第一章 6

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 若い兵士は冷や汗をかきながら声をかけた。

「すみません、幻晶げんしょうが欲しいんですけど」

「無理」

 机に向かったままの研究員は、顔を上げもせず何某なにがしかの資料をめくりながら面倒くさそうに答える。背後に立つ人物の気配に、更に冷や汗が吹き出るのを感じつつ、若い兵士は重ねて頼んだ。

「必要なんです」

「ないものはない。所長が生産ライン止めちゃってるんだから。研究所と基地の維持だけであと十日持つかどうかだってのに」

「そこをなんとか……」

「ならない。要塞の夜間照明落としてもいいなら出せるけど、そっちの隊長が許可しないでしょ」

「でも、あの、使うのは私じゃなくて」

「もういいよ。つまり、余ってる幻晶はないってことだね」

「そういうこと……」

 横から遮った言葉を肯定しながら、研究員はようやく顔を上げた。若い兵士の隣に立っている青年を認めて青褪あおざめ、立ち上がる。

「……失礼いたしました、少佐」

「おや? 君と僕は初対面じゃなかったかな? ……服か。制服もたまには役に立つものだね」

 少佐は、童話に出てくる猫のような笑みを浮かべて首をかたむけた。動きに合わせて長めの銀髪が揺れる。

「一応言っておくけど、僕は特務少佐だよ。技術研究局直属特務隊所属、イドレ・ニーズルヤード特務少佐。よろしく」

 にこやかな青年将校とは裏腹に、顔色をなくした研究員は硬い声で尋ねた。

「このたびは、どのようなご用件で……」

「おかしいな、聞いてないの? 視察のこと。局長の名代さ。今日着いたばっか。僕に視察の役目が回ってくるなんて、帝国も人手不足なのかね。それとも僕が邪魔だったのかな」

 独白のように言うイドレに、研究員は小刻みにかぶりを振る。

「いえ、本国から視察のかたがいらっしゃるということはうかがっております。所長は今、所長室の方に……」

「ああ、わざわざ研究室に何しにきたんだこの忙しいのにってこと?」

「ち、違います、そういうわけでは」

「今この子が……ヴィクトルくんだっけ? ヴィクトルくんが言ったでしょ、幻晶が欲しいんだ。持ってきた分は切らしてしまってね。でも、ないなら仕方ない。君で我慢するよ」

「え? は?」

 わけがわからないといったふうにせわしなく瞬きする研究員の喉元に、いつの間にか刃が現れている。イドレがいつ抜いたのか、兵士―――ヴィクトルにはまったくわからなかった。

 長剣というよりは大剣寄りの、片手で扱うには大きすぎる剣である。だが、それを左手だけで構えた切っ先は小動こゆるぎもしない。

「ひ……」

 事態を飲み込んだか、研究員は硬直して引きつった声を漏らす。二呼吸ほどの間を置いて、イドレは剣を引いた。刃を向けられていた研究員は、糸を切られたように声もなくその場にへたり込む。

「やだなあ、冗談だよ。そんな顔しないでほしいな。殺すわけないじゃないか、味方の人間を。ねえ?」

 イドレは誰にともなく同意を求めたが、室内は静まり返ったままだ。今やここにいる全員が彼の言動に注目していた。

も燃料切れだしね。だから幻晶が欲しかったんだけど、ないんでしょ? 燃費が悪いんだ、これ。幻晶がないと、剣って言うより鈍器だよ」

 言いながら少佐は剣を収めた。「これ」というのはおそらく彼が手にしている剣のことだろうが、ヴィクトルにはどういう意味なのかさっぱりわからなかった。銃などの火器は幻晶で動くが、剣に幻晶を使うなど聞いたことがない。

「幻晶の余剰分がないんじゃあ君たちも心配だろう? でも所長が生産ラインを止めてる、と。その所長に会いたいんだけど、所長室はどこかな」

 最初に動いたのは、一番奥にいた女性の研究員だった。

「よ……呼んできます」

「いいよ、僕が行く。案内して」

「……はい。こちらです」

 女性研究員の後をついてイドレは歩き出す。その後ろを、護衛たちがぞろぞろと続いた。半分はイドレが連れてきた特務隊で、半分はこの砦の警備兵である。ヴィクトルは後者に属する。

 研究所内を兵士の集団が歩いているのは珍しいのだろう、廊下にいる研究員たちは、皆一様に足を止め、何事かというふうに行列を見送っている。

 どこも無機質で似たような造りなので、研究所にあまり足を踏み入れたことのないヴィクトルには、最早どこをどう歩いているのかわからない。さらにいくつか角を曲がり、少々不安になってきたあたりで、先導の女性研究員が足を止めた。扉を叩く。

「失礼します、所長。視察のかたがたがいらっしゃいました」

 返事は聞こえなかったが、扉が開いた。女性研究員は中へ入らず、イドレを促す。青年将校は一つ頷いて部屋へ踏み込み、護衛たちもそれに倣った。

 ヴィクトルは所長室に入るのは初めてなので、思わず部屋を見回してしまう。左右の壁には天井まで届く書架があり、書類や資料がぎっしりと詰まっている。左側に応接用と思しきテーブルセット、正面やや右寄りに大きな机があって、やはり書類で埋まっていた。

 部屋の中央には、眼鏡に白衣の青年が一人立っている。おそらく三十前後だろう、ヴィクトルが想像していたよりも若い。線が細く、いかにも研究者といった風情だった。

「思ったより狭いね。君たちは外で待っててよ」

 一方的に言ってイドレは扉を閉めてしまった。護衛の半分を閉め出し、所長に向き直って笑みを向ける。運よく室内に残ることができたヴィクトルは、はらはらと行方を見守った。

「君がここの所長さん?」

 白衣の青年は無言で首肯した。

「そう、初めまして。僕は技術研究局直属特務隊所属、イドレ・ニーズルヤード特務少佐。局長の名代で視察にきた。といっても僕は研究のことはよくわからないからね、局長からいろいろ資料を預かってるよ。後で渡すね」

 もう一度頷き、若い所長は口を開く。

「……ミルザム南方国境要塞付属研究所所長、エルク・エルメルです。視察の件は聞き及んでいますが、どのような目的でしょうか」

「視察がくるってことは知ってるのに目的は聞いてないの? 局長も片手落ちだな。自律機兵オートマータをこっちに導入するためだってさ」

 エルクと名乗った所長の顔色が目に見えて変わった。強張った表情で繰り返す。

「自律機兵……」

「そう。魔法障壁がなくなったんだから、アルドラ領内でも動けるだろうしね」

 エルクは口をつぐみ、視線を落とした。

 自律機兵はその名の通り、自動で動き判断する機械人形だ。ヴィクトルの聞くところによると、既に本国では実験的に、警備や輸送などに投入されているらしい。単純な命令しか理解できないので使いどころは限られるが、人間と違って痛みや恐怖を感じず、不平不満を言わず、離反や脱走の心配もない。

「ここに君が配属されたのも、その布石じゃないの? エルメル博士」

 呼ばれてエルクは顔を上げた。そして、厳しい表情でかぶりを振る。

「……あれは失敗作です」

「何を言っているのだか。開発したのは君じゃないか。それに、帝都では十分役に立ってるよ」

「帝都で?」

 目を見開くエルクを見て、イドレは意外そうな顔になる。

「おや、知らない? じゃあ局長が勝手に配置したのかな。でもまあ、失敗作だなんて謙遜もいいところだ」

「失敗作です。あれを一体動かすのに、どれだけの幻晶が必要か……」

「必要なら作ればいいだけのことさ。違うかい? そういえば、生産ラインを止めてるんだってね。再開してくれないかな、みんな困ってるみたいだよ。僕も、幻晶が欲しいんだけど断られちゃってさ」

 イドレはにこやかに話しているが、言葉に有無を言わせぬ圧力がある。聞いているだけで冷や汗が出そうになって、兵士は密かに息を飲んだ。

 しかし、エルクは重ねて首を左右に振った。

「できません。あれは……」

「なぜ? まさか人道的にどうこうなんて言わないだろうね。今まで散々恩恵を受けておいて、今更善人ぶるのはどうかと思うよ」

「なんとでも。晄彩こうさいを吸い上げる方法が見つかるまで、再稼働は許可しません」

「そんな悠長なこと言ってられないでしょ。さっき誰かが、あと十日も持たないって言ってたよ。本国から送ってもらうわけにもいかないし、そもそも機材がないんじゃないの? 帝国で使ってる機材はこっちの大陸じゃ使えないって聞いたけど」

「ええ、使えません。そもそも、こちらの晄彩を吸い上げるのは、今の帝国の技術では無理です」

「はあ? ミルザム落として十五年だよ、何やってたの? 研究局の怠慢じゃないの? ……おっと、これは局長への批判になるかな。まったくあの人、興味ないことには本当に一切手を付けないからなあ。どうせ、簡単に作る方法があるのに、機材開発の手間暇なんて無駄だって思ってるんでしょ」

 後半は独白のように言って、イドレはやれやれとでも言いたげに首を竦めた。

「とにかくさ、晄彩を使えないから現行の手段になったわけ。代案がないなら工場動かして幻晶作ってよ、今すぐに」

「再稼働の許可はしません」

 エルクは頑として首を縦には振らず、イドレの顔から笑みが消えた。

「今は君よりも、局長の名代である僕の方が立場が上だ。その権限で命令する。幻晶生産工場を動かせ。今すぐ」

「お断りします」

 イドレの手元が揺れたと思った次の瞬間、エルクの喉元には刃が突き付けられている。

 ほとんど喉に触れそうな位置に剣を向けられて尚、エルクは毛ほどの動揺も見せない。イドレは不満げに小さく鼻を鳴らす。

「軍隊における命令違反ってのは、結構な重罪だ。処刑されても文句は言えないくらいにね」

「私は軍人ではありませんので。それと、私を殺せば生産ラインは二度と動きませんよ。そういう仕掛けをしてあります」

 まさか、とヴィクトルは目を見開いた。ヴィクトルは詳しい仕組みを知らないが、生産工場のある建物は外から見てもかなり大きく、民家が四、五軒は入りそうな規模がある。そのすべてをたった一人で止めることができるのかはなはだ疑問だが、自律機兵を開発し、その功績で、飛び抜けた若さで要衝付属の研究所所長に抜擢されたエルクなら、可能なのかもしれない。

 イドレは剣を引くことなく、片頬だけで笑った。

「そうかい。本当かどうかは知らないけど、どっちにしろ明確な違反行為だ。少し頭を冷やしてもらう必要がありそうだね」

 笑みを含んだ声で言い、イドレは要塞の警備兵の方へ顔を向けた。

「君たち、エルメル博士を地下牢へ案内してあげて」

 警備兵たちは戸惑ったように互いの顔を見交わす。その間は二呼吸ほどしかなかったのだが、動かないのに焦れたのか、イドレが舌打ちをした。

「早く。なんなら君たちも一緒に牢屋に入ってもいいんだよ」

「……承知しました」

 警備兵たちはばらばらと動いてエルクを囲む。ヴィクトルも要塞の警備兵なので、そちらに加わった。それを見て、ようやくイドレは剣を下ろす。

 警備兵の隊長がやや気の毒そうにエルクに告げた。

「ご同行願えますか、博士。できれば抵抗せずに」

「……仕方ないですね」

 警備兵たちはため息混じりに言うエルクを連行する。それを見送るイドレはにっこりと笑んだ。

「後はよろしく。僕たちは視察の続きと行こう。次は工場だ」

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