7 元凶はだれだ
鼻をくすぐる、トマトソースの香り。
ほかほかと湯気を立てる、目の前のパンリゾット。
これで何週間もまともな食事をしてない人が食いつかないわけがない。ずい、とトレーを彼女の鼻の先に突きつける。
「まずは、お腹に何か入れてからにしましょう。作戦会議はそれからです」
「……お腹……へってな……」
「減ってないように錯覚しているだけです。エネルギー補給ゼリーには空腹を紛らわせる成分と食材が多用されていますから。魔力補充剤も同じですよ」
まさかとは思うけど、さすがに副官ともあろう人が市販のやっすい粗悪品食べてないだろうな。たまにあるんだよね、お腹膨らませることだけを重視してて栄養素スッカスカのやつ。
シリルも同じことを考えたようで、スーザンさんの死角にある、戸棚の引き出しをこっそり開けて中身を確認している姿が目に入った。あ、あれは魔術師寮料理番監修の正規品の缶詰。とりあえずよかった……でも病室にまで持ち込んでいたのか。もはや中毒だな。
依然としてスプーンを取らないスーザンさんに、私はトドメの一言を放つ。
「ミーシャが! スーザンさんを心配して! 一緒に作ってくれたんですよ! 食べないなんて言いませんよねッ!」
「ミ、ミーシャが……?」
ごくり、と唾を飲み込んだ彼女は明らかに迷っていたが、意を決してトレーのスプーンに手を伸ばし……はふ、と口の中に一切れのパンを放りこんだ。
「〜〜〜ん、お、おいひぃ……」
「そうでしょう、そうでしょう」
空腹を思い出したお腹に沁みるでしょうとも。
食べ物は人間を作る。風邪でもないのに食欲がないというのは、生きる気力がないということだ。今すぐでなくても、後で必ずガタが来る。
ようやく次々と口にパンリゾットを運び始めた彼女を見て、私はほっとひと息ついた。
「それで……なぜ急に、食事制限なんてし始めたんですか」
しばらく、はふはふとリゾットを召し上がっていたスーザンさん。頃合いを見計らって声をかけたつもりだったが、彼女は激しくむせた。シリルが差し出したコップの水を、かっさらうようにあおる。タイミング悪かったかな、ごめんなさい。しかし私は言葉を続けた。
「本来はよく食べるほうだったと、ミーシャが教えてくれました。病気でもなく突然食事断ちを始めたなら、何か理由がおありだったはずです。例えば──ダイエット、とか」
数秒の沈黙。パンリゾットの器に落とされた視線。痛い静寂はやがて深いため息に変わる。
「あっさりバレすぎて恥ずかしいじゃない。乙女の秘密はそう簡単に暴くものじゃないわ」
「す、すみません」
思ったことをすぐ口にしてしまうのは私の悪い癖だ。首をすくめると「まあいいわ。いずれはバレていたでしょうし」と彼女が笑う。そして思い出したようにもう一度深いため息をついた。
「痩せて演舞に出れば、少しは黙らせてやれると思ったのよ」
「黙らせて、やれる?」
「そう、ちょっとね。久しぶりに会った人にね、ちょっと……癪なことを言われたものだから」
「癪なこと……」
あ、その時のことを思い出したのかスーザンさんのスプーンを持つ手が怒りで震えている。よほどのことがあったんだろう。
それにしても、ダイエット、か。十分細身に見えるけどな。少なくとも一般的にデブ、と言われる体型ではない。ぽっちゃり、ですらない。
自分を落ち着けるように深呼吸をした彼女は、いきおいをつけて残りのパンリゾットを食べ切った。
「アナベル。私、もちろん演舞には万全の状態で挑みたいわ。でも、ダイエットも諦めたくないの。こんなお願いはわがままかしら」
そんな、うるうるした瞳で見つめないでほしい。ただでさえ色気ダダ漏れなのに、女の私がドキドキしてしまう。
「え、えーっと……」
ぐっ、と私は息を詰めて、そして。
「はい。わかりました。やりましょう。こうなったら全力でやりましょう。はい」
「うれしいわ!!」
ぱぁあ、と彼女の表情がほころぶ。
うん。シリルが「そんな安請け合いしていいのか」って形相で睨んでくる。いや、私だってそんな即答するつもりなかったよ。でもねめちゃくちゃ真剣なんだもんスーザンさん。ルビーの瞳が輝いているんだもん。さっきまでの死にそうな光と打って変わって元気なんだもん。
そんなに喜んでくれるなら私だってやる気出しちゃうよ。
「あら……なんだか体があったまったら眠たくなってきてしまったわ」
「よかったです。質の良い眠りは大切ですよ。まずは体調を元に戻して、それから一緒に考えましょうね」
私はからになったお皿とトレーを受け取って席を立つ。おやすみなさい、と呟くと、彼女はにっこりと笑って手を振った。
「さて、と」
人気が少ない廊下をひたひたと二人分の足音が響いていく。さっき急いでいた時はあまり気にならなかったのだけど、この個室病棟って本館に続く廊下がやたら暗くて静かなんだよね。夜中とか歩くとしたら一人じゃ怖いかも。
「大丈夫、なのか」
「何が? スーザンさんと約束しちゃったこと?」
まああれはちょっとノリと勢いで返事してしまったけれど、勝算が全くないわけでもない。
「スーザンさんに必要なのは、痩せることよりも意識を変えることだと思うんだよね」
そう、誰に何を言われたのかは知らないが、あのナイスバディからさらに痩せようというのだ。あなたの体は至って健康体ですしむしろ細いくらいですよ、ということを言葉で言ったって今は伝わらないだろう。
「痩せる」の基準を体重○キロ落とす、とかいう明確な目標ではなくて、むくみを取るとか、健康体に見せる、スッキリさせるとか、そういう方向なら協力できると思ったのだ。それなら魔力と健康を維持したまま、『痩せた』ことにならないかな? と。スーザンさんが納得してくれるかは五分五分だけど、話すだけはしてみようと思う。とりあえず体調を戻してから。
というか、『痩せろ』などという暴言を、彼女に吐いた人物って一体誰なんだ。直接的に言ったかどうかはしらないけど、少なくともスーザンにそう取られるような物言いをした人がいるということだ。
と色々考えていたら、曲がり角の手前でシリルが突然一歩前に出て私の歩行を遮った。急に止まった勢いで、手に持ったトレーの食器ががちゃん、と大きな音を立てる。
「え、なに……?」
シリルは人差し指を立てて口元にあてると、そっと曲がり角の先を覗き込んだ。
何? 誰かいるの?
「……ですから、彼女は面会謝絶中なんです。どうかお引き取りを」
「ならばシリル司令官を出せ。彼なら私の要求を呑むはずだ」
「司令官は現在外出中です。お会いになれません」
「全く話にならん!」
数メートル前方で、いらいらと頭をかきむしるのは軍服を纏った将校さんだ。医務服の女の子が、その前を通せんぼするように立ち塞がっている。あれ、よく見たら肩が震えているじゃないか。そりゃそうだ、上背のある軍人に凄まれたら普通は怖いに決まっている。なのに彼女、自分の職務を全うするために……
「ちょっとここで待っていろ。絶対出てくるなよ」
「え、ちょ、ちょっと」
静止する間もなくシリルが角から飛び出した。慌てて追いかけようと思ったら、透明な膜に弾かれる。ウソ、この一瞬でバリアかけて行った?
「何をしている」
「ひゃあっ!……シ、シ、シリル様!?」
ただでさえ恐怖を感じていたところに後ろからシリルが声をかけたものだから、ナースの彼女は完全に飛び上がってしまった。だがシリルの顔を見て今度は驚きで目を丸くする。
「こ、この方が……スーザン・アローラ様の個室へ案内しろと仰って……できませんとお伝えしたのですが……」
「分かった。後は俺が引き受ける。君は持ち場に戻れ」
シリルが促すと、彼女は目に涙をいっぱいに浮かべて駆け出した。うわぁ、よく頑張ったよあなた。まじでお疲れ様。
「それで? 駄々をこねれば彼女に会えるとでもお思いか? アーサー殿下」
「き…………貴様! シリル・スタンフォード!!」
えっお知り合いなんですか。
ていうか今、殿下って。アーサー殿下って、言いませんでしたか。
その名前、私の記憶違いでなければ、アーサー・ベリル殿下は我が国の第三王子のはずなのですが。
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