14 分かっていても

「ねえシリル」


 私は隣に呼びかけた。

 声に応じて振り返った、彼の瞳が近くてどきりとする。そうだ、石に乗っているおかげでいつもよりシリルの顔が近いんだった。


「シリル、あのさ」


 私の声が、喧騒にかき消されていく。シリルは少しだけ首を傾けて、「どうした?」と尋ねた。


「あのね、シリル。シリルが魔術師になったらさ、私全力でシリルのサポートするからね」


 私の言葉を咀嚼するように、シリルが瞬きを繰り返す。私は慌てて言い募った。


「忙しい時はサンドイッチ作るし、甘いものも差し入れするし、何かあったら相談に乗るし。あ……でもシリルは、私なんかに相談する前に全部自分で解決できそうだけど」


 特に食事で改善できる不調なんて、私よりもずっと彼の方が知識が豊富なんだから、出る幕がないことは分かっている。それに私よりシリルの方が料理が上手いのだから、差し入れなんていらないことも。

 けれど、けれども。


「なんか、シリルの力になりたい。私いつも、そう思ってる。これからもそれは、変わらないから」


 立場が変わっても、一緒にいる時間が少なくなっても。私がシリルを大切に思っている気持ちに、変わりはない。

 それを一生懸命伝えたつもりだった。するとシリルは少し笑みをこぼして、「ありがとう」と言った。


「じゃあ、俺も。アナベルの元気がなければアナベルの好きなものを作るし、やりたい事があれば相談に乗るし、行きたい場所があれば一緒に行くよ」

「これからも?」

「これからも、ずっと」


 噛み締めるように、ゆっくりと、シリルはその言葉を口にした。私はどうしてか、泣きそうになった。


「なんだ。そしたら今までと、何も変わらないね」

「そうだな」


 そう相槌を打ったシリルは、凪いだ海のように穏やかな表情で。

 不変なものなんて無いと分かっているのに、今はその言葉がひどく眩しい。

 私は滲む涙をこぼさないように、精一杯笑って見せた。








 どんなに名残惜しんでも、夜は更けて朝が来る。

 ジリジリと朝を告げる目覚まし時計のベルの音で、私はうう、と呻き声を上げた。


「ん……朝か」


 私はベッドの上に身を起こした。目をこすると、ぼやけた視界が徐々に鮮明になってくる。近くの窓をさっと開けて、真っ暗闇であることを確認する。おーけー、料理番の起床時間としては間違っていない暗さだ。


 祭りの余韻に浸ろうとも、料理番の仕事には関係がないのである。


 正式に料理番になった時に買ったこの時計は、ゼンマイ仕掛けの最新式だ。かなり値が張ったけど、買ってよかったもののひとつである。ひとり部屋をあてがわれている私は、起こしてくれる相手がいないという贅沢な悩みを抱えている。毎晩魔力を流してセットする目覚ましじゃ、ふだんネックレスをしていない私は絶対にかけわすれる自信があった。ま、それでも寝坊はするけどね、時々。


 私はよし、と気合を一つ入れて、ベッドから抜け出した。






「おはよう――あれ」


 コックコートに着替えて、厨房に足を踏み入れる。

 だが不思議な違和感に、私は思わず固まった。


 いない。

 シリルが、来ていない。


 今まで遅刻したことのないシリルが。いつも遅刻スレスレな私より出勤が遅かったことなんて、一度もないシリルが、いない。


 思考回路が停止した私をよそに、次々と厨房メンバーが入ってきて各々の作業を始めている。まるで彼が、もともとそこに存在しなかったかのように、時間が流れていく。


 あれ、おかしいな。

 昨日「何も変わらないね」って、確かめ合ったのは夢だった?


 混乱のうちに集合の合図がかかって、とりあえず急いで朝礼の列に並ぶ。いつも隣にいるはずのシリルが、やっぱりいない。


 こんなにおかしな状況なのに、誰ひとりとして「シリルはどうしたのか」と聞く人がいないのも変だ。

 どうして? もしかして昨日までのこと全部が夢だった? それとも今が夢? だとしたらこんな苦しい夢、早く覚めてほしい。

 あるいは……もしかして。

 私が知らないだけで、シリルはすでに魔術師になって料理番を辞めてしまった後なのかな。昨日はそんなそぶり、微塵もなかったけれど。


 でも、もしそうだとしたら、みんなが何も言わないのも頷ける。

 別れの言葉を告げるのが嫌だったんだろうか。それはそれでショックなんだけど。私、ちゃんとケジメはつけたかった。

 朝礼当番のエリックさんのメニュー読み上げが、遠い世界の声に聞こえる。もちろん、何も耳に入ってこない。


「では、料理長お願いします」

「うむ。昨日は方々の出張、ヘルプに加えて通常業務もご苦労だった。祭りが終わった後こそ気を引き締めて、今日も事故のないように。普段通り、最高のサポートが出来るように努めてくれ。『食は国防の要なり』だ。しっかり頼む」

『はい』

「ところで――アナベル。なんでお前、ここにいるんだ?」


 料理長から名前を呼ばれたことで、トリップしていた思考が瞬時に引き戻される。私は疑問符を浮かべて固まった。


「え、いちゃダメなんですか?」

「ダメも何も。お前、今日休みだろう」

「――ええっ!?」


 慌ててシフトの掲載されているカレンダーを確認する。うわ、ほんとだ。確かに今日、私とシリルのところに赤丸がついてる!!


「ええってお前……『いいんですかみんなが休みたそうな日に休み当たっちゃって……』とか言って、恐縮してただろうが」


――そうだった!!!


 確かにそんなセリフを言った。建国記念日が終わってみんな一息つきたい日に、私みたいな新人が休んでいいものか、と思ったのだ。そしたら「順番なんだしいつも融通を聞いてくれるんだから、その日くらい休みなよ」とみんなが言ってくれたんだった。

 そりゃ今日、シリルがいないのも当たり前である。


 ……忙しすぎて自分の休みをすっぽかすなんて、そんなことある?

 私は羞恥で赤くなった。


「やる気十分で結構なことだが」


 料理長の言葉に、周囲からもくすくす笑いが漏れる。


「まあ、ちょうど俺がお前に用事があったんで、呼びにいく手間が省けたな。ちょっと付き合え」


 休みの日に入る用事なんて、ろくなものではなさそうだ。けれど拒否権は私にない。


「わかりました……」


 私は朝礼の後、とぼとぼと料理長の後をついて厨房を出た。



「そんな覇気のない顔をするな。堂々と胸を張れ」

「とは言っても料理長。どうせ昨日のグラノーラの件ですよね」

「分かってるなら話は早い」


 ガハハ、と笑う料理長に、私は深いため息をつく。一応ノルマは達成しましたよ。けれど、予算がかかりすぎだとか、売上がどうとか、突っ込まれそうなことは想像がつく。一応昨日のうちに、収支報告書や必要な帳簿関係の書類、レシピ、その他もろもろは全部料理長とスタンフォード司令官宛に報告した。その時点では二人から「ご苦労様」と言われただけだ。何も問題はないと処理された気がするけれど。

 シリルが本格的に魔術師に移籍した後、誰とバディを組むかの相談とかだろうか。気の合う相手だといいな。


「緊張しきりのお前に一つ、昔話でもしてやろう」

「いえ、結構です」

「まあ聞け」


 断ってもしゃべるんじゃないか。私の呆れをよそに、料理長は滔々と語り出す。


「その昔、魔術師寮には腕っぷしにも魔法にも自信がある若者がいた。彼は赤茶の髪を持ち、雷魔法を得意とする魔術師で、喧嘩負けなしの怖いもの知らずだった」


 私の前を歩く彼の髪は、紅茶のような赤みがかった色をしている。その料理長の背中を見ながら、私は話の続きを待った。


「彼には仲が良い二人の魔術師の友人がいた。よく一緒にとんでもないことをしでかしては怒られて、けれど屁理屈で上司をねじ伏せたりしてな。それはもう、手のつけられない問題児だった。まあ若気の至りってヤツだな。任務ではそこそこ優秀な成績を収めていたから、表立って処分されることもなく……そうだな、端的にいえば、『調子に乗っていた』んだ」


 それはさぞ、周囲が手を焼いたことだろう。とくに上司の方々の苦労が偲ばれる。


「ある日のことだ。その日の訓練はとても過酷で、彼らは碌に食事をとれないまま遭難してしまった。野営地と定めた場所のそばで、放してある鶏を見つけた三人は、捕らえてそれを捌く事にした。ところがそのうち、一人が言い出したんだ。『ベリルの外の国では、鶏を生で食う文化があるらしい。わざわざ焼くのも手間だし、とにかく今は腹が空いているから試してみないか』と」

「それは!」


 私は思わず声を上げた。料理長は私を振り返り、軽く頷いてみせる。その頷きが何を意味しているのか、理解したくない。


「そう、料理番のアナベルならもう分かるな。管理のなっていない場所で捌いた、鶏の肉。加熱不十分のまま食べたらどうなる?」

「食あたりを起こす危険性があります。高熱や激しい下痢が続き、ひどい場合は呼吸困難や体のしびれが残ることもあったはずです。最悪の場合は……まさか」


 私は声を失った。料理長はどこか、ここではない遠くを見つめている。


「一応、全員命だけは取り留めた。だが三人とも熱が引く頃には、体内の魔力回路を酷く傷つけて、魔術師を続けられなくなってしまっていた。もう二十五年以上前の話になるが、いまだに後遺症と闘っている奴もいるな。あとから後悔しても、もう遅い」


 料理長の静かな声が、誰もいない廊下にこだまする。


「当時から料理番という職業じたいは存在したが、食事と体調と魔力回路との結びつきについてはほぼ誰も理解しておらず、ただ食事を用意するだけの係だった。当然、今よりもずっと立場は低く、魔術師は誰一人として彼らに注目しなかった。このままではいけないと思った。若者は――俺は、魔術師を辞めて料理番になった。無知が人を危険に晒すなら、それを回避し、サポートできるだけの優秀な人材を育てる機関にしようと、一から料理を勉強して今に至る。俺が辿ってきた道は、そんな果てしない道だった」


 ハワード・オルムステッド。

 一番頼れる人の背中は、かくも大きく、孤独だったことを初めて知った。


「料理長、今、その話をしてくださったということは……私が呼び出された何かと、関係があるんですか?」

「いや? 俺が急に話したくなっただけだ。ま、独り言だな」


 ガクッと思わずつんのめる。

 なんだ、やっぱりただのマイペースだった。まあ、尊敬できる人だったということに変わりはないけれど。


「俺はな、アナベル。お前に未来を託したいんだよ」

「未来……?」


 料理長は時々、突然壮大なことを言う。この場合、詮索したところでそれ以上の答えはくれないので、最近の私は受け流すというスキルを覚えた。今日もそうしよう。


 気づけば、司令官室の前だった。またこの部屋に来なければならないとは……昨日で終わりにしたかったな。こんな早朝から押しかけられて、司令官の方も迷惑だろう。というか料理長、もちろんアポイントはとってありますよね? 来たけど朝が早すぎて司令官がいらっしゃらない、なんて事はありませんよね?


「失礼いたします……」


 気が進まないながら、料理長に促されて扉を開ける。


「待っていたよ。アナベル・クレイトン」


 部屋の主、イアン・スタンフォードはきちんと黒いソファに腰掛けていた。

 そしてそのそばには――


 魔術師のローブを羽織り、魔導書のついたネックレスを首から下げた、シリル・スタンフォードがいた。

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