マイ・フェア・レディ

真夜中の時計塔がまた鐘を鳴らした。

なるはずのない真夜中に。


僕は目をさました。

部屋にはだれもいない。

暗くて手先さえ見えない。

恐る恐るベッドからおりようとして、膝から下に力が入らず、そのまま床に転がり落ちた。

痛みがじわりと染み込んできて、まもなく悲しい気持ちになる。

「セブ! ねぇ、セブいるの?」

隣の部屋のほうに声を投げかける。

反応がない。

なにも音がしない。

換気扇も、蛇口からこぼれる水滴も、なにもかも。

何故こんなに静かで暗いのか。

僕はどうして動けない?

ふと、どこからかあまい香りがした。

じとっとして纏わりつくような、煙に似たあまい香り。

なつかしい。

懐かしい?

どこで嗅いだ香りだろうか。

ビルの香りじゃない。

宣伝ブランドの香水でもない。

人は光がないと立ち上がることさえ怖いのか。

光に満ち溢れていた「ウィリアム」は、時折せつない笑みをすることがあった。

今思えば、自分で撮影した動画を投稿したときも、カメラに映る彼の表情は寂しそうにみえた。

数十万、何百万の人々がその画面の前にいるのに、彼のそばには誰もいなかったのだ。

前のマネージャはあまり友好的でもなく、理解者でもなかった。

彼はたったひとりで、いつだって世界を背負って、地に立っていた。

「ウィリアム」はもはや人間というより神のような存在のようだった。

暗闇のなかで、ぽろぽろと涙がこぼれる。

「どうして、誰もいないんだよ!」

また、時計塔の鐘の音がなる。


ああ、これはきっと夢のなかだ。

わるい夢を見てるにちがいない。

そう思って這いつくばって、部屋の扉までなんとかたどり着く。少しずつ上体を起こして手探りでノブを探す。

四角模様の4つ上、と手で四角の溝をなでるように上に伝わせてゆく。

手がノブに触れると、向こう側で誰かが開けたかのように、素直に扉が開いた。

それでも光は差し込んでこない。すべてが真っ暗。でも、扉の向こうに人の気配がした。

かすかに感じたのちに、やがて消えた。

ふわっと甘い香りが残っている。

さきほどと同じ…

思いきって立ち上がり、僕は一歩踏み出した。

すると今度は頭からまっ逆さまに見えない穴の中に落ちていくのだった。

どんどん降下が早くなる。

負けるものか、と僕は手を上に伸ばした。

手から煙がたちのぼり、狼煙のように見えて、僕の腕にまとわりついてくる。

煙の中から光る瞳がひとつ出てきた。

僕をじっと見つめてくる。

目しかないのに、それは笑っているとたしかに感じた。

見回すとあたりにぼやぼやする光と部屋のようなものが微かにある。

しかしすぐに通り過ぎてしまう。

やがて、気が変わったのか体が垂直に回転し、今度は足を下にしてゆっくりと降りてゆく。

ずいぶんヘンテコな夢だ。

これは夢?

どうして夢だと思う?

僕は起きている。

こどもたちが遊ぶような小さな円卓が浮いていて、その上にこれまた小さな茶器が並んでいる。ひとつのカップに注がれたばかりで、湯気がたっている茶がある。

やたら大きなシュガーポットに、ねずみのぬいぐるみが詰め込まれている。

見たことがあるかもしれない。

でもどこで見たのだろう。本の物語だろうか。

ぼんやり明るい空間に、だれもいない茶会。

明るいのに周囲は見えない。

ただ明るいだけの、白に近い世界。

ふいにかなしくなる。

わからない。

咄嗟に、あたたかいカップを持ち上げて、そのまま勢いよく飲み干した。

作法などぜんぜんお構い無しに。

だってここは正式な場じゃない、

「僕の茶会」だから。


落ちてゆく

おちてゆく

ロンドン橋も

世界も

僕も

おちてゆく


僕は壁のような光のほうへ手を伸ばした。

光がだんだんにはっきりと差し込んでくる。壁と思っていたのは葉の垣根で、赤い薔薇が咲き乱れていた。

香りが僕を包み込む。

ふいに、後ろから手が出てきて、

透けるような金髪の長い髪が僕の肩から胸に流れてくる。

やわらかい腕と手が僕の頭を抱え込む。

「また会えたね」

可憐で幼い女の子の声に聞こえた。

「なにも見えないよ」とだけ返した。

「待っててくれたんだね、私のうさぎさん」

急に体温が上昇し、汗が吹き出してくる。

この感覚は一体?

「またね」

彼女の腕がそっと離れた。

「待って、君は…」

名前を呼ぼうと振り返った瞬間、まっ逆さまに暗闇に落ちていくのだった。

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