3

 体調不良だと嘘をついて、私と清水さんは飲み会を抜け出した。

 二人で並んで繁華街を歩きながら、なんとなく懐かしさを感じた。こんな無茶をしたのはいつぶりだろう? 社会人になってから、なるべく我慢をしてきた。深夜に誰かに電話をかけることもなくなったし、終電を逃すこともなくなった。理性的な大人になったのだ。

 なのに、今日はおかしい。ろくに話したこともない子と飲み会を抜け出すなんて、私らしくない。


「どこか行きますか?」


 清水さんは上目遣いで私に聞いた。


「清水さんはどこに行きたいんですかあ?」


 ぶっちゃけ、行先なんてどこでもよかった。どうせ彼女と二人で飲んだところで、つまらない雑談をして解散するのだろうし。


「どうしましょうか。私がよく行くお店があるんですが、一緒に行きませんか」


 清水さんの口から「私がよく行く店」が出てくるとは思わなかった。

 もちろん「じゃあ、行ってみたいです!」と答えた。

 

 彼女に連れられたのは繁華街の端っこにぽつんとある雑居ビル内のシューティングバーだった。


 上昇するエレベータの中で「ここは私の行きつけなんです」と独り言みたいに彼女はつぶやいた。行きつけのバーがあるなんて意外、と口から出てきそうになった言葉を飲み込む。

 エレベータの中でほとんど会話を交わさず、私は清水さんの一歩後ろをついていった。

 どこぞの寂れたスナックから大声で歌う声がする。ああ、こんな雑居ビルを訪れたのはいつぶりだろう。毎晩酔っ払いの真っ赤な顔を見ていた日々が懐かしい。


 いつの間にか、私は昼の世界に染まってしまったのだな。


 清水さんがバーの重たげな木製の扉を押し開けた。扉に取り付けられていた鈴がちりんちりんと小さく鳴る。


「いらっしゃい。あら、今日は珍しく連れがいるのね」

「その言い方やめてくださいよ。私がいつもぼっちみたいじゃないですか」

「事実じゃないか」


 くつくつとマスターは笑った。すらっと長身で長い茶髪を一つに結っていた。低い声で「今日は飲み会じゃなかったのかい?」と清水さんに聞いた。

 清水さんは席を案内される間もなくカウンター席に腰かけた。私はどう振舞ってよいのかわからず、彼女の隣の席に座る。


 目の前にはウイスキーからリキュール、テキーラまで様々な酒瓶が並べられていた。居酒屋で飲める酒しか飲んでこなかったから、少しうきうきしちゃっている。


「今日はまだお客さんいないんですね~、経営大丈夫ですか?」

「あんたに心配される筋合いはないわ」 


 いつも口数が少なくてうつむいている彼女が、イキイキと話していた。無口どころか、饒舌に話しているものだから、あっけにとられていた。

 本当は別人じゃないの? そんなわけないんだけど。


「何頼みますか? ……って、田中さんすでに酔ってるんでしたっけ。ノンアルコールもありますよ」

「あんな薄っすいカシオレで酔うわけないじゃないですかあ~! じゃあ、ロングアイランドアイスティもらえますかあ?」


 目を丸くした清水さんは咳ばらいをした。


「じゃあ、私はジントニックで」

「ええ~、もっと強い酒にしましょうよお~、ほら、あそこにテキーラもあるじゃないですか! ほらほら!」

「酔ってないくせに酔っ払いみたいに振舞わないでください」

「むう~」


 すぐにマスターはロングアイランドアイスティとジントニックを器用に作って、カウンターに置いた。

 乾杯を交わしてから、しばらくぶりのロングアイランドアイスティを一口飲む。強いアルコールの味と紅茶の味が口中に広がった。とても美味しい。

 このカクテルは紅茶を一切使わないのに、紅茶の味がするという不思議なカクテルだ。

 度数の高いアルコールで喉に熱を持つ。この感覚、何年ぶりだろう。


「あなた、お名前は?」


 マスターは私の顔をじっと凝視して聞いた。


「田中美月ですっ、清水さんと同じ職場で働いているんですけど、飲み会がいやで二人で抜け出しちゃいましたっ」

「あはは。そりゃいいじゃないか。あたしもそんな青春を経験してみたかったよ」

「田中さん、よかったんですか? 私と違って田中さんは——」

「別に清水さんと違うことなんてありませんよっ! 清水さんは何も言わなすぎですよ、あの佐藤の態度なんて見てるだけで腹立ってきました。ふざけんなこのアマ! くらい言ってやってもいいんですよ。あんな能無し、言わなくちゃわからないんですからっ」


 苦笑いを浮かべて清水さんは小首をかしげていた。


「それは言い過ぎですよ。佐藤さんが悪いことをしたわけじゃないですし」

「悪いことですっ! 暴力や暴言がなくても態度で人の心は傷つくんですよ。清水さんの心が消耗したなら、それは悪いことなんですよ!」


 力説していると、清水さんはふふ、とほほ笑んだ。にやついた口元を手で抑えながら、ジントニックを飲んだ。


「田中さんって面白い人だったんですね」

「何が!?」

「なんとなく…?」

「言語化してくださいよっ! もやもやしますよっ」


 誰かと気取らずに話せたのはいつぶりだろうか。

 いつもはどんなふうに見られているかとか、どう感じられてしまうかとか、必死に頭を巡らせて言葉を選んで話していたものだから、素の私の言葉で笑みを浮かべてくれる清水さんと話していると、自分も素直になれた。


 彼女と話しているとわかったことだけれど、私と違って一人でどこかへ飲みへ出たりカフェでお茶をすることが好きなのだそうだ。

 いつも周りの目線を気にしてしまって、一人で行動できない自分とは正反対だった。その行動力に素直に尊敬してしまう。


 だから、口が滑ったのだろう。


「私も清水さんと一緒に飲みに出かけたいですっ!」


 彼女は一人で出かけることが好きだと言っていたのに、私は何を思ってか、自分も一緒に行きたいと言ってしまった。

 素面の私なら絶対自分から誘ったりはしないけれど、今の私はほどほどに酔っぱらっていて、理性も吹っ飛んでいた。

 清水さんは困ったように笑う。


「いいんじゃないか。誰かと一緒に行動するのも楽しいぞ」


 マスターがにっこりとグラスをふきながらほほ笑んだが、清水さんは居心地が悪そうに肩を丸めた。


「ただ、私と一緒にいて田中さんは楽しいんですか?」


 少なくとも、今が楽しいのだから問題ないと私は考えていたけれど、それを伝えるのは少し恥ずかしかった。


「たぶん?」


 もっと可愛げのある言葉を伝えるべきだったと、帰りのタクシーの中で後悔した。

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