(2)

「しつ……けえな!」

 境土が力の限り蹴り飛ばしたものは、空中でくるりと姿勢を変えると、音もなく長屋の障子に着地して、破ることなく飛び出した。


 一体何が飛び出して来たのか、初め柊にも解らなかった。

 熱があると運び出され、大丈夫だと譫言のように重ねても聞き入れてもらえず、黙って寝てろと境土に叱られて。それでも嫌だと痛みが増す頭に顔を顰めて訴える耳に届くのは、境土が長屋へと続く道を歩く地面を踏む音。椿と妖斬妃から引き離される足の音。

 嫌だった。嫌で嫌で堪らなかった。

 引き離さないで欲しかった。役に立てずとも傍に置いておいて欲しかった。

 長屋に寝かしつけられてしまえば、意識を失ってしまえば、その間に自分は置いて行かれるような恐怖に捕らわれていた。

 何故そんなことを考えているのか自分でも分からない。熱のせいで弱気になっているのかもしれないが、怖くて、怖くて、仕方がなかった。

 嫌だ、嫌だと泣きながら駄々をこねるなど童のすること。

 それでも柊は境土の着物を握り締めて訴えた。

 境土は、『どうしたんだ、お前?』と、眉を顰めたようだったが、溜め息を吐くと、昔のように担いだままの柊の背中をポンポンと優しく叩いて『大丈夫だ』と言った。

 何も大丈夫ではないと思っても、大丈夫。大丈夫。と繰り返されると、柊の心は半分だけ安堵して、そして――

 ガラリと部屋の障子を開ける音を聞いた瞬間。

「うおっ!」

 太い声を上げて境土が大きく仰け反った。

 後ろに倒れなかったことは奇跡だろう。

 大きく体勢は崩したものの、倒れることなく柊を担ぎ直して地面に片膝を付く。

 一体何が起きたのかと、頭を上げようとする柊。

 その前に大きく境土が飛びのく方が速かった。

 一瞬遅れて月明かりが照らす蒼暗い世界に、真っ黒な何かが降り立ち、すぐさま境土目がけて飛び掛かって来る。

「なんでこんなところにっ!」

 舌打ちすらしそうな勢いで悪態をつく境土は、狙いが自分だとすぐに判ったのか、『悪いな』と言うが早いか、走り抜け様に柊を開けっぱなしだった部屋の中へと投げ込んだ。

「ぐっ」

 満足に受け身も取れずに土間の上に無様に落ちる。

 しかし、そんな柊に見向きもしなかったのは境土と、何か。

 何かとは言うが、それが妖だということは既に柊も察していた。

 察することは出来ていた。問題は、何故柊の部屋の中から飛び出して来たのか。

 あり得なかった。毎日寝起きしていた部屋だ。そんな場所に妖がいれば嫌でも気が付く。気が付くはずだった。

(何故?)

 意味が分からなかった。いつの間に部屋の中に妖が潜んだのか。どこから湧いて出たのか。 

 そして、何故執拗に境土を狙うのか。

「出て来るんじゃねえ!」

 開け放たれた戸口から、姿は見えないものの怒鳴り声が聞こえて来る。

 騒ぎを聞きつけた在宅中の網目衆が顔を覗かせたのだろう。

 だが、他ならぬ境土の命令は絶対だった。

 ビシャリと勢いよく閉まる音が続き、

「おらあっ!」

 裂帛の気合とほぼ同時に、黒い影が柊の視界を勢いよく飛んで行った。

 柊はますます痛みが強まる頭痛に、涙目になりながら体を引きずって戸口へ向かった。

 ちゃんと見たかった。何が起きているのか知りたかった。

 黒い影の妖は――細身でありながら背丈がある黒い犬の姿をした妖は、身を低くして唸り声をあげると、執拗に境土に襲い掛かった。

 昼日中の明るい時間帯であれば良かったのだろう。

 いくら月明かりが明るいと言っても、夜目が効いたとしても、松明の一つもない中で、素早く動く黒い影を的確に捉えるのは生半可なことではない。

 その上、境土は無手だった。【揺り籠刀】を持っていればもっと容易に片付いていたかもしれないが、運が悪いとしか言いようがなかった。

 それでも境土は奇跡的に妖の攻撃を躱していた。

 妖は地を蹴り、長屋の全てを足場に、縦横無尽に襲い掛かる。

 境土は躱す。しゃがみ込み、飛び上がり、時に長屋に飛びついてやり過ごす。

 正直凄いと柊は感動に打ち震えていた。

 どうしてあんな動きが出来るのだろうかと。

 目で追うのがやっとの柊には信じられない思いだった。

 だとしても、妖相手に無手では限界などすぐにやって来る。

 次第に境土の足が動かなくなってくる。

 目に見えて追い詰められる。

 妖に体当たりをされて体がよろめき、妖の爪が境土の着物を破き始める。

「っざけんな!」

 境土の怒声が上がり、境土の喉元目がけて噛み付いて来た妖を左腕に噛み付かせ、腹部を思い切り拳で殴りつける。

 それがどれほどの痛手を与えるものか柊は知らない。

 生身でどれだけ妖に致命傷を与えるのか柊は知らない。

 それでも妖は悲鳴を上げて殴り飛ばされた。

「お前みたいなやつ、【若草丸】がいりゃあ一瞬だっつうの」

 柊には、境土の目が異様な光を湛えているように見えた。

 その身から、怒りの焔が立ち昇るのを見たような気がした。

 強かった。境土は強かった。

 改めて思い知った。境土の強さを。

 妖用の札の一枚も使わずに、白刀も【揺り籠刀】も捕悔とくすら持たずに、妖と張り合う境土。

(なんで?)

 と、柊は涙した。

(なんで叔父さんはそんなにも強いのですか? 何故、ぼくはこんなにも弱いのですか?)

 声なき問い掛けは当然聞こえるはずはない。

(狡いです)

 声なき嫉妬も聞こえはしない。

 柊は、その強さが羨ましかった。

 自分にはない強さを有する境土が羨ましかった。

 強くなりたかった。みんなを守れるほどの強さを手に入れたかった。

 頼られたいと思う存在に、当然のように頼られるほどに強くなりたいと思っていた。

 でも、弱かった。強ければ守ることが出来たはずなのに、未然に脅威を退けることが出来たはずなのに。危険分子を探すことも出来たかもしれないはずなのに。

「なんだこいつ?! いきなり殺気が膨れ上がったぞ?!」

 羨ましかった。妬ましかった。

 それほどまでの強さを持っていながら、【揺り籠刀】を譲り受けていながら、何があったか知らないが戍狩を辞めて蕎麦屋をやっている叔父・境土。

 それでいて今も頼られ、【揺り籠刀】を取り上げられてもいない。

 そもそも、どういう基準で【揺り籠刀】が与えられるのか柊は知らない。

 それでも、それだけの強さがありながら、境土は隠居生活をしていた。

 同じ町で、人知れず静かに妖被害が横行していたというのに。

 被害を増やす輩が存在していたというのに。

 自ら進んで動くことをせずに。

 それなのに、

(若草丸が妖斬妃さまと懇意の仲だって言うだけで頼られてる!)

 悔しかった。妬ましかった。

(狡い狡い狡い狡い狡い狡い狡い狡い)

 怒りが込み上げてきていた。

 抑えの効かない衝動だった。

(それだけの力があれば、ぼくがあの方たちに頼られていたはずなのに!)

 土間の土を抉るかのように五指を握る。

 その力が欲しかった。

 頼られるだけの力が欲しかった。

 今すぐにでも欲しかった。

(妖のように、強いものを喰らって強さを手に入れられるのならば、今すぐにでも喰らい付いてやれるのに!)

 自分が何を考えているのかも柊は気が付いていなかった。

 ただただ憎たらしかった。

 何も持たずとも妖と対等にやり合っている境土が。

 柊との力の差は雲泥の差だと見せつけて来る境土が。

 自分の欲しいものを持っている境土が。

 何をしているのかと苛立ちが募る。

 何故ただの人間一人を仕留められないのか。

 それでも妖かと怒りが込み上げたときだった。

《境土!!》

 聞こえて来た妖斬妃の声に、柊がぎくりとするのと、椿が投げた【若草丸】を手に入れた境土がにやりと獰猛な笑みを浮かべるのはほぼ同時。

「行くぞ、若草丸」

 即座に抜刀の構えを取った境土を中心に、緑の風が吹き荒れるのを柊は見た。

 戸口で、頭だけを出して、見た。

(駄目だ!)

 と内心で悲鳴を上げる。まるで自分自身が狙われているかのような恐怖に突き動かされて上げていた。

 その声が聞こえたわけではないだろう。妖が即座に踵を返し――

「柊!!」

 強張った境土の声が聞こえたとき、柊は見た。

 自分に向かって黒い犬の姿をした妖が飛んで来るのを。

 柊は、身を起こそうとした。

 上半身だけを何とか上げたその体に、ドンと衝撃が走り。

「柊!」

 血相を変えて飛び込んで来た境土が、拍子抜けした顔で柊を見下ろした。

「……あいつ、どこに行った?」

 室内に、妖の姿はなかった。

 柊も、半ば呆然とした顔で境土を見上げ返して、

「わかりません」

 目を瞬いて答えれば、

「あ~……まぁ、お前が無事でよかった」

 疲れたとばかりにしゃがみ込み、心底ほっとした声を上げた。

「俺がしぶといせいで、お前に狙いが移ったのかと思ったぜ」

「ぼ、くも、そう思いました」

「でも良かった。お前が無事でな」

 着物が裂けていた。顔に引っかき傷が出来て血が流れていた。

 逆に言えば、それだけで済んでいることが奇跡であり、

「今日は俺がここで寝ずの番でもしてやるよ」

 苦笑いを浮かべ、柊の頭をくしゃりと撫でられる。

 大きな手だった。厚みのある温かい手だった。

 自分を引き取り、男手一つで育ててくれた。武骨で不器用だが、大きく温かい手。

 柊が最も信頼し、信用し、頼れる相手。

 だからこそ、

「ありがとう。叔父さん」

「え?」

 次の瞬間、境土の口から間の抜けた声が上がり、

《柊!》

 具現化した若草丸が怒りの声を上げ、何事かと駆けつけた椿と妖斬妃の姿を戸口で見た直後、

「あっははははははは」

 柊は心の底から笑い声をあげて飛び起きた。

「ひ、いらぎ?」

 腹部に突き刺された短刀の痛みに顔を顰める境土が、何が起きたか分からない顔をして手を伸ばして来るのを後ろに飛んで躱し、

《貴様! 何をしたのか分かっているのか?!》

 具現化した若草丸が、怒り心頭で抜刀して来るのをさらに後退して躱すと、

「精々、頑張れ」

 残忍な笑みを浮かべて発した言葉が合図となり、

「うわあああっ」

「なんだいきなり?!」

 至る所から破壊音がしたかと思うと、動揺を隠しきれない悲鳴がそこここで上がり、

「妖斬妃!」

《なるほどのォ》

 警戒する椿の声に妖斬妃の笑みが深まった。

 長屋は、数多の妖たちによって襲撃され、そのどさくさに紛れて柊は、振り返ることなくその場から逃げ出した。


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