5、退職祝い
◆退職祝い
最後の出勤だった。
それも間もなく18時をもって終了する。
「寂しくなりますね」
カウンターで肩を並べて、平目さんはサラッと口にした。初対面の人ならそのセリフはただの社交辞令のように聞こえたに違いない。だけどあたしは違った。こっそりと冗談を言い放つ人だし、他人行儀な人ではない。
「平目さん、いろいろありがとうございました」
「僕は、何も」
「いえ、タヌキからあたしをかばってくれたり、あとほら、ハンドクリームとか」
「大したことじゃないですよ」
平目さんは珍しく笑った。
思えば、この書店に就職できたのは平目さんのおかげだった。就職浪人になりかけていたあたしは、さして興味もなかった書店に面接に赴いた。当たり障りのないことを話した。当然、面接官の反応も芳しくなかった。だけど平目さんだけは違った。後から聞いた話だと、彼が当時の店長に「彼女は見た目以上に働き者だと思います」とかけあってくれたらしい。ギャル上がりだったあたしは、控えたつもりでも、思い返すとかなり濃いめのメイクだった。各地の面接地でもヒンシュクをかっていたのだろう。
「すいません。せっかく採ってもらったのに」
「しょうがないですよ。事情が事情だけに。むしろ力になれず申し訳ありませんでした」
「とんでもないです!」
その後は会計が立て続いたため言葉を交わすことはなかった。
運がいいかな、今日は、タヌキが姿を現さなかった。
「そういえば、いろいろ付録が余りそうですけど、持っていきますか?」
平目さんが去り際のあたしにきいた。
「いえ、あたしミニマリスト目指すことにしたんで」
「おや、そうですか」
意外そうな顔で平目さんはあたしを見た。小深山澄子とミニマリストって単語は、イメージ違いも甚しかったんだろう。
「送別会もできずに申し訳ありませんね」
「このご時世ですから。では失礼します」
足取りは軽かった。大した貯蓄があるわけじゃないのに、心配なことはなにもなかった。
明るい未来が、待っているに違いない。
絶望的に楽観的なあたしが顔を出していた。
「おつかれさまー!」
クリスマスに貰ったはいいが埃をかぶって部屋の隅にあったシャンパンを開け、アンナと招吉との3人、あたしの部屋で乾杯。
あたしの、退職祝いってやつだ。
「晴れて澄子も無所属ってわけね」
「なによ、無所属って」
「仕事がない大人ってさ、社会の何の役にも立ってなくてさ、行くとこもないと、「あー自分ってどこにも属してない根無草なんだな」って痛感するわけよ」
「さすが無所属の先輩。ねー、招吉のところって空きないの? あたしを雇ってよー」
あたしはあぐらをかいた脚の間にテケテケの壺を挟んでいた。テケテケは、ローテーブルに広げられたカルパスならチーズやらをしきりに、忙しなく嗅いでいる。「だめよ、食べたらまたピーピーだよ」あたしはこないだの下痢事件のことを思い返して言った。
「ボクんとこの会社は狭き門なので、澄子さんには無理ですね」
招吉はUFOキャッチャーでついに獲れたというモササウルスのぬいぐるみを撫でながら返した。
冗談半分だったのにそんな言い方をされると、これからのことを考えて不安になってしまう。いや、しかしあたしは自由の身だ。怖いものなんてないんだ。
酒が回ってきたところで、「トイレ借ります」と招吉が腰を上げた。
「澄子、テケちゃんのおかげで何かいいことあった?」
アンナが新しい缶ビールに手を伸ばしてきいた。
「特別なことはないけど、毎日癒されてるよ。部屋もさ、物減ってきたでしょ?」
「そうかー?」
アンナは手近なぬいぐるみを弄びながら、不敵に口元を吊り上げて笑った。床が見えるようになってきたことに気がつかないのだろうか。前はつま先立ちで歩いていたじゃないか。
「この子のおかげでかなり捨ててるんだけどねぇ」
あたしも新しいお酒を開けた。すると頭の後ろで破裂音がした。たとえでなく飛び上がる。テケテケは壺に逃げ隠れた。
「おめでとうございまーす!」
どこからともなくハワイアンな音楽がきこえてきた。戻ってきた招吉はくねくねと腰を躍らせ、あろうことかあたしの首に花のレイまでかけてきた。あたしは頭にかかったクラッカーの中身を払う。
「なに? なんなの?」
「澄子さん、大当たりー!」
アンナまでどっから持ってきたのはハンドベルを鳴らして立ち上がる。理解が追いつかないが、元パリピ魂で、遅れをとっちゃいけないとあたしも立ち上がり、しばし2人とダンシング。
「澄子、前に宝くじ買ったの覚えてる?」
「うん。うん?」
外れたはずのやつ。
「あれね、実は当たってました! なんと100万円です! ハワイ旅行決定です!」
突然のことに頭がついていかない。
宝くじ? 100万? ハワイ?
「うそ……」
「うそじゃない! うそはついてたけど、澄子の退職祝いで発表したくて!」
突然こんなにもハッピーに物語が展開するなんて信じられない。
「澄子さんおめでとうございます。置いてけ堀を提供してボクも本当に良かったと思います。じゃあ、盛り上がったところでボクは失礼しますね」
「うそ?! まだいいじゃん」
「そうだよ、もっと付き合ってよ」
いきなり招吉が帰るというので、アンナと一緒になって止めた。だけど招吉は聞き入れず、本当に帰ってしまった。
「他のお客様の様子も気になるので」と。
宝くじ当選の喜びが薄れてしまうほど、招吉の中座には寂しくなった。
「彼、あれでちゃんと仕事してるんだね」
「アンナ、失礼だよ」
「へーい」
2人で飲み直すかと思った矢先、閉まったばかりの玄関扉が開いた。
「澄子さん、そうだ言い忘れてました。置いてけ堀についての忠告ですが」
「忠告?」
「はい。置いてけ堀に物を捨てるのはいいですけど、それは必ず自分の物にしてください。さもないと下痢をおこしたり、最悪の場合置いてけ堀が死にます」
扉を開けたまま、冷気をがんがん招き入れながら、招吉は告げた。あたしはたずねる。
「ねぇそれって、食べ物もあげちゃだめなの?」
「食べ物ですか? 大丈夫ですよ。こないだのは、どうしてか調子が悪かったんでしょうね」招吉は部屋の奥を覗き込むように首を伸ばし、「テケテケ、ばいばーい」と手を振って、今度こそ帰ってしまった。
「変わったやつ。案外アイツも妖怪だったりしてね」
「さぁ」
あたしは忠告を反芻した。間違いがないように肝に銘じる。
それからあたしたちは、100万円で何をしようかと夢いっぱいに話しながら飲み続けた。
夜も更けて、テケテケが活動的になってきた頃だった。
あたしたちはシャワーを浴びたり、皿を洗ったり、歯を磨いたり、まぁぼちぼち寝るための支度をしていた。テケテケは壺から出ていて、小さなぬいぐるみにかじりついては、激しく首を振って、ちょっとこわいくらい尖った牙をちらつかせながら遊んでいた。
すると、テケテケはいつもの「オイテケ」の声ではない嗄れた声で、「ガァっ!」と鳴いた。
「どうしたの?」
2人で驚いてテケテケに近寄る。尻尾も耳もたらして、へこたれた顔で壺に入っていくテケテケ。
「ねえ? 大丈夫?」
「ちょっと澄子……これ見て…………」
テケテケばかり心配していたあたしはアンナを振り返った。アンナが指差した、テケテケが噛んでいた小さなぬいぐるみ。その腹が裂けて、中から黒々とした人の毛が溢れかえっていた。
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