7、愛した人たち


◆愛した人たち



 一緒に年越ししようと母は何度も言った。だからおれは、仕事があるから大晦日や元旦は行かないよと何度も返した。

「でも母さん、5日あたりがちょうど揃って休めそうだから。その日でいいかな?」

「ご飯、すき焼きなんかでいいかしら? 重いかしら? それにこのご時世、一つの鍋をつつくのはやっぱりダメかしら?」

 スケジュールもはっきり決まってないのに献立をどうするか聞いてくる母。かなり浮かれているのが分かる。

「彼女は気にしないと思うよ」

「そう? あっ、でもなんなら私たちがそっちに行った方がいいわよね。こっち来たって日帰りになるんだから、行ったり来たり電車で、疲れちゃうわよね?」

 母との電話は長く続いた。コズエとも話し合って、おれたちと両親が会うのは1月5日、場所はおれたちのアパートに決定。どこかのお店を予約してもよかったのだが、コズエの強い希望の「家庭料理が食べたい」を叶えるための選択だった。おれも気が楽だし、それに翌日が仕事のことを考えるとおれらが移動しなくて済むのはかなりありがたい。

「ねえ? ウチへんなことお願いしちゃったよね。おかあさんの手料理が食べたいだなんて……、しかもそれを持ってこいだなんて!」

 コズエは嘆きながらも嬉しそうだった。

「気にしてないと思うよ。母さんたちもコズエに会えれさえすればいいと思ってるし」

 大晦日は、おれら2人とも11時過ぎに仕事から帰ってきて、鍋を食べながら年を越した。元旦の昼間は休みだったけど、コズエは夜に職場の新年会に出かけた。2、3、4、とあっという間に過ぎて、ついに両親がやってくる5日。

 約束は12時だった。おれたちはそれまでに部屋を片付けたり、料理をしたりと忙しなく動いた。その間にコズエは何度も鏡を見に行き、年末年始でいつもの美容院がとれなかったことを悔しがっていた。

「そろそろおれ迎えに行ってくるよ」部屋を出ていこうとする。コズエに玄関で呼び止められ、「ウチどこも変なとこないかな?」と確認を求められた。セレブの邸宅ならまだしも、家賃10万以下の部屋でするにはたしかに不釣り合いだったが、オシャレをしたコズエは掛け値無しにキレイだった。

 両親とは吉祥寺の駅で待ち合わせた。2人とも年相応のおしゃれをしている。ただ母のスカーフと父のハットは、調べればまだ値札がついていそうな新品感がムンムンだった。

「どこも変なとこないかしら?」

 母は「元気?」とか「お待たせ」とかいう挨拶より先におれにそうきいてきた。

 井の頭公園を親子3人で、

「懐かしいな」父がこぼした。母は「そうねえ」と言った。

 不思議な緊張感をまとって歩いた。




「はじめまして」

 アパートに着き、玄関先でおれ以外の3人が軽く挨拶した。

 父が、コズエに手土産を渡す。

 これはこれは、いえいえなんのなんの……といったやりとりをして、二、三秒の沈黙の後、「じゃっ、僕たちはこれで」とお辞儀した父と母を「なんでだよ」と押して中へ。

「ほんとに地味なものばかりで恥ずかしいんだけど……」

 皿に移した母の料理を食卓に並べていく。いつもは電子レンジで温めるものなんかも、「それ、お鍋であっためた方が絶対美味しいから!」と母に圧力をかけられて一手間かけたり。

 食卓に1人で座っている父は、手を組み、部屋の一点を見つめ、手術を受けている身内を待つような神妙な面持ち。先程、ハットに値札がつきっぱなしだったのを指摘されてからずっとだんまりだ。

 食卓はコズエの彩りの強い料理と、母の地味な色合いの料理でいっぱいになった。置ききれなかったので、炊飯器などを乗せていたキッチンワゴンなんかも活用した。

 ビールで乾杯。

 お互いの料理を褒めたり、3人がやっとおれが正社員になったのをネタにしたり、コズエの出身の沖縄の話をしたり。

「うまい! うまい! うまい!」

 父はなぜかコズエの料理を食べるたびに、最近流行ったアニメ映画の赤い髪の人みたいになっていた。

「2人は今日は家に帰るんだっけ?」途中でおれはきいた。

「今日はね、泊まってくわ。吉祥寺のすぐんところ、予約してるのよ。古いけど旅館。お父さん、あそこ名前なんだっけね?」

「たしかー……、旅荘・若水とかってところだ」

「あーそーなんだー」

 そこはアレだな、公園近くにある、いわゆるお休憩もできるところだな。昔風に言う連れ込み旅館。指摘はしない。まぁ若い時を思い出してもらおう。

 時が経つにつれ、お酒のせいもあってか緊張感はとけていった。

「ほんっとに、良い人でホッとしたわ」

 両親は何度も口にした。お世辞でなく、2人はコズエをとても気に入ったようだった。

「料理も美味しいし、見た目もね、キレイで。こういうのなんて言うんだっけ? ほら、スマホで写真撮って」

「映え、じゃない?」

「そうそう、バエよバエ!」

 母が言葉にするとまるで遠い異国の言語のようだった。コズエも何か思ったのか少し笑って返した。

「でも、おかあさんのお料理も本当に美味しいです。すいません、こっちが手料理だなんて変なリクエストしちゃって」

「とんでもない。久しぶりに楽しく料理できたわこっちも」

「それなら良かったです。ずっとこういう地味な料理に憧れていて……」コズエは慌てて訂正する。「あ! 地味って、そうじゃなくて、家庭的って言うのか、すいません!」

「いいのよ」

「でも本当に、美味しくって…………」

 コズエが俯いて、静かに鼻をすすった。涙ぐんでいた。

「仕事、大変みたいですね」父が言い、お手洗いをお借りしますねと席を立った。母は「空いたお皿片しちゃおうかな」とキッチンの方へ。

「ごめん鶴士、なんか色々、思い出しちゃって」

 目を赤くしたコズエと、居室の方へ移動した。こっちはエアコンを消していたのでひんやりと空気が冷たかった。

「大事な日にごめんね」

「ぜんぜん大丈夫だよ、ほんとに」

 背中をさすりながら声をかける。コズエの立ち直りは早かった。

「これからはウチが家庭的なご飯たくさん食べさせてあげるね」

「うん。おれも職場で技術と魚を盗んでくるよ」

「盗むのは技術だけにして」

 笑い合えた。

 たくさんの不安たちは一旦身を引いて、代わりにさまざまな幸せなイメージが押し寄せてくる。実現させるためにこれから頑張っていこう。

「戻ろうか。先に行って場を爆笑の渦に巻き込んでおいて」

「無理言うなよー」

 リビングに戻ろうとするおれの後ろで「コレ最近忙しくてめくれてなかったね」と声がした。

「なにが?」と口にしてから、おれはハッとした。振り返ると例のカレンダーをコズエが破くところだった。

「1月5日までいっぺんに……えいっ!」

 びりびりーーッという音。待って! と止めようにも手遅れだ。

 コズエは背筋をピンと伸ばしたかと思うと、後ろ向きに倒れた。なんとか受け止めた。しかしコズエは虚ろな目をしていた。

「あれ……? なにこれ……ウチ、死んだ、殺された……、あの男に」うわ言のように呟いている。

 カレンダーをさっさと捨てなかったことを後悔した。他人の記憶も見られるなんて考えもしなかった。また使えるかもと思って壁に残していたのが間違いだ。

「コズエ、それはおれの記憶なんだ! ごめんな、嫌な物見せて!」

「違う。今のはウチの記憶だ…………」

「何言って————」

「思い出した、思い出した! クソッ! クソ上司が!」

 コズエはリビングの方へ駆けていった。母の短い悲鳴がきこえた。

 急いでリビングへ向かう。真っ先に目に入ったのは台所でペティナイフを顔の前で握りしめるコズエの姿だった。

 部屋の隅にいった両親やおれが言葉にならない声を上げる。かろうじて、「どうして」の4文字がおれの口から這い出た。

「ウチ……、ぼ、ぼぼぼ、僕はァ、お前のせいで死んだんだッ!」

 ナイフの切っ先が向けられているのは父だった。

「だから……だから殺す。殺さないと……仕返しだ! みんな殺してやる!」

 理解が追いつかない。ただコズエがいっぺんにあのカレンダーを破いたことによって、記憶が混濁していることは想像ができた。

「コズエ! 違うんだ! 今の自分を思い出して! 上手く説明はできないけど落ち着くんだ! そんなことする必要ないんだよ!」

「鶴士ぃぃい!」

 コズエの大音声が響く。

「お前、知ってたんだなー……? この男が僕を追い詰めたって……」

「何を言ってるんだ……?」

 どうなってるんだ……。こんな、こんなことになるなんて。

 黒ちゃんの言葉をふと思い出す。

 ちゃんと毎日自分でめくってくださいね————。

 妙なアイテムをさっさと処分しなかったことが本当に悔やまれる。ツメが甘い。ツメが甘くない前世だったなら……、バカだな、生きてるのは自分なのに。

「コズエ、やめろ。なんでだ」

「なんで? 鶴士、オマエは、死んだことが、殺されたことがないからそんなこと言えるんだ!」

 部屋が震えた気がした。

 コズエの喉から信じられないほどの大きな音が響いた。コズエが突進していった相手はおれの父だった。

 なんで?

 考えてる場合じゃない。おれは咄嗟に動いた。父と、コズエを助けなきゃならない。飛び込んで、それからどうなったのだろう。おれは床に倒れているらしい。天井が見える。両親の顔が並ぶ。2人にはピントが合わない。なぜか天井を歩く小さな蜘蛛、その細かい構造が隅々まで見てとれた。







 走っていた。

 公園とは反対側の住宅街をぐちゃぐちゃに、あてもなく走っていた。

 脚が動かなくなって、たどり着いたのは誰もいない児童公園だった。住宅街の中に不意に現れた公園。木々があって、ブランコなどの遊具がある。ウチは4、5段の石段に倒れ込んでしまった。息が苦しい。ふと、自分の手のひらに血がべったりとついているのに気がついて、余計に呼吸が乱れた。

 なんてことをしちゃったんだ!

 あのカレンダーをめくって破いた途端、夥しい量の映像が頭に流れ込んできた。

 辛く苦しい毎日。どれだけ頑張ったって、上司に成果を横取りされる。酷いパワハラだった。どうしようもなかった。辛すぎて、恋人の声も耳に届かなくなった。そしてひとりきりになった。誰も助けてくれなかった。想像も絶する悪夢に毎晩襲われた。自分が悪魔になってしまうような感覚に包まれて、耐えられなくなって、それから、暑い夏の最中、僕は電車に。

「うッ ううぅ……!」

 息が止まるほどの嗚咽。地面にしがみついて泣いた。

 鶴士と幸せになれると思っていた。鶴士の両親もとてもいい人たちだった。ウチを「出来損ない」と殴って、蹴って、罵って、笑った親とは違う。温かい家族の絆があった。そこに、仲間に入れてもらえると思った。それなのに……、

 クソ上司が!

 よりにもよって僕を死に追いやったあのパワハラ上司が鶴士の父親だったなんて!

 カレンダーから押し寄せた映像とは似ても似つかない温和な人だった。まるで別人だ。僕を虐げて幸せになりやがって。

 そして鶴士が、愛した人がそんな男の息子だったなんて!

 もう何もかもがめちゃくちゃだ。リアルな映画を観るのとはわけが違う。追体験なんかじゃない。ウチはあの映像を見て、「思い出した」んだ。かつての苦しみ、憎しみ、悔しさ、悲しさ、諦め。

 もうどうしようもならない。

 死にたい。

 死ななきゃ。

 死ぬんだ。

 妙な行動力が湧いて、ウチは顔を上げた。ブランコがあった。そこに誰かが座っている。安っぽいスーツに、大きなビジネスリュック、そして漫画風の笑い口が描かれたマスク。そんな男が手をカラダの前に出して、ゆっくり、手招いた。

 おいで、おいで、おいで、おいで————。

 ああ、アイツは死神なんだ。それか悪魔。どっちでもいい。とにかくあの魔性の男は、ウチを呼んでいる。こっちへ来い、来い。

 ウチは這ってブランコの方へ向かった。爪の間にも、口にも、砂が入る。男の顔が見えてきた。新社会人みたいに若い男だ。一丁前に悲しい顔をしやがって。

 公園の入り口の方でなにか聞こえた。底をつきかけた体力を惜しみながら、顔を向ける。

 もし、鶴士だったならと思った。

 でも、違った。

 女だった。

 なんとなく、見覚えがある気がする。その人はウチに駆け寄ってきた。

「あなた、大丈夫?」

 血をつけて倒れている人にかけるにしては、やけに落ち着いた声だった。慣れているとさえ言ってもよかった。彼女はウチのカラダを確かめ、額を撫でて、「ケガはしてないようね」と微笑んだ。丁寧に、顔についた砂や小石を払い除ける。涼やかな声で一言。

「じゃあココロの方だ」

 あまりに優しい声に涙がこぼれた。たった2、3滴の涙。カラダをジューサーで絞って、ようやく出たような涙だった。

「いったいどうしたの?」

 彼女は問いつつも、一切先を急ぐような素振り見せず、ウチの髪を撫でてくれた。爽やかな泉に沈んでいく心地だった。ぽこっ、ぽこっ……、あぶくが口からこぼれる。

「こわいくらい強い憎しみや、悲しみにおぼれて、愛する人を傷つけてしまったんです」

「あら。それは辛いわねぇ」

 その女性は底知れず優しかった。

「とんでもないことをしてしまったんです」

 絞り出したはずの涙だった。それなのにあれから鶴士たちがどうなったのかを想像すると、再び涙があふれてきた。

「その人は、生きてるの?」

 愛撫をやめて、彼女はきいた。ウチは首を振った。

「分かりません。ぜんぶ、過去みたいに、遠くなっちゃって」

「そうなの」女性はふと遠い目をした。「大丈夫よ、きっと。2人なら」

 どうして、とはきけなかった。

 知らない男の声がした。

「由美子さん」

 顔を向けると、先程ブランコに乗っていた男がそばに立っていた。

「時間切れです。これ以上もちません。行きましょう」

「はい…………」

 女性の顔が影に塗りつぶされて見えなくなった。

「生きてるなら、大丈夫よ」

 まばたきした次の瞬間には、誰もいなくなっていた。

 由美子? 

 由美子って、僕が愛した人だ。

「コズエぇーーーーッ!」

 耳に届いた声に半身が弾けるように起き上がった。

 公園の入り口に目をやると鶴士が立っていた。ウチを見つけて駆け寄ってくる。

「こんなとこにいたのかよ」

 鶴士に肩を抱かれる。後悔でいっぱいだったのに、それがどれほどまで嬉しいことか、到底言葉にできたものじゃない。

「鶴士、ごめんね。ウチ、とんでもないことしちゃった。鶴士も知ってるんでしょ? あのカレンダーで見たんでしょ?」

「見たよ。それから気づいた。コズエ、あのカレンダーを壁にかけた時、表紙を破いたんだろ?」

「うん」

 そうだったのか、鶴士は漏らした。

 何かの間違いだと思っていた。

「ウチがいけなかったんだ」

「いけなくないよ。そうか、そうだったのか……。おれが見てたのはコズエの前世だったんだな……。親父もな、カレンダーについては信じてなさそうだったけど、でも、前世の記憶のこと話したら、謝ってたよ。もちろん謝って済むことじゃないけどさ」

 鶴士は何度も謝った。2人の謝罪が重なる。

「ごめんね。ウチ、悪い子だから、本当は仕事だってうまくいってないし、鶴士のお父さんたちにも酷いことしちゃった」

 ぜんぶ、結局ウチが悪いんだ。

「きっと前世で自分を殺したから、今のウチはこんなに出来が悪いんだよね。お父さんやお母さんにも虐められたんだよね。ウチ、前世でも使えない人間で、あんなにやられて、みっともなかった」

「そんなことあるかよ。コズエがたくさん頑張ったから、コズエがいたから、使えないおれが一人前に働けたんだよ」

 鶴士は頭を掻いた。手に布を巻いていた。

「ねぇ、ウチ、鶴士を傷つけたの?」

 胸をかき乱される気持ちだった。自分についているのは、鶴士の血だったんだ。

 鶴士はどうしてか申し訳なさそうに笑った。

「痛かったよ。でももういい。そんな過去、破って捨ててきたよ」

「そんなことできるかな?」

「うん。過去は無くならないけどね。でもおれ、前のコズエが死んだから、今のコズエに会えたんだなって思うと、不謹慎だけど嬉しいんだよな。たしかにあの記憶は辛い。でもおれ、今のコズエが好きだから」

 今の、コズエ、が————。

「両親はなんとかおれから話すよ。だいぶ混乱してたけどな、でも2人なら大丈夫だと思う。親父は、どうにかして罪を償わなきゃならない」

「罪を、償う」

「うん。だから、だからだなんて簡単に言えないけどさ、コズエもさ、自分の昔のことを忘れてよ。おれ、忘れるくらい楽しくさせるつもりなんだ」

「でも、忘れることなんてできない」

 即座に口をついた。

 過去は消えない。

「だよな……」

 鶴士はうなだれた。

「でも」

 ウチは鶴士を正面に見据えた。

「過去なんて、ウチも破って捨てられるように頑張る」

 幸せな未来の想像に溺れよう。

 この人となら、今の自分も信じられる。






『過去をめくって』 おしまい

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