそんなに怯えているのかなって」

 フィアルカは思わずレイツェルを見上げた。レイツェルは穏やかな表情で続ける。

「怯えというか、負い目とか、後ろめたさとか、そんな感じかな。老師のところへ行くのを提案したのは、アルクス殿下には少し冷却期間が必要だと思ったからだけれど、フィアルカ嬢にも上手くはたらくといいなと思うよ」

 アルクスのみならずフィアルカまで気に懸けてくれるのがありがたくも申し訳なく、フィアルカは頭を下げる。

「……お心遣い、痛み入ります。ご期待に沿えるよう精進して参ります」

 レイツェルは何故か、困ったような悲しそうな、不思議な笑みを浮かべた。

「君は、君自身のために動くことを学ぶべきかもしれないね。他人のために何かをするのは、実はとても簡単だから。その相手が望むと望まざるとに関わらずね」



 アルクスの態度は変わらなかったし、髪にも言及されなかったので、レイツェルは約束を守ってくれた。

 水国シェリアークの頂点に立つ水皇という立場だからか、彼はとてもさとい。アルクスの、彼自身は気付いていない心中も、レイツェルには察しが付いているのだろう。だから今は協力できないと言い、「老師」のもとへ行くよう取り計らってくれた。だとすれば、彼の見解もバルトロに伝えている可能性が高い。

(アルの気持ちが、少しでも落ち着けばいいのだけれど……わたしでは、それはできないから)

 フィアルカはただ、アルクスに寄り添うしかできない。レイツェルの言葉を、改めて思い返す。

(レイツェル猊下は誤解なさっているわ。わたしは……もう、わたしのために動いているのだもの)

 アルクスに仕えるのも、守るのも、誰に命令されたことではない。ましてや、強制されてもいない。フィアルカが自分で選んで行っていることだ。

 ひとえにアルクスの役に立つため―――ひいては、リュングダールに恩を返すため。それ以外の理由はないし、役に立てないのであればアルクスの近くにいるべきではない。否、許されない。

(全部、ここにいるために必要なことよ……わたしには、ここしか居場所がないのだから。だから、全部わたし自身のため)

 帰る場所はもうない。フィアルカ自身が消してしまった。

 フィアルカに怯えや負い目があるように見えるのであれば、そうなのだろう。火の紋章を継承したときからずっと、恐怖と不安を抱えている。

 だがそれは、アルクスには関係ない。フィアルカだけの問題で、取るに足らないことだ。

(……しっかりしなければ)

 決意を新たにし、フィアルカはアルクスとバルトロの背を追った。もうすぐそこに小屋が見えている。

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