第二章 13-1

 13


「がっ……」

 修練場の壁に叩き付けられ、彼はうずくまって咳き込んだ。

「あ、ごめんごめん。まだ加減がよくわからなくて」

 彼を吹っ飛ばした張本人は、極めて気楽に左の手首を振っている。長袖と手袋でそうとわからないが、特製の義手なのだという。

 イドレ・ニーズルヤード特務少佐は、先月に派遣された西側大陸の基地で、大規模な崩落事故に巻き込まれて左腕の肘から先を失ったと聞いた。左脚も粉砕骨折していたらしいが、今の動きからしてそちらは完治したようだ。

「もう一回いける?」

「はい……大丈夫、です」

 彼はよろよろと起き上がる。それを見たイドレは意外そうに眉を上げる。

「ルクバーくんだっけ。無理しないでね、怪我をさせたいわけじゃないんだ」

 頷き、ルクバーは取り落とした剣を拾い上げた。無論、刃の潰された訓練用のものだ。

 ルクバーとて特務隊の一員だが、一般兵と将校では雲泥の差がある。イドレには一般兵が十人束になっても勝てないだろう。

 修練場の中央に戻ってルクバーが剣を構えると、イドレも向かい合うように立った。イドレは徒手空拳である。武器種を選ばず使えるらしいが、今は義手の具合を確かめたいと言っていた。それを別としても、素手でも歯が立たないのに、得物を使われては相手にもならない。

「いい?」

「はい」

 ルクバーが首肯した瞬間、イドレの姿が消える。下手に動かない方がいいと先程の攻撃で学んでいるので、ルクバーは正眼に構えたまま重心を落とした。刹那、金属がぶつかる甲高い音が上がり、勢いを殺しきれず両腕が跳ね上がる。

(重っ……いんだよ!)

 間を置かず二撃目がくるので、慌てて構えを戻す。最早、目で追うことすら出来ないので、防御に徹していると、不意に攻撃が止んだ。

「ちょっと。そっちからもきてくれないと、木の棒叩いてるのと同じなんだけど」

「は……すみません」

 下手に手を出したら死にそうだとは胸中で呟くだけにする。イドレは義手の方でちょいちょいと手招いた。

「一回打ち込んでみ」

「はい。……行きます」

 ルクバーは剣を構え治し、半ば本気で死を覚悟しながら打ちかかった。そして、瞬きの後には地面に転がされている。

「いっ……」

 受け身もとれずに背中から叩き付けられたために、息が詰まる。呼吸を浅くして痛みを逃がしていると、頭上から逆さまのイドレの顔が覗いた。

「大丈夫?」

「は……い……」

 正直なところまったく大丈夫ではないのだが、ルクバーは辛うじて返事をした。さすがにこれ以上は相手をできない、可能ならば医務室へ行きたいと思っていると、

「面白そうなことしてるじゃねえか」

 普段であればすくみ上がる声だが、今は救世主のそれに聞こえた。顔を上げたイドレが軽く片手を上げる。

「やあ、ヴォルギス」

 摺鉢すりばち状になっている修練場の、上部出入り口付近からヴォルギス・ブローデン特務中尉が下りてくるところだった。おそらく三十前後の、筋骨隆々の大男である。特務隊ではイドレと素手で渡り合える唯一の人物だ。

「動いて大丈夫なのか、イドレ。腕と足持ってかれたって聞いたが」

「持ってかれたのは左腕だけ。足は骨折。もう治ったよ」

「そいつはよかった。それで、義手のテスト中か。―――おまえは?」

 なんとか立ち上がったルクバーは、ヴォルギスに向き直って姿勢を正す。

「は、ジェローム・ルクバーであります」

「ルクバー。一人で少佐の相手ってのはちょっと荷が勝ちすぎやしないか」

 ルクバーは内心で首がもげんばかりに頷いた。そもそも、望んで相手になっているわけではなく、たまたま手が空いていたから連れてこられただけなのだ。

 ルクバーの思いを知ってか知らずか、左の手袋を外したイドレはヴォルギスに義手を示して、握ったり開いたりして見せる。

「ってことは、ヴォルギスが相手してくれるのかな」

「いいけどよ、せっかく作って貰った義手、壊しても知らねえぞ」

「そんなへましないよ」

 楽しそうに小首をかしげて微笑むイドレへ、ヴォルギスも凶悪な笑みを返した。一拍の沈黙があって、二人同時に地面を蹴る。ルクバーは巻き込まれないように慌てて壁際まで下がった。

 あとは別次元である。ルクバーには目で追うことすらできない。組み手の域を超えていることが行われているのはわかるが、何がどうなっているのか頭の処理が追いつかない。素手で打ち合っているとは信じがたい音だけが耳に届いて、止めた方がいいのだろうかと心配になっても、ルクバーが二人の間に割って入ることは、そのまま死を意味する。

「あの……」

 唐突に背後から声をかけられ、ルクバーはびくりと肩を跳ねさせた。慌てて振り返ると、白衣を着た小柄な女性が困ったような顔で立っている。

「な、なんですか?」

「局長から、ニーズルヤード特務少佐にお戻りくださるようにと伝言を預かってきたのですが……今そちらで手合わせしていらっしゃるのが、少佐なのですよね?」

「はい。ですが、お二人を止めるのは無理かと」

 ルクバーの言葉を聞いた女性研究員は、ますます困った顔になる。

「しかし、義手の未使用パーツが見つかったそうで、調整が必要とのことなのです。このまま続けられると壊れてしまうやも」

「え」

 それはまずいのでは、と思った瞬間、バキンと金属の砕ける音がした。

「はあ!?」

 珍しくイドレの驚いた声がして、そちらを見れば、くだんの義手が弾け飛んでいた。体勢を崩したイドレに、追い打ちをかけるようにヴォルギスが迫る。

「待っ……ちょっと待ってください! 少佐! 中尉! 局長から言伝ことづてが!」

 ルクバーの声が聞こえているのかいないのか、紙一重でヴォルギスの拳をかわしたイドレが右腕一本で跳躍し、間合いの外へ後退する。そして、手首から先が失くなった左手に視線を落とした。

「あーあ、壊れちゃった。怒られたらどうしてくれんの」

「俺の知ったことか。強度不足だって局長に言っておけ」

 興を削がれたように言うヴォルギスに肩を竦め、イドレはルクバーを見た。あれだけ激しく打ち合っていたのに、息一つ乱さず、怪我らしい怪我もない。

「言伝って何?」

 これには女性研究員が応える。

「義手に再調整が必要だと、局長が。未使用パーツが見つかったそうです。研究室へお戻りください」

「うっそ、よかった。義手の不具合なら壊れたのもそのせいだよね。僕のせいじゃなく」

 壊れた原因は不具合ではなく、間違いなく強度の限界を超えて打ち合ったせいだと思うのだが、口に出す勇気はルクバーにはない。

「というわけで、ヴォルギス。続きはまた今度」

「おう。しっかり治して貰えよ」

 ヴォルギスは片手を上げて去って行き、イドレは壊れた義手を拾い上げて戻ってきた。ルクバーは興味本位で尋ねる。

「……痛くないのですか?」

「うん? ああ、痛みはない。僕の意思で動くように繋いであるはずだけど、痛覚は麻痺させてるのかね? 動かすだけだから神経は繋がずに、信号だけなのかな。よくわからない。詳しいことは局長に訊いて」

 言いながらイドレは義手を振って見せた。生身の腕であれば、手首から先を失ったら痛いでは済まないのだが、局長特製の義手はルクバーには理解できない技術が使われているのだろう。そもそも、作り物である義手が装着者の思い通りに動かせるという時点で既に、現在一般的に知られている技術を遙かに超えている。

「あとは上がっていいよ。お疲れ」

 言い置いてイドレは女性研究員と共に去って行く。一人残されたルクバーは、飛び散った金属片やパーツを集めにかかった。今日は時間が遅いので修練場が使われることはないだろうが、そのままにしておいては、次に使う者が破片で怪我をしてしまうかもしれない。

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