第一章 1

 第一章


 1


「こっちだ! 通った痕がある」

「近いぞ、王子アルクスをなんとしても探し出せ!」

 明かりをかざした帝国兵がすぐそばを行き過ぎる。青年は茂みの中に身を潜め、少年の頭を抱えるようにしていた。正義感の強すぎる王子は、他人を救うために敵兵の前に飛び出しかねない。

 隣で同じように身を縮めている少女は、祈るように口元で両手を握り締めている。しかし、過剰に怯えている様子はない。戦場に出たことがない少女が突然、命懸けの逃走の渦中に放り込まれて、途中で恐慌に陥ることを心配していたが、杞憂に終わりそうだ。

 護衛はもういない。皆、帝国兵の足止めのために残ったり、おとりになったりしてくれた。―――次は自分の番だ。

 帝国兵の気配が遠くなってから、青年はアルクスの頭から腕を解いた。苦しかったのか、少年は大きく息をつく。そして、何かを察したように青年の腕にしがみついた。

「やだ!」

「シッ、声が大きい」

「やだ、絶対いやだ。ゼロにいが残るならおれも残る!」

「静かに。まだ何も言っていない」

「でも、残ろうとしてる。そうでしょ?」

 青年は何も答えず、やんわりとアルクスの手を押し戻した。アルクスは逆に青年の手を掴み、かぶりを振る。

「だったらおれも残る。ゼロ兄を置いて逃げるなんていやだ!」

「アルが残ればフィアルカも逃げられない。フィアルカと一緒に逃げてくれ」

「フィーアだけ逃げればいいよ!」

「いいえ」

 聞き捨てならないというふうに少女―――フィアルカが口を開いた。

「アルが残るならわたしも残るわ。わたしだけ逃げるわけにはいかない」

 フィアルカの言葉を聞いて、アルクスは泣きそうな顔になる。

 そのとき、

「声がした! そっちにいるぞ!」

「戻ってこい! 向こうだ!」

 遠くから聞こえた声に三人は同時に息を飲み、口をつぐんだ。遠ざかった帝国兵たちが戻ってくる音がして、青年はほぞを噛んだ。無理矢理にでも二人を逃がせばよかったと後悔するが、遅い。

「行け」

 姿勢を低くするように手で示し、青年はアルクスとフィアルカを先に行かせた。青年はそれを追うように殿しんがりにつく。

「いたぞー!」

「撃て! 王子以外は殺して構わん!」

「応援を呼べ! 回り込んで挟むんだ!」

 背後で破裂音がした瞬間、近くを何かがかすめて青年は思わず首をすくめる。向こうには灯りがあり、こちらは暗いので狙えないはずだと考えるが、どうしても背中を気にせざるを得ない。

「ゼロ兄っ……」

「振り返るな、行け!」

 見つかってしまっては屈む意味がないので、三人は走り出した。一刻も早くこの場から離れて隠れなければならない。

 再び銃声がして、左肩に強い衝撃を感じ、青年はつんのめるようにして倒れ込んだ。

「っ!」

 灼熱感に手をれば、ずるりと滑る。

「ディゼルト様!」

「大丈夫、掠っただけだ。止まるな!」

 悲鳴のような声を上げて振り返るフィアルカを片手で制し、起き上がろうと右手をついて顔を上げれば、立ち止まったアルクスが奇妙に表情のない顔でディゼルトを―――その背後の闇に灯る明かりを見ていた。

「よくも……」

 押し出すようなアルクスの呟きと共に、彼の右拳がぼんやりと光を帯び、ディゼルトは瞠目どうもくする。

「駄目だ、アル!」

「よくもゼロ兄を―――!!」

 叫びと共に、雷を十も束ねたような光が周囲を満たし、ディゼルトは咄嗟に目を庇う。刹那、大気が震えた。

 不思議と音は聞こえなかった。一呼吸置いて、ディゼルトが恐る恐る目を開くと、にわかには信じられない光景が広がっていた―――森の一部が消えている。

(……そんな)

 燃えたり、折れたりしているのではない。鬱蒼と茂っていた木々が筒状に、文字通り消えてなくなっている。同じように、地面にも巨大なスプーンで削り取ったような痕があった。

 幹を半ばえぐり取られた大木が倒れ、ディゼルトは我に返った。同時に、アルクスの上体がぐらりと傾ぐ。

「アル!」

 糸を切られたようにくくずおれるのを左腕で受け止めてしまい、ディゼルトはうめいた。アルクスの呼吸を確かめ、ほっと息をつく。「力」の暴走は本人の意思とは無関係に起こる。限界以上に消耗してしまえば命の危険すらある。

「ディゼルト様、手当を!」

「必要ない。それより、今のうちに離れるぞ」

 背後では悲鳴や怒号が飛び交い、帝国兵の混乱が伝わってくる。炎とおぼしき光が大きくなっていて、松明たいまつか何かが森に引火したのかもしれない。なんにせよ、またとない好機だ。

 ディゼルトは意識を失ったアルクスを右肩に担ぎ上げた。

「荷を頼めるか、フィアルカ」

「承知しました」

 三人分の荷物を背負ったフィアルカを先に行かせ、ディゼルトは背後を気にしながら進む。幸い、帝国人はディゼルトたちほど夜目が利かないらしい。

「……っ」

 張り出した木の根に足を取られ、ディゼルトはよろめいた。気配を察したか、フィアルカが心配そうに振り返る。

「ゼロ様、やはり手当を」

「大丈夫だ」

 悠長に手当などしている暇はない。帝国軍が混乱している間に出来る限り距離を稼ぎ、身を隠さなければならない。

(急がなければ)

 アルクスを水国すいこくシェリアークに無事送り届けるためならば、手足の一、二本惜しくはない。

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