(3)


「ダメです!」

 椿が母親の拘束を抜け出して、閉じこもっていた小部屋から廊下に出たとき、頭の左側にねじくれた角を一本生やした若い男は、ぐるぐると白く細い布で鞘のすべてを覆い隠された一振りの刀を手にもって、驚きの顔を向けていた。

 無理もない。突然子供が大声を上げて飛び出してくれば、誰だって驚くだろう。

 それも、小さな手を懸命に伸ばしながら、蒼褪めた顔で突撃して来るのだ。

 これほどまでに無謀極まりないバカな行動をとる童がいるものだろうかと、角を生やした侵入者はにやりと笑った。

「椿!!」

 母親の悲鳴染みた声が聞こえる。

 それでも椿は足を止めるわけにはいかなかった。

 守らなければならなかった。

 持ち出されてはならないものだった。

 この村にとって大切なモノ。

 それを父親がいないときに奪われるわけにはいかなかった。

 奪われてしまえば刀が作れないと言っていた。

 そんなのは駄目だった。

 それ以前に、嫌だった。

 大切な御神刀を、どこの誰とも知れない相手に奪われることだけは何よりも嫌だった。

 ましてや、夜中に村を襲い、屋敷を襲った相手になど、絶対に渡すわけにはいかなかった。

 恐怖はなかった。

 あるのは怒り。

 目に映るのは御神刀だけ。

 その御神刀が、白い布に包まれていた鞘から、ゆっくりと引き抜かれたのを椿は見ていた。

 鞘から引き抜かれて現れたのは、鋼の刀身ではなく、真紅に染まった異様な姿。

 だが、椿は走りながらどくりと心の臓が高鳴るのを聞いていた。

 遠かった。届かなかった。

 賢明に足を動かしているというのに、距離が縮まらないように思えていた。

 酷くゆっくりと時が流れていた。

 もどかしかった。もどかしくて、もどかしくて。

 それでも、椿は魅入られていた。

 すらりと引き抜かれた美しい御神刀を。

 これまで見たことのない真紅に染まった刀身を。

 それが――

『椿!!』

 姉たちと母親の悲鳴が、金切り声が、椿を追い抜いて響いたとき。

 ド!

 叩きつけるような衝撃が椿の左肩を襲った。

 直後、視界を赤い幕が覆った。

 足がもつれて、崩れるように仰向けに倒れる。

「かふっ」

 咳き込むと、熱い塊が口から零れ出た。

 じわじわと、体の表面が濡れて行くのを感じていた。

「バカな童だな」

 捻じれた角を持つ男が薄ら笑いを浮かべながら、刀を逆手に持って椿の上に構えていた。

 それでも椿は痛みを感じてはいなかった。

 恐怖心もなかった。

 椿がただ望んでいたことは、

(絶対に渡せません)

 朱に染まった小さな手を懸命に伸ばす。

「椿! 椿! 椿!」

 母親の駆け寄って来ようとする気配を感じながらも、椿は手を伸ばしていた。

 柄にまで巻かれていた布の切れ端を。垂れ下がる切れ端を。

「ぜ……たい、に、わた……せま、せん」

 涙に滲んだ視界の中で、男の顔が殊更歪み、

「だったらお前さんにくれてやるよ」

 と、男が刀を柔らかな椿の心臓に突き刺すのと、

『いやあああああああ!』

 母親たちの悲鳴が上がるのは同時だった。

 トス――と、軽い音を立てて、御神刀は意図も容易く椿の胸に突き立った。

 直後に、男はつまらなさそうに吐き捨てる。

「肩慣らしにもならねぇな」

 だが、次の瞬間、その醜く歪んだ顔が固まった。

 それは、

「なんだこの童。しつこいな」

 椿が己の胸に突き立った刀を素手でしっかりと握っていたから。

 しかも、引き抜こうとしても、その刀身がピクリともしなかったから。

 あり得るわけがないことが起きていた。

 どう考えてもただの幼子だった。力などどう考えてもあるわけがなかった。

 ましてや心の臓を貫かれて力を籠められるはずがなかった。

 だが、捻じれた角を持った男は、椿から御神刀を引き抜くことが出来なかった。

 それを椿は、光を急速に失っていく瞳に映していた。

 体が床をすり抜けて暗い闇の底へと沈んで行くような感覚を持っていた。

 それでも椿は、己が死ぬことよりも何よりも、御神刀を渡したくないという気持ちだけに捕らわれていた。

(ダメです。ダメです。ダメです。奪われてはダメです。絶対に渡しはしません)

 だとしても、

(でも、ああ。どうして椿は子供なのですか? どうして椿は男の子ではないのですか? 強くありたかったです。兄さまのように、刀を抜いて立ち向かえるほどに強くありたかったのです。そうであれば、奪われずに済んだのに。初めてこの手に御神刀を掴んだというのに、このままでは奪われてしまう。嫌です。それだけは嫌です)

 何よりも何よりも、それだけが嫌だった。

(これだけは絶対に渡したくはないのです。でも――)

 椿は己が死ぬことを察していた。

 徐々に徐々に寒気が椿の体に広がっていた。

 椿は己の状態をしっかりと把握していた。

 心の臓を貫かれて生きて行けるわけがないということは、童でも知っていることだった。

 理から外れることはない。自分はやがて死ぬ。

 死んでしまえばどうなるのか。

 魂が抜け出しているのだろう。椿は見た。兄がいたはずのその場所に群がっている妖の群れを。おぞましい音を立てて何かを喰らっている音を。

 あちらこちらで同じような光景が広がっていた。

 それは屋敷の外でも繰り広げられていた。

 屋敷に通う鍛冶師たちが、手に手に輝く刀を持ち、異形のモノを従えて村人たちを守っている姿が。

 それでも多勢に無勢だった。

 一体どこから雪崩れ込んで来たものか、恐ろしい数の妖が村を蹂躙していた。

 それを見て、目の当たりにして、椿は泣いた。胸が苦しくなるほどの怒りに泣いた。

 何故今なのか。

 何故今なのか。

 何故村が襲われなければならないのか。

 そんな中で、屋敷から奪ったと思しき純白の刀を掲げながら、それを折る様を見た。

 どくりと止まったはずの心の臓が脈打った。

 目の前が違う意味で赤く染まった。

 頭の中が燃えるように熱かった。

 あの美しい刀が嗤いながら折られる様を見て、十年生きて来て初めて体験する、頭の中が沸騰するほどの怒りを覚えた。

 許せないと思った。

 悔しかった。それを止めることが出来ない無力な己が。

 欲しかった。愚行を止めるだけの力が。

 嫌だった。何もできない現状が。

(力が欲しいです)

 心の底から椿は願った。

 願ったところで叶うことはない。今更願ったところで叶えられるはずがない。

 椿は間もなく命を終えるのだから。

 悔しかった。悲しかった。腹立たしかった。

 力が欲しかった。

 だから。

《ならば、妾にその体を貸す気はあるかぇ?》

 笑みを含んだ気品のある声が問い掛けて来た時、椿は一も二もなく頷いた。

(村を蹂躙したあのものたちを排除してください)

《その後、妾の可愛い子らを取り戻すことに協力もしてくれるなら》

(いくらでも致します。椿の体で役に立つのであれば、いくらでも使ってください! その代わりにどうか、村の人々をお守りください! そして、御神刀を絶対に奪わせたりしないでください! 御神刀は何よりもこの村にとって必要なものなのです! どなたかは存じませんが、どうかどうか、切に願います!)

 涙ながらに訴えれば、声は笑った。

《実に潔い女童じゃ。気に入った。さすがに妾の声を感じ取っていた娘よ。此度のことは妾も少しばかり腹に据えかねたからのぉ。特別にそなたの願いを叶えてやろう》

 直後、椿は温かな腕に抱かれたような感触に包まれた。

 すっかりと冷え切った体の中に、温かなものが急速に注ぎ込まれる。

 それと同時に椿は感じた。

 己の体が暗闇の世界から光へ向かって急浮上する感覚を。

 そして――

《おいたはそこまでじゃ。小僧っこが。妾の住処を荒らしたこと、死ぬほど後悔させてやるぞ?》

「なっ?!」

 椿は凄絶なる笑みを浮かべて宣言をした。

 その目の前で、驚愕に目を見開く捻じれた角を持つ男。

 無理もない。つい先ほどまで足元の血だまりに倒れていたのは十歳の女童だったのだから。

 それが、まるで違うものとなって目の前に立っていた。

その、鮮やかな金色の瞳に映った妖艶極まる美女の姿が、真紅に染まった刀を構えて言った。

《この【妖斬妃ようきひ】に喧嘩を売って、無事に済むとは思うでないぞ?》

 直後、

「ふざけるな! そんな話は聞いていないぞ?!」

 捻じれた角を持った男は、顔をすっかり蒼褪めさせると、一目散に逃げだした。

《っふ。一応妾の名ぐらいは覚えているものだったか。じゃが、鬼ごっこは妾が最も好きな遊びよ。では始めようか》

 紫色の長い髪をざっくりと簪でまとめ、蝶のような艶やかな絵柄の着物に袴を纏った成人姿の【妖斬妃】が、つややかな真紅の唇を三日月型に持ち上げて、廊下の角を曲がった男目掛けて駆け出した。

 それが、御神刀に眠ってやっていた【妖喰らい】の異名を持つ【妖斬妃】の目覚めを告げる始まりだった。


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