6、要らない
◆要らない
お風呂場から、ちゃぷちゃぷと水の音が聞こえる。
普段から水を溜めて、テケテケが水を浴びられるようにしてみた。これが好評で、日に何度かは、狭い浴槽で泳いでいる。あたしは不特定多数の知らない人が入った浴槽が嫌で、元々シャワーだけしか浴びなかった。だから浴槽に置いてけ堀の毛が浮いてたって気にしない。
毛といえば、だ。
こないだ、ぬいぐるみから人毛が出てきた件は未解決だった。今度こそ証拠を警察に持ち込んでやろうと息巻いていたのに、目を離した隙にテケテケが壺の中にぬいぐるみを入れてしまった。さすがに怖い…………壺の中をまさぐる勇気はなかった。
まさかテケテケを交番に連れていくわけにもいかない。妖怪にはたくさんの人の目に晒すようなことはご法度だと招吉に言われていた。人の目……、ひいては世間の明るみに晒されれば、並の妖怪は消えてしまう、と。
実害か、証拠か————。
どうしたものか、犯人はタヌキだって分かりきっている。いやでも、法的な証拠以前に、あたしはこの部屋に出入りしているタヌキを見たわけじゃない。あたし自身、「コイツです!」と豪語できないのも事実だった。
部屋に出入りして毛入りのぬいぐるみを置いていくぐらいだから、きっと盗聴器やカメラもあるはずだ、そうに違いないとアンナと話した。その翌日、100万円もあるのだからと、1万円ちょいする盗聴器発見器を秋葉原まで買いに行った。だけど、残念? なことにそういった物は発見できなかった。
鍵さえクリアすれば、あたしは書店で働いているかどうかは……、つまり留守なのかは簡単に分かるから、侵入もしやすそうだ。安アパートのドアだし、ちょっと調べてみたらあのタイプの鍵は、5分もあれば素人でも開けられるらしい。道具だって容易く手に入るんだろう。
あたしたちが考えもつかないこわくて気持ち悪いことも、されているのかもしれない。
毎日、恐ろしい。
早く引っ越そうとアンナは言った。
それもアリだねとあたしは返した。
平目さんからLIMEで連絡が入った。仕事着やその他もろもろの備品を返却してほしいとのこと。
「この間は忙しくて、言い忘れてました。できれば今日中だと助かります。無理を言って申し訳ありません。お忙しいお体だとは存じておりますが」
暇だった。「お忙しい」だとかは平目さんの冗談を感じる。忙しいのはそっちだろうに。
その日の夕方、平目さんに一報入れてから、あたしはかつての職場へ足を運んだ。
途中で平目さんから返信が来た。
『先程、タヌキが店に来たようです。僕はいま店を空けています。バイトの子にも話してあるので、荷物は渡しちゃってください。お気をつけて』
あたりを警戒しながら中道通りを行く。テケテケが残された部屋にタヌキが入り込むのを想像すると、早く帰ってやりたい気持ちになった。
あれ?
ふと、ガス栓を閉めたかどうかが気になった。
ペットがガスコンロのスイッチをいじって、それで火がついて、燃え移って、火事になって、ペットが死んでしまう。そんな話を聞いてから、火を使う時以外はガス栓を閉めるよう心がけていた。だけど今日は、閉めた記憶がない。思い出そうとゆるめていた歩調はついに止まり、心配でたまらなくなり、あたしは踵を返した。
最近の留守中のテケテケはけっこうウロウロしてるみたいだから、やっぱり危ない。
気付けば走り出していた。
慌ただしく部屋に帰り着いた。いの一番にガス栓を確認。本当に開けっぱなしだったことに戦慄した。
帰ってきてよかった……。
せっかく帰ってきたから、可愛いテケテケを一目見ようとリビングへ。
「テケテケー」
膝をついて壺を覗き込む。テケテケは出てこなかった。それどころか低く唸っている。二つの目が闇の中で鋭く光っていた。
「どうしたの……? お腹痛い?」
スマホが鳴った。
見るとアンナだった。短いLIMEが連続した。
『澄子』
『ストーカーはタヌキじゃなかった』
『ワタシの目に狂いがなければだけど』
『他にいる』
『いまどこ?』
ストーカーはタヌキじゃない? 部屋に毛入りのぬいぐるみを置いた犯人が別にいたってこと?
テケテケは唸り続けている。
「ねぇ、テケテケ……?」
数歩、前に出てきたテケテケ。
スマホが着信を受けて鳴り出した。アンナからの電話。出ようと通話ボタンを押すと同時に、息を呑んだ。
テケテケの口元は赤黒く濡れていた。剥かれた牙も紅白の模様のようになっていた。
血だ。
インクなんかじゃない。テケテケが咥えた誰かの指から滴った血だった。
その血を目にした途端、部屋中に同じ赤色が、ところどころ飛び散っているのに気が付いた。
点々と、続いていくのを、目で追った。窓際、服が目一杯さげられたカーテンの方まで続いて、そして視線は2つの目玉と合わさった。
刹那、服やカーテンの隙間から、まるで背の高いテルテル坊主のようなモノが飛び出してきた。頭は覆面なのか、不自然にまあるく黒かった。カラダには黒い一枚布。
思わず身を庇うように腕を構えた。ソイツはテケテケの壺を掴んだ。その手、指が1本欠けていた。
テケテケに何するんだ!
考えるより先にソイツを掴んだ。身に纏っていた布が剥がれると、中から出てきたのは妖怪でも何でもない。一糸纏わぬ男性のカラダだった。
コイツが、部屋に侵入していたストーカー……?
顔はふくらんだ覆面のせいで輪郭すらつかめない。その顔に壺から飛び出したテケテケが噛みつく。声は出ないが、かなり慌てているのはジタバタと動かす手の様子で感じ取れた。
覆面が破けて落ちる。中の顔は更にウレタンのマスクで覆われていたけど、あたしはそれが誰だかすぐ分かった。
「平目さん…………」
名前を呼ばれて、彼自身が、自分が平目だと再認識したようだった。冷静さのカケラもない、獣のような猛々しい眼であたしを見つめる。
彼は、ストレス濃度の高いため息をついてから、「あーー」と声を上げた。その声は伸びるにつれて高く、強くなった。言葉じゃない吠え声を最後に出したと思ったら、テケテケを壺ごと窓に投げつけた。鈍い音がした。服などがクッションになったとはいえ、かなりの衝撃だったはずだ。ぼとりとベッドの上に壺は落ちた。テケテケは出てこない。
あたしは胸ぐらを掴まれ、抵抗できない強い力で立たされる。怯えきって、もはやその力だけによって立っていた。平目さんはあたしの頬や耳や髪を息荒く嗅いで、吸って、舐めた。
かすかに、あたしを呼ぶアンナの声がきこえた。床に落ちた通話状態のままのスマホからだった。
アンナ、こっちへ来るかもしれない。大変だ。アンナにまで危険が及ぶ。
「雇ってあげただろ」
相手の自由を奪い、時間が経ったことで少々落ち着いたのか、平目さんが言葉をつむいだ。あたしは未だに脚に力が入らないままだ。
「雇ったんだから、僕の、物だろ」
意味が分からなかった。ただアンナに危険が及ぶのが心配だった。テケテケも無事だろうか。
「ケーサツが……来るわよ」
かろうじて声が出た。
アンナだったら、電話口に尋常じゃない気配を感じ取って通報していてもおかしくない。いやでも、まだあたしと通話中なのか。
「んー?」
平目さんは鼻を鳴らすように、んー? と何度か聞き返してきた。
理性の飛んだ人間のサマに身震いがした。
「ウソだ。君は、嘘ばっかりだ。ずっと見ていた。僕だけが君の本当の姿を見ている」
平目さんは愛し方を知らない少年のようにあたしを撫でまわす。
「僕の物なんだから、僕が責任をもって癒してあげるから。優しい君は、誰よりも傷つきやすいからね、もう大丈夫だから。ウソつかなくていいよ」
がっしりと肩を掴まれて、正面から見据えられる。
「ね!? 代わりに僕を所有してくれていいからね!」
こんなやつ、要らない。
「君と僕は、だってさ、一緒に住んでるじゃないか、もう長く。もうずっと一緒だもんね」
あたしは、毛入りのぬいぐるみを思い出した。ああいうのが、もっと他にもあるのかもしれない。気持ちわるい。
あたしは、首を振った。
きょとんとした顔に相手がなった。あたしはもう一度、首をふる。
「オイテケ、オイテケ」
テケテケの声がした。緊張感の無い声が、絶えず壺から飛び出す。
「オイテケ、オイテケ、オイテケ、オイテケ、オイテケ————」
鳴り止まない目覚ましみたいに、声は部屋に響き続けた。
平目さんはあたしにたずねる。
「えっ、要らないの?」
テケテケが無事なことによって力が湧いてきた。
「あんたなんか要らない」平目さんの目を見て、はっきりと頷く。「捨ててやる!」
背中に強い衝撃を受けた。床に投げつけられたんだ。すぐに顔に何かを押し付けられる。覆面かもしれない。とにかく息ができない。必死に手足をばたつかせるけど、馬乗りにされているようでびくともしない。
「じゃあさ、じゃあさ、僕も要らない」ムキになった子供みたいな声だった。「僕も捨ててやるよ」
その言葉が最後だった。
意識が遠のく。
深い暗闇に、あたしは落ちていった。
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