第一章 2-2

 心臓が早鐘を打っており、全身がいやな汗で濡れている。

(夢……?)

 肩で息をしながら、アルクスは顎の汗を手の甲で拭った。今し方、目にした光景はあまりに鮮明で、どこからどこまでが夢なのか一瞬わからなくなる。城は落ちた。それは現実だ。

 落ち着いてくると、周囲が薄闇なのが気になった。淡い明かりは炎によるものだろう。どうやら自分は仰向けに寝ていたらしいと、アルクスは周囲を見回す。

「アル、気がついたのね」

 囁くような声がして、そちらに目を向ければ、心配そうなフィアルカがいざり寄ってくるところだった。彼女は安堵した様子で息をつく。

「フィーア……おれ……」

 状況が飲み込めずに呟いて、唐突に思い出し、アルクスは目を見開いた。ディゼルトは酷い怪我をしたはずだ。

「ゼロ兄、ゼロ兄は!?」

「しっ、静かに」

「でも!」

「大丈夫、手当てをしたわ。お命に関わる傷ではなかった。大きな声を出したら、お目覚めになってしまう」

 フィアルカに言われてアルクスは片手を口元に当てた。

「……ほんとに? 大丈夫?」

「ええ。そちらに」

 フィアルカが示す先に、ディゼルトが横たわっていた。彫像のように動かないが、注視していると胸が微かに上下していて、アルクスはほっと息をつく。

「よかった……」

 森を逃げる途中、ディゼルトが撃たれたところまでは覚えている。その後のことが上手く思い出せない。

「アル、お水は飲める?」

「……うん」

 フィアルカは頷き、部屋の隅にある水瓶から水を汲んで持ってきてくれた。

「ありがとう」

 口をつけると喉が渇いていたことを自覚し、アルクスは一気に飲み干してしまう。空になったコップを受け取りながらフィアルカが首をかしげた。

「まだ飲む?」

「ううん、もういい」

「アルはどこか痛かったり、具合が悪かったりすることはない? 目眩めまいとか、吐き気とか」

「大丈夫。ちょっとだるいくらい」

「ならいいけど……辛くなったらすぐに言ってね。我慢しないで」

「わかった。……ここは? おれ、どれくらい眠ってた?」

 森を逃げていたときは、夜明けが近かったはずだ。今はどこかの屋内のようだが、太陽の気配はなく、真夜中のようだ。

「アルが眠っていたのは一日と半分くらい。ここは、ゼイルの森から少し南西にれたところにある村よ。親切な人が空いている納屋を貸してくださったの」

 言われてみれば、今アルクスがいるのは干し草を集めた上に布をかけただけの寝床だ。ディゼルトとフィアルカが、納屋の中にあるもので精一杯の寝床をこしらえてくれたのだろう。フィアルカが地面にじかに座っているのに気付き、なんだか申し訳なくなる。

「わたしたちは、城下町から焼け出された三きょうだいってことになっているから、もし村の人に何か言われたら話を合わせてね」

「うん」

 特に偽りを言わなくとも、二人はアルクスにとって兄と姉のような存在だ。そこは心配要らないだろう。

 アルクスが頷くのを見て、フィアルカは迷うように視線を落としてから表情を引き締めた。

「アル、これから動けそう? なるべく早くここを離れたいの」

「おれは大丈夫だけど、ゼロ兄は? 無理に起こしたら、傷に響くんじゃ」

「ディゼルト様が、アルの方が先に目が覚めたら、すぐに発つようにと」

「そんな! 目も覚めてない怪我人を置いていけないよ!」

 思わず声を上げたアルクスにフィアルカは頷くが、表情は曇ったままだ。

「わたしもアルと同じ気持ち。でも……今、最優先すべきは、アルが水国すいこくシェリアークに辿り着くことよ」

「でも……そうだフィーア、治癒術使えただろ?」

 アルクスが全部言う前に、フィアルカはかぶりを振る。

「治して差し上げたいのは山々なのだけれど、わたしの腕では被術者の体力を使ってしまうの……今のディゼルト様に治癒術をかけたら、お命を縮めかねないわ。お目覚めにならなくなってしまうかも」

 言葉を切り、フィアルカは深々と頭を下げた。

「ごめんなさい……わたしが未熟なばかりに」

「ううん、フィーアが謝ることないよ。……ゼロ兄は、おれをかばって怪我したんだ」

「アルのせいじゃない。悪いのは帝国よ」

 アルクスは首を左右に振る。ディゼルトだけではない。アルクス一人を逃がすために、多くが傷を負い、命を落とした。アルクスには逃げ延びる義務がある。父王リュングダールもそれを望んでいるはずだ。―――頭では理解していても、感情がついていかない。

「朝まで……せめて夜明けまで……」

 結論を先延ばしにするだけだが、今のアルクスにはディゼルトを置いていく決断はできない。ここに残して行って、目が覚めず、ろくな手当も受けられずに死んでしまったらと思うと、叫び出したくなる。

「……フィアルカの言うことを聞け、アル」

 かすれた声が聞こえて、アルクスとフィアルカは同時にそちらを見た。横たわっていたディゼルトが片腕で半身を支えて起き上がろうとしている。

「いけませんディゼルト様! 応急処置しかしていないのですから」

 フィアルカが慌てた様子で身体をひるがえし、ディゼルトを支えた。アルクスも寝床からい出して二人の傍に移動する。

「ゼロ兄、無理しないで」

「平気だ。それよりアル、今すぐフィアルカと一緒に行け」

「いやだ、ゼロ兄を置いて行くなんて」

「俺は後から追いかける。今は一所ひとところに留まらない方がいい」

「なら、ゼロ兄も一緒に行こう」

「俺は足手纏あしでまといになる。先に行け」

「いやだ!」

 たまらずアルクスが声を上げると、ディゼルトは何か言いたげに唇を動かしたが、そこから出てきたのは言葉ではなく細い吐息だった。

 フィアルカが心配そうにディゼルトを覗き込む。

「ディゼルト様、どうぞ横に。お熱が上がってしまいます」

「熱? 熱が出てるの、ゼロ兄?」

「大丈夫だ。それよりも……」

「熱あるなら大丈夫じゃないだろ!」

「……アル、物事には優先順位があるんだ」

「ゼロ兄の体調より優先すべきことなんて」

「アルとフィアルカの命だ」

 表情を変えずに言い切られ、アルクスは目を見開いた。ディゼルトが、なんの疑問もなくそう考えていることが伝わってきて、愕然とする。

「……命は平等だって父上がおっしゃってた」

 リュングダールの名を出せば、ディゼルトは一瞬口をつぐんだ後、かぶりを振った。

「陛下の御言葉は正しい。命は平等だ。だが、優先順位がある。『継承者』であるアルとフィアルカは、何よりも守られなければならない」

 繰り返すディゼルトへ、アルクスも首を左右に振る。

「……いやだ。おれのために……おれのせいで、もう人が死ぬのは……」

 しかも、それは他ならぬディゼルトだ。幼い頃からずっと一緒で、早くに亡くした母や常に忙しい父よりも、共に過ごした時間は長いかもしれない。そんな相手を喪ってしまうことを考えただけで、胸が潰れる。

「アルのせいじゃない。アルにはなんの責任もない」

「でも……だって……」

 上手く息ができなくて声が出なくなり、アルクスは喉元を押さえた。どれだけ吸っても空気が入ってこない。心臓が激しく脈打ち、手足が痺れ出す。

「……っ」

「……アル? アル、大丈夫か?」

「アル、ゆっくり息をして。大丈夫よ、落ち着いて」

 フィアルカが背中をさすってくれるが、息苦しさと動悸は収まらない。冷や汗が噴き出し、視界が狭まる。

「ゆっくり、ゆっくり呼吸をするの。アル、いい? 吸って、吐いて……」

 声に合わせて呼吸をしようとしても、それすらままならない。このまま窒息して死ぬのだろうかと恐ろしくなる。恐ろしくなると、一層息苦しくなる。

 フィアルカの声が徐々に遠くなり、やがて視界が完全に暗転した。

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