第一章 12

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「ねえ、まだ動かないわけ」

 不機嫌さを隠さない声音に、主任研究員は冷や汗が噴き出るのを感じた。そっと左右をうかがえば、同じように集められた研究員たちも一様に顔色が悪い。

 真偽は定かではないが、研究員が聞いた話によると、柱に寄りかかって作業を見守っている―――あるいは監視している―――特務少佐の機嫌を損ね、もうこの研究所の職員が三人は惨殺されているという。

 正当な理由なく処刑すれば軍が黙っていないはずだから、相当誇張された噂だろうが、所長のエルメルが投獄されたというのは本当らしい。エルメルが凍結させた幻晶生産ラインを動かすために、研究員数名が工場に集められて、システムのロック解除を迫られている。

「主任、やっぱり僕らだけじゃ無理ですよ」

 隣にいる研究員が特務少佐に聞こえないように囁く。

「ライン止めるだけじゃなくてメインシステム自体が起動しないように組まれてますよ。誰にも気付かれずにそんなことできます? 一体何者なんですか、エルメル所長って」

「何者って……天才だろ」

 何せ、半ば趣味で自律機兵オートマータなるものを開発し、用兵の概念をくつがえしてしまった人間だ。誰にも操作されず、自分で判断して動く機械など、夢想したことはあっても実際に作ろうとは考えないのではないかと彼は思う。作ろうとしても、完成させることができるかはまだ別の話だ。

「……主任、これ」

 逆側の隣にいた研究員に呼ばれ、彼はそちらを見た。

「なんだ?」

「システムの起動には所長の生体認証が必要です。そういうエラーが出てます」

「生体認証? そんな馬鹿な。どれだけの機材が必要だと思ってんだ」

 通常の鍵だけでなく、人間の指紋や声紋、虹彩などを読み取って鍵にする生体認証は、つい最近に実装された最先端の技術だ。帝都でも重要機密保管庫など、中枢の極一部にしか使われていない。そもそも、生体認証を使うには専用の設備が必要で、この要塞にも研究所と工場にも、そんなものはない。

「でも、現にエラーが」

 研究員の示すモニタには、エラーメッセージが出ている。パスワードだけかと思いきや、たしかに生体認証も必要だとあった。

「本当だ。一体どうやって」

「たしか、生体認証の開発にも、エルメル所長が関わってるって聞いたことがあります」

 別の研究員から聞き捨てならないことが出てきて、主任研究員は思わずため息をついた。

「開発者か……どうりで」

 自分がこの工場を止めて、誰にも起動されないようにロックしようと思っても、生体認証を使うことは思い至らない。エルメルは、開発するほどの頭脳と技術があって、ここにある機材で可能であるから、実行に移しただけなのだろう。

 考えて一つの可能性に気付き、主任研究員は口元に手を当てた。

「待てよ。キーストロークか?」

 生体認証には、指紋や虹彩など生体器官を使うものと、特定の人物の癖や動きのパターンのような、行動的特徴を使うものの二種類がある。その仮説を説明すると、研究員が信じられないとでも言いたげにかぶりを振る。

「そんなことできます? 一回、研修で開発段階の生体認証設備を見ましたけど、すごく大掛かりでしたよ。機材だけで一部屋占領するレベルの」

「現にできてるんだからこういうエラーなんだろ。エラーメッセージも用意するなんて余裕だな」

 システムが「エラーである」と知らせてくるのは、想定されたエラーの場合だけだ。想定外の場合は、エラーメッセージすら出ないことがままある。

「じゃあ、なんで主任はキーストロークって思ったんですか?」

「ここにあるものだけで生体認証を使おうと思ったら、キーストロークを使うことくらいだって思っただけだ。光彩を読むにも指紋を読むにも、機材が足りない」

 生体認証システムを構築するのと並行してエルメルの打鍵の癖を学習させて、それをパスワードと併用する。手順は想像がつくが、やってみろと言われたら無理だ。

「え、じゃあもう所長以外にロック外せないじゃないですか。パスワードが解析できても、それを打ち込むのに所長の打鍵だけんの癖を再現しないとってことでしょう?」

「そうなるな。……天才通り越して化け物だ」

 主任研究員が隣のモニタをのぞいてかぶりを振ったとき、

「何ごちゃごちゃ喋ってんの」

 いつの間に近づいてきていたのか、すぐ背後で特務少佐の声が聞こえて主任研究員はすくみ上がった。恐る恐る振り返ると、不機嫌を頬に貼り付けたかのような特務少佐が立っている。声をかけられるまで、まったく気配を感じなかった。

「喋る余裕があるなら解析は終わったんだろう? 早く稼働させてくれないかな」

「いえ……あの、これはおそらく、エルメル所長以外には動かせないもので……」

 今しがた立てた仮説を説明すると、イドレは不機嫌な表情を崩すことなく鼻を鳴らした。

「それが?」

「……ですから、所長がいないと」

「僕は機械のことは少しかじった程度だけどね、誰か特定の人物にしか動かせないなんてのは欠陥品なんだよ。所長が優秀であればあるほど、そんなの作るとは思えないんだけど」

 特務少佐の言うことは正論だが、状況が状況だ。エルメルがえてそういうふうに組んだ可能性もある。

 それを反論しようと口を開いた瞬間、地面が揺れた。爆音も聞こえた気がして、主任研究員は周囲を見回した。ほかの研究員たちも不安げに首を巡らせている。

「なんですか、今の」

「揺れましたよね……」

「地震?」

「違うね。爆発だ」

 研究員たちの囁きを遮り、特務少佐が言い切る。わかるのかと彼を振り返ると、表情を読んだかのように特務少佐は薄く笑んで首を傾けた。

「地震の揺れと爆発の揺れは全然違うよ。今のは爆発。東の方だったね」

 特務少佐の言葉を肯定するかのように警報が鳴りだし、放送が戦闘配備を告げた。

「敵襲か」

 独白めいて呟いた特務少佐がとても嬉し気な笑みを浮かべるのを、主任研究員は見てしまった。言葉を失っていると、特務少佐は控えていた兵士たちの方へ歩き出す。

「ちょっと加勢してくる。君たちは僕が戻ってくるまでにロック外しておいてね」

 言い置いて特務少佐は兵士たちを従えて工場を出て行った。監視がなくなって研究員たちはほっと胸を撫で下ろす。

「どうするんですか、主任。所長のプログラム解析するの、一日二日じゃ無理ですよ」

「わかってる。避難だ」

「え、でも少佐が……」

「戦闘に巻き込まれて俺たちが死んだら、解析どころじゃなくなる。今はとにかく避難だ。行くぞ」

 主任研究員は部下たちを連れて避難場所へと向かった。 敵襲で非戦闘員が避難したからといって、文句を言われる筋合いはない。

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