第二章 4
4
夕刻。
夜のうちに宿場町を出て距離を稼ぎ、日が落ちる頃に国境の手前まで辿り着くことができた。
聞いた話のとおり旧街道に人影は殆どなく、だからか、帝国兵の姿もなかった。おかげで国境付近までは順調に進むことができたが、やはり国境は関所のみならず周辺も警戒されているようで、なかなか動くことができない。
フィアルカとアルクスは、森に身を隠して完全に暗くなるのを待っていた。
隠れながら進んでわかったことだが、どうやら帝国人はフィアルカたちほど夜目が利かないらしい。
フィアルカとしてはまだ明かりは必要ではないのだが、
(巡回の間隔はなんとなくわかってきたわ……暗くなったら一気に国境を越えてしまいたいけれど……)
帝国兵の注意を逸らせるにはどうしたらいいか―――いっそ篝火を倒して騒ぎを起こすか、道を挟んで向こう側の森に火を放つかと考えて、フィアルカは強く目を閉じる。燃える森を想像しただけで胃を絞られるような気がして、冷や汗が滲むが、無理矢理、胸の底に押し込めた。
(大丈夫、大丈夫よ……砦でも大丈夫だったじゃない)
「何か……揉めてない?」
「え?」
アルクスの囁き声で我に返り、フィアルカは彼の示す方を見た。いつの間に現れたのか、大荷物を背負った
(いけない……もっと注意しないと)
見つからないよう、茂みからは出ずに様子を窺っていると、どうやら老爺は旧街道を抜けて
帝国兵の一人が威嚇するように声を大きくした。
「だからよ、爺さん。ここは通せないんだ。新道の方を行けば関所があるから、そっちを通ってくれ」
「なんでじゃ。ほれ、このとおり旅券はあるぞ。
「そうだが、駄目なものは駄目なんだ。それに、この旅券はアルドラが発行したものだろう。もう無効だ」
「国がないんじゃ無効だよなあ」
何がおかしいのか、帝国兵たちは嘲るように笑った。
ギリ、という音が聞こえて目を遣ると、アルクスが剣の柄を握り締めて帝国兵たちを凝視している。その手が震えるほど力が籠っていて、フィアルカはそっと彼の腕を引いた。小声で告げる。
「駄目よ、
「……わかってる」
小さく頷き、アルクスはぎこちない動きで柄を放した。胸中の嵐は察して余りあるが、ここで見つかるわけにはいかない。フィアルカとて、できることなら帝国兵を全員消し炭にしてやりたいが、
「今なら行けるかもしれないわ。……おじいさんには悪いけれど」
帝国兵の注意は老爺に向いている。抜けるなら今だ。
アルクスは驚いたようにフィアルカを見た。戸惑った様子で老爺とフィアルカを交互に見る。
「でも……このままじゃ、あの人」
「素直に引き返せば何もしないと思うわ。帝国が探しているのはわたしたちだもの」
「そうだけど……」
「お願い。わたしたちは、シェリアークへ行かなければならないの」
「……わかってるよ」
言葉を途切れさせ、束の間沈黙したアルクスは不服そうだったが頷いた。フィアルカも頷き返し、二人はそろそろと動き出す。腰を屈め、極力音を立てないように陰から陰へと移動する。
老爺と兵士たちはまだ揉めている。
「急いでいるんじゃ、通してくれんかの」
「くどいぞ、じいさん」
「いい加減諦めろや」
「そうはいかん。 儂の薬を待っている子がいるんじゃ」
老爺が告げた途端、帝国兵たちの空気が変わった。
「へえ、じいさんは薬売りか」
「随分重そうな荷物だな。中身を改めないとなあ?」
「何をするんじゃ。おまえさんたちに渡すものはないわい」
「いいから寄越せって」
この先起こることを思うと、フィアルカは足を止めそうになる。目を逸らし、胸中で老爺に詫びながら脇を通り過ぎる。
しかし、
「……ごめん、フィーア」
どうしたのかと問う前に、立ち上がったアルクスが何かを振りかぶっていた。止める暇はなく、帝国兵たちにそれを投げつける。
「痛って!」
「なんだ?」
「そっちから飛んできたぞ!」
アルクスが石か何かを投げたのだとわかった頃には、帝国兵たちが
「誰かいるのか?」
「おい、出てこい」
まだ二人の姿は見えていないようで、森の中へ踏み込んでこようとする兵士目掛けて、アルクスが光球を放った。足元に落ちたそれは炸裂し、強い光を放つ。フィアルカは反射的に目を閉じた。
「うおっ!」
「何!?」
声を上げる兵士を押しのけ、アルクスは森から飛び出した。フィアルカもその後を追う。こうなっては、胃が
「金髪……こいつ、まさか!」
「殺すな、捕まえろ!」
「囲め! 応援を呼べ!」
帝国兵を無視し、アルクスは老爺の手を引いた。
「こっち!」
言いながらアルクスは逆側の森へ入り込み、追いかけるフィアルカは後方へ炎を放った。加減をする余裕はなく、兵士たちの悲鳴が聞こえる。それに混じって、指示を飛ばす声も。
「王子がいたぞ!」
「こっちだ! 追え!」
「早くしろ、逃がすな!」
フィアルカは走りながら枝葉の向こうの空を見た。幸い、今日は晴れており、星で方角が分かる。目印もなく、見通しも悪い夜の森である。街道を外れてしまえば獣道すらない。あとは星で方角を掴みながら進むしかない。
「左手側へ! そっちが南、国境よ!」
返事はなかったが、アルクスと彼に手を引かれた老爺は進む方向を変えた。少しでも
森の中で視界が悪いとはいえ、白い光は炎のそれよりもはるかに強く、遠くまで届く。惑うように揺れる一条が三人を撫でた。
「いたぞ!」
「南から回り込め!」
「応援はまだか! 国境を越えさせるな!」
フィアルカは祈るような気持ちでアルクスの背を追った。声も出ないのか、老爺は手を引かれるまま走っている。
「見つけた!」
不意に近くで聞こえ、フィアルカは息を飲んだ。飛び出してきた兵士がアルクスへ銃を向け、考えるよりも早く身体が動く。射線を遮るように割って入り、両手を広げた。
「駄目!!」
瞬間、左の脇腹に強い衝撃があり、フィアルカは仰け反る。
「フィーア!!」
アルクスが呼ぶ声が、まるで悲鳴のように聞こえた。
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