Seb

僕は、なにか大切なことを見落としているかもしれない。

幸いにも、ブランドショーやイベントに参加しない期間だったため「彼」が黒髪になるのは問題なかった。

思い出そうにも、いったい何を思い出さないといけないのか。

蜘蛛の巣に引っかかるような心地で、きっとすぐに解けるとは思えない謎を抱えてしまった。

それが一体なんなのか、誰にもわからないことだろう。

あれから数日がすぎ、僕とウィリアムではなく「ブラン」という人物は別々に暮らしている。

スミスさんが「ブラン」を監視する形式で同居し、僕はというとスミスさんの息子のノアールさんとスミスさんの英国支社が見える一等地のアパルトマンで共同生活をしている。

 彼はまっすぐな性格で、人懐っこい笑顔をしながら世界の話をする。

純粋で澄んだ人。

黒髪に青い瞳が印象的で、眼鏡をいつでも手放さない。

 ウィリアムとも話が合いそうだな、と、ふと隣にいないことがさみしくなる。

「コナー、朝は麦入りのスライスパンとチーズでいいかな」

「ありがとう。セブ。僕は皿を用意するね」

広めの長方形型のダイニングに、四脚のゆったりとしたアンティークデザインのチェア。

対角線に皿やカトラリーを並べていく。

いつも向かい合って食事をしている。

僕らは年齢も近いこともあり、すぐ意気投合した。愛称で呼びあい、ノアールからもじって、黒檀毛のすばしっこいセーブルを想像する名前だ。

愛称をつけたときは、ずっとベッドの上でとんで跳ねて綿が舞うほどの騒ぎだった。

セブを見ていると、なつかしいような、いとしいきもちになる。

ウィリアムと一緒のときは、食事は外の風遠しの良いバルコニーで、少し離れてそれぞれで食事や皿を用意するものだから、なんだか居心地がわるい。

いや、僕もウィリアムに会うまでは、学友と食べ回したり、取っ組み合いしてじゃれついたりする、ごく普通の生活だった。世の中の状況としては、まだ食事の共有を頻繁にするわけにいかないにしても、ウィリアムが特に衛生に敏感で、元来もっていた性質がより、感染症騒ぎのせいで凝り固まってしまったのだ。

 セブと生活していると、学生の時・以前のなんでもなかった世界の状況を思い出して懐かしさでいっぱいになる。けれども、ウィリアムのことも同時に思い返しては会いたい気持ちでくるしくなる。

一体なにが起きているのだろう。

このまま、わからないままでいるわけにいかない。

「セブ」

食事が終わって珈琲を飲む彼に呼びかけた。

「君は、サー・スミスからなにか真相を聞かされていて、僕と一緒にいるんだろう? 僕はあれから数日間なにがなんだか理解できないでいる。それにウィリアムをどうするつもりなんだ」

彼はカップを持ったまま神妙な表情をして、僕の目をじっと見つめた。

青く透けた瞳が、僕を、いやその先を見つめているような感覚。

「大丈夫。僕も父も、あなた方の味方です。ただ、父が選んだ手段に関しては驚きを隠せないのだけれども」

「それが知りたい。友は隠し事をしない、そうだろう」

「そうとも。友よ」

カップをそっと机において、ノアールは両手を膝の上にのせた。

窓からカーテンが風に吹かれて僕らの合間をチラチラと揺れる。

日が少し高くなってきて、テムズ川周辺は小型船が往来をはじめ、汽笛を鳴らす。

「僕自身もまだ全てを聞かされていない前提で、わかる範囲で伝えたい。言葉もまだうまく話せないから、誤解があったらごめん。

それで、不思議で本当かどうかわからない夢物語を信用してもらえるならば…」

僕は首を縦に振った。

「 2年前に旅に出た。不運にも嵐に巻き込まれて僕は傾いた船から投げ出され、見知らぬ海岸に打ち上げられた。これは 不幸か幸せなことだったのか…

アリスの不思議物語を知っていますか?

世界でいちばんヘンテコな物語。僕は原作を少しずつ母国語のほうで読んでいます。

細かいことは省くけど、それになぞられた茶会に招かれて、半透明のリボン状に動く嗤う猫といかにも怪しい帽子屋に出会った。彼こそがブラン。現在、ウィリアムを上書きしている本人なんだ。僕も信じられない。彼にひどい仕打ちをされたから…ここで言える内容ではない。彼が何をしたかは黙秘させてほしい。僕も思い出すのが非常に恐怖だ。ただ、振りかえってみれば彼は彼なりに美学を貫いた、世界で類をみない美しい人だ」

僕の目からぽろりと涙がこぼれた。

なにも知らないはずだし

なにもわからないのに

涙がどんどん溢れてくる。

何故。

これでは部屋が水浸しになってしまう。

「コナー、大丈夫?」

視界にようやくセブが映った。

「なんにも知らないのに、懐かしくて、違和感があるのにかなしくて、何もわからない」

セブが隣に座り、僕の肩を包むようにかかえた。

「僕たちはなにがあっても友達だよ。大丈夫。心配しないで、僕らにはつよい魔法使いが仲間なんだ」

「ありがとう、セブ」

僕は肩に置かれたあたたかい手をそっと握る。

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