楽園の妖精姫(2)
わたくしが自分自身を赦せなくても構わないから、わたくしを赦したいという存在を受け容れてほしい。
不思議な花園で目覚めたわたくしは、見知らぬ少年にそう請われてすっかり当惑してしまいました。
わたくしはもう赦されても良いのでしょうか?
「お願いです、僕の主の想いを無碍にしないでください」
澄んだ瞳でわたくしを見つめて真摯に訴えかける少年を見ていると、わたくしを赦すという言葉を頑なに拒むことも、ある種の傲慢のように思えてまいります。
混乱したわたくしは、先ほどから視界のすみでゆらゆらと尻尾のように揺れている少年の髪に目を留めました。
彼の動きにつれてふわりと揺れる長くて太い三つ編み。
わたくしたちは着任早々に切り落として丸刈りにせざるを得ませんでした。
少しだけ寂しい思いが脳裏をよぎると、かすかな魔力のゆらぎとともに、頭部に久しく感じなかった重みと、頬にさらさらした感触を覚えました。
驚くべきことに、わたくしの銀髪が、戦前と同様……いえ、それ以上に艶やかに伸びているではありませんか。
「僕も治癒術師なんですよ」
赤毛の少年は悪戯っぽく微笑みました。
たしかにごくわずかな魔力のゆらぎを感じましたが、わたくし自身の毛根の組織が無理な働きをしたような感触はなく、とても治癒魔法の応用で髪が伸びたとは思えませんが……
「貴女の髪の情報を元に構築したんです。それなら無理な細胞分裂を促して腫瘍化するリスクが避けられるでしょう?」
「そんな方法があるのですか?」
「貴女のいた世界と僕が生きていた世界は少し違うので。魔術の仕組みも理論も違うみたいですね」
楽し気にくすくすと笑う彼につられてわたくしも心が軽くなって参りました。
「ね、お腹すいてませんか? そろそろクルミのパイが焼きあがる頃なんです。
一緒にお茶をいただきましょう?」
ぱっと花が咲いたように笑う彼にいざなわれ、木立の間を抜けるといつしか中天の月は急速に欠け始め、猫の爪よりも細くなって真紅に染まりました。
今宵は月蝕だったようです。
やがてこぢんまりした趣味の良い館の庭園の、小さな温室の前にやってきました。
「先輩、パイ焼けてますか? お客様をお連れしました」
わたくしを温室の傍らの小さな東屋に通され、いざなわれるままベンチに腰掛けます。
少年が館に向かって誰かに呼びかけると、ほどなくして茜色の長い髪をさらりと伸ばした青年がバスケットを持って出てきました。
「ちゃんと焼けてるよ。まったくヴォーレは人使いが荒いんだから」
手際よくお茶を淹れていく青年は、どこか先ほどの少年と面差しが似ています。
ご兄弟でしょうか?
「彼とは血のつながった兄弟ではなく、同門なんです。まぁ、弟みたいに思ってはいますが」
わたくしの疑問が顔に出ていたのでしょうか?
青年がふわりと笑って答えてくれました。
少し浮世離れした、あまりに美しい笑みに思わず見惚れてしまいます。
「冷めないうちに召しあがってください。先輩の焼いてくれるパイ、絶品ですから」
にこにこと笑う少年に促され、パイを一口いただきました。
さっくりとした生地の食感としっかり蜂蜜に漬け込まれたクルミの歯ごたえ、優しい甘さがじんわりと口いっぱいに広がります。添えられた紅茶はミルクとミントがたっぷり入っていて、甘いパイを食べた後の口の中をさっぱりさせてくれます。
「ところで、僕の分は?」
「はいはい、この食いしん坊さん」
少年も、青年におねだりして自分の分をちゃっかり受け取りました。
美味しそうに食べている顔は小動物のようでとても可愛らしく、眺めていてついつい頬が緩んでしまいました。
青年も慈しむような美しい笑みを浮かべてその様子を見守っています。
幸せそうな笑顔にいつの間にかほだされて、わたくしたちはすっかり打ち解けて他愛のないおしゃべりに花を咲かせていました。
二人とも生前は治癒術師だったそうで、治癒魔法や医学の話題で盛り上がりました。
どうやら彼らが生きていた世界はわたくしの世界よりもやや技術などが遅れがちだったようで、医学技術の違いに驚いていました。
それでも治癒魔法を使う時に術者の生命力を消費する事は同じのようです。
「みんな自分の身体は治してほしがるけど、術者がどれだけ命削ってるかは全っ然気にしないんだよね~」
情けない顔で青年が言うと、
「そうなんですよね。もちろん助けられる人の命は助けたいとは思うんですが……
それで僕が倒れると何やってんだ、って言われちゃうでしょ? けっこう凹みます」
少年も眉を下げてぼやきます。
いずこも治癒術師の扱いは似たようなものなのですね。
「わたくしも、もう限界だから無理だとお断りしたのにどうしてもと強いられて、暴走してしまったことがございますわ」
無理な魔法の使用を迫られ、暴走するのを承知で術を使って相手を死なせてしまった、わたくしの罪。
浮き立っていた心がまた沈んでいきます。
すると、少年がわたくしの手をそっと包み込むように握ってふわりと微笑みました。
「術の失敗で患者さんが亡くなるのは辛いですよね」
「失敗というか……わたくしが殺したようなものです」
「……僕も、自分の意思で、たくさんの人の命を奪いました」
見た目に反して、ごつごつしたマメのたくさんある、少し堅いてのひら。
とてもそうは見えませんが、この優しい少年も軍人なのですね。
「こんな僕ですが、貴女を赦してもいいですか?」
月の光のような瞳でわたくしをまっすぐに見て少年が言います。
「あなたが、わたくしを、赦したい……?」
我知らず、言葉が唇からあふれてしまいました。
「はい。貴女を赦すことを、お許しいただけますか?」
その透き通るような笑みを見ていたら、いつの間にか「はい」と答えてしまいました。
「ありがとうございます」
ふわりと花の咲いたように笑う少年。
なんと綺麗に笑うひとなのでしょうか。
「やっと笑ってくれましたね。やはり笑顔の貴女はとても美しい」
優しい笑みを浮かべて青年が言います。
わたくしは笑えているのでしょうか。
思わず頬に手を添えますと、古傷で堅くなり、ガサガサしていたはずの肌は滑らかな感触を取り戻し、しっとりと指に吸い付きました。
思わず目を瞠ったその瞬間。
空の一点に白い光が差したかと思うと、空が一気に茜色に染まりました。
夜明けです。
「フェル、やっと来たのね」
「ずっと待っていたのよ。さあ、行きましょう」
木立の方から懐かしい声がします。
「ヘパティーツァ、エルシス、マイプティア……キルシャズィア、クメリーテ……ピオニーア……」
あの戦場で散ったはずの、わたくしの大切な戦友たち。
誰よりも清らかで美しい乙女たちが、出会ったころのままの……
いえ、その頃よりも健康的で美しい姿で手を振っています。
「さあ、みなさんお待ちかねですよ」
悪戯っぽく笑う少年に促され、わたくしは明け方の光の中を駆け出して参りました。
もう、誰も殺されない、殺さなくて良い世界へ。
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