第二章 3

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螺伽ラカ様。スヴァルド皇帝陛下から贈り物が届いておりますよ」

 濡れ縁に立つ女―――螺伽は、声をかけた侍女頭を睥睨へいげいした。不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「いつもの機嫌うかがいだろう。また何か企んでいるのかもしれぬ。捨て置け」

「そう仰らずに。ご覧になるだけでも」

 螺伽が幼い時分から仕えている初老の侍女頭は、忌々し気な女王の声音にも動じず、にこにこと手近な箱を開けて見せた。

「まあ、なんて美しい細工のくしでしょう。鼈甲べっこうと真珠でございますよ。螺伽様の御髪おぐしに映えますわ」

「気に入ったならくれてやる。そなたらで分けよ。不要なものは 売り払って国庫の足しにでもするがよい」

 二十を超えたばかりの闇国あんこくの女王は、その身を飾ることに一切の興味がないようだった。公の場に出たり、客を迎えたりするとき以外は、髪も結わず、化粧もせずに過ごすことが多く、華美な着物も装飾品も好まない。

 それでも、肌は白雪、唇は紅珊瑚、瞳は菫青石きんせいせきと称される彼女の美しさを損なうものではない。人形よりも整った顔を縁取るのは黒絹の髪。日に透けると紫紺しこんに光るそれは、闇国人特有の色である。

 惜しむらくは、もう長い間―――女王に即位してからこちら、螺伽の笑顔を見た覚えがないことだ。僅かでも微笑めば、「闇紫あんし氷姫ひょうき」などという悪口のような二つ名も消えようものをと、若い侍女は口惜しく思う。

 一つ息をつき、螺伽は身体ごと振り返った。顔の左半分を覆う黒の紗が翻る。

 螺伽の左頬には、「継承者」である証の、闇の紋章が浮かび上がっている。紋章を衆目に晒すことをいとうた螺伽の母親、先代女王の意向で、長じてからは螺伽自身の意思で、この黒紗を外すことは滅多にない。

「時間だ。戻る」

「お言葉ですが、陛下。せめて一つなりとも」

「くどい!」

 声を上げ、螺伽は言い募る侍女頭の腕を手にした扇で打ち据えた。控えた侍女たちはびくりと竦むが、当の侍女頭は怯むことなく頭を垂れる。

「申し訳ありません。出過ぎた真似をいたしました」

「スヴァルド皇帝には、いつもどおり適当に返礼を送っておけ。女王は鼈甲の櫛をいたく気に入ったとでもな。それでよかろう」

 言い捨てると螺伽は衣擦れの音を立てて奥へ戻っていく。侍女たちもそれに続いた。

(やはり、姫様はお変わりになってしまわれた……)

 先代の女王が身罷みまかり、螺伽が女王に即位したのは七年前、僅か十三歳のときだった。それまではどちらかというと気弱で心優しい、虫も殺せないような少女であり、今のように侍女に手を上げることは決してなかった。女王として祭祀さいしを担うようになり、成長と共に心境の変化はあるだろう。だが、ここ数年の変わりようは別人のようだと侍女は思う。

 螺伽は女王であるが、かんなぎでもある。まつりごとは現在でも主に宰相たちが行い、螺伽は覡の役目に重きを置いている。

 闇国は西大陸の北端に位置する島国で、冬は厳しく、土地は痩せて、国全体がとても貧しい。人々が暮らしていくには闇精あんせいの加護が不可欠だ。しかし、国土に「大いなるもの」を封じる闇国では、そ影響で闇精アートルムが眠らずにいる。度々荒ぶる闇精と対話し、慰めて宥めるのが螺伽の重要な役目の一つである。

(少しでもお休みになれればよいのだけれど)

 一国の女王にして「継承者」であることも、連日の闇精との対話も、徒人の侍女には計り知れない負担があるのだろう。一国を背負うには華奢すぎる後姿を見つめながら、螺伽が少しでも心安らかであるようにと、侍女はそっと祈った。

 


     *     *     *


 

 アルクスとフィアルカは、関所の手前の町まできていた。

 気休め程度だが、水国すいこくシェリアークとの国境とは別方向へ向かったと村長たちに思わせるために、村から一旦北へ進み、遠回りをして街道に入った。人が多い方が目立たないだろうと、そこからは街道を歩いてきた。

 町に辿り着いたのは昨日のことだ。砦の一件からは四日が経過している。

 関所では帝国兵が常駐して検問を行っており、通れない人々が溢れているという。この町もかなり賑わっているが、アルドラ王城が落ちた直後は、水国シェリアークへ脱出しようとする人々で街道が延々と埋まっていたというから、これでも落ち着いた方らしい。

 なんとか宿に滑り込んだ二人は、それまでの疲労がたたって泥のように眠った。昨夜早々に寝たはずなのに、目を覚ましたら周囲が薄暗くて混乱したが、どうやら殆ど丸一日眠ってしまったらしい。

(……買い出しかな)

 フィアルカの荷物はあれど姿が見えず、アルクスは首を傾げた。込み合っている中で、さすがに二人別々の部屋は取れず、二人で一部屋である。それも、泊まれる人数を増やすために、一人部屋に寝台を無理矢理二つ運び込んだような狭さで、寝台と小さな机の他は何もない。

 置き上がったままぼんやりしていたアルクスは、顔でも洗ってこようかと寝台から両足を下ろした。すると、静かに扉が開いて、袋を抱えたフィアルカが入ってくる。

「ああ、起きたのね、アル」

「うん……、フィーア!?」

 思わず声を上げると、フィアルカはぎょっとしたようにアルクスを振り返った。

「な、何?」

「どうしたんだ、その髪!」

 いつも編んで結っていたフィアルカの長い髪が、耳の下あたりでばっさりと切られてしまっている。眠る前は変わりなかったはずなので、今出かけた時に切ってきたのだろうかと、アルクスは半ば呆然とフィアルカを見た。

 当の本人は気にしたふうでもなく荷物を下ろし、短くなってしまった髪を一房摘んだ。

「短い方がいろいろと楽だから。おかしいかしら?」

「いや、短いのも似合ってるけど……勿体ない」

「またすぐ伸びるわよ。―――アルが長い方が好みだなんて知らなかったわ」

 明らかに揶揄する口調で言われて、アルクスは顔をしかめた。

「そういうことじゃなくて」

「冗談よ、わかってる。でも、短い方が楽なのは本当よ。それに、ちょっとした変装にもなるでしょう」

「それはそうだけど……じゃあおれも短くしようかな。いっそ全部剃るとか」

「アルは駄目」

 間髪入れずに言われて、アルクスは首を傾げる。

「なんで?」

「駄目なものは駄目。それより、お腹空かない? 適当に買ってきたから、よかったら食べて」

「ありがと」

 フィアルカが差し出した紙袋には、薄切りの燻製肉を挟んだパンと、果物が幾つか入っている。目にした途端に空腹を覚えて、ありがたくいただくことにする。

 同じようにベッドの端に腰かけてパンを食べながら、フィアルカが言う。

「買い物がてら話を聞いてきたのだけれど、やっぱり、関所には帝国兵が詰めているみたい。アルドラ側にいるから、シェリアークも手が出せないんだろうって」

「そっか……やっぱり普通に国境を超えるのは無理かな」

「道の悪い旧街道もあるそうよ。でも、そちらにも帝国兵がいるって」

 フィアルカの言葉にアルクスは頷く。帝国が捜しているのは自分たちだ。どこの関所も同じようなものだろう。監視の甘い場所をあるかもしれないが、それを探している余裕はない。

 ディゼルトならどうするだろうと考え、アルクスは唇を引き結んだ。自分がどれほど彼に頼りっぱなしだったのか思い知らされる。

 ディゼルトはいつも、アルクスのことを第一に考えてくれていた。それを、うとましく思った少し前の自分を殴りたい。

 本当は、ディゼルトを捜しに戻りたい。だがそれはディゼルトの意思に反することだ。彼はアルクスが無事に水国シェリアークへ辿り着くことを望んでいた。ならば、それを叶えなくてはならない。

(おれが、もっと早く……最初から、そう思えていれば……)

 後悔は尽きず、帝国への憎悪は募るばかりだ。己の無力さを棚上げして、帝国の侵略さえなければと思ってしまう。

「……ル。アル、聞いてる?」

「え? ……ごめん、聞いてなかった」

 正直に言うと、フィアルカは困ったような笑みを浮かべた。

「だと思った。―――このまま街道を行くか、旧街道を行くかなのだけれど」

 フィアルカが聞いた話では、旧街道を国境まで行くと、帝国兵が待ち構えていて、街道の方の関所を通るようにと追い返されるという。そのせいで、旧街道は人通りがまばらであるらしい。

 一方、街道は人が多く、紛れ込むことができるが、目撃されて記憶される可能性も高まる。

 どうしたものかとアルクスは腕組みをした。

「うーん……どっちかっていったら、旧街道の方がいいのかな。ここから国境まではあんまり人目につかない方がいいよね。おれたちを見た人も危なくなるかもしれないし……」

 アルクスとフィアルカがいたようだと帝国兵が知れば、同時期にこのあたりを往来した人々へも詮議が及ぶかもしれない。そしてそれはきっと、穏やかなものではないだろう。

「そうね。じゃあ、旧街道を行きましょうか。森に入ったら街道から外れて、国境を越えましょう」

 アルドラとシェリアークの国境にもなっているルドキア山脈は、深い森に覆われている。踏み入ってしまえば姿を隠してくれるだろうが、迷う危険もある。しかも、山を登らなければならない。さほど急峻な場所ではないが、道のない山を登るのは楽ではないだろう。

 アルクスの考えを見透かしたかのようにフィアルカが言う。

「なんとかシェリアークに入ってさえしまえば、街道に戻っても大丈夫だと思うわ。

 シェリアークには魔法障壁があり、その内側では帝国の機械は動かなくなる。銃なども使えなくなるはずだ。人による追跡は止められないが、だいぶ楽になるだろう。

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