6、身を寄せ合って
◆身を寄せ合って
白状すると、カレンダーをめくるのは今日限りでいっかなと考えていた。
仕事はもうだいたいできる。覚えることはまだたくさんあるが今のおれならなんとかなるはずだ。
前世のおれが苦しんだことは無駄じゃない。そこに感謝の意をこめながら、17日をめくってやぶいた。
カラダは冷え切っていた。それが柔らかいモノと衝突するたびに熱を帯びていく。暗い室内、手さぐりでたしかめている。目が慣れるにつれて浮かびあがる輪郭は、若くて、しなやかな女のカラダだった。唇がふさがれ、息が止まって、これが今際の際なのではと疑った————。
朝からおかしな気分にさせてくれる記憶だった。
18日の運勢は吉だった。悪くない。
日雇いの予定は完全になくなったので、それからはかり〜〜で働く日々続いた。
ある時、休憩時間中にスマホを見ると、母親からLIMEが来ていた。
今年の正月は帰ってくるのかどうかという内容だった。
実家は鎌倉の方だ。その気になれば日帰りもできるが、年を重ねると帰る回数も減ってきた。帰れば笑い合って、楽しい時間を過ごせるのだけど、そのうちすぐ息苦しくなる。悪気はないにしても、「嫁や孫はまだか?」ときかれるのが苦痛だ。こっちだってそうしたいのはやまやまなんだから。
いくらか日にちが経った。
もうすぐクリスマスを迎える。
大変な日々だったけど、コズエのことを思うと乗り越えられた。
しかしトラブルは突然に起きた。
ある晩、久しぶりにコズエと、そういう感じになった。
布団の中で温め合うようにカラダを重ねていた。心が穏やかになっていく。日々の疲れが癒されていくにつれて、抗い難い眠気に包まれていく。おれだけでなくコズエもそうらしかった。
ああ、眠ってしまう…………。
既にコズエは眠っていた。かわいい顔だ。
愛しくて、呟いた。
「由美子」
時が止まった気がした。
知らない人の名がおれの口からこぼれたのだ。
寝ていたはずのコズエがぱっちりとまぶたを開けた。
「誰?」
知らない。全く知らない名前だ。そんな知り合いいない。
「誰のことなのよッ!」
鋭いアッパーをモロに食らった。舌を軽く噛んだ。間髪入れずに顔面に硬いものが当たった。鼻血が出たのが分かった。鼻を押さえて半身を起こす。「鶴士ぃぃ」コズエがドライヤーを振り上げた。おれの股間を見据えている。
「待て待て待て待て!」
「死ね!」
バキッと音がした。ドライヤーの持ち手が折れたらしい。すんでのところで避けたおれは部屋の隅へ。立ち上がったコズエは見上げるほど大きく思えた。露わになった全身、汗腺全てから凄まじい殺気が溢れ出て、まるで人を何人も食った鬼だった。おれはカラダを鼻血で染めながら平伏した。
「ホントに知らない人なんだよ、浮気なんてするわけないし、何かの間違いだよ!」
おれは一貫してそう主張し続けた。コズエは泣き続け、裸のまま怒り続けた。
長い夜だった。
朝になって、生きているのが不思議なくらいだった。
コズエはたくさん物を壊して、最後にティッシュペーパーの箱を投げつけると、布団にくるまってしまった。いつまでも嗚咽がきこえてきた。窓の向こうで新聞配達のバイクの音が聞こえた頃に泣き声はようやく止んだ。
ティッシュペーパーを投げつけた意味が、「血を拭け」という意味だとせめて思いたかった。
由美子、思い当たるのは前世の記憶だ。きっと強く愛し合っていた人なんだろう。名前をこぼしちゃうほど。
でもおれとその人は関係ない。ただの間違いだって、コズエは信じてくれただろうか。カレンダーをめくると前世を思い出すなんて信じてくれるだろうか。
結局あれからコズエとまともな会話がないままクリスマスを迎えてしまった。
かり〜〜で働いていた。
なぜクリスマスに沖縄系居酒屋に来るんだ! と逆ギレしたくなるほど繁盛した。崎野さんとおれの2人だったが正直手が回らなかった。崎野さんがダメ元で田中さんに連絡すると、なんと20分で駆けつけてくれた。どれだけフットワークが軽い子なんだろう。
怒涛の数時間が終わった。
「なんかこのお店すごく安心するわ〜」
閉め作業中、田中さんがオツカレ泡盛を飲みながらしみじみと口にした。
「その安心に浸かりすぎてると、すぐクリスマスは終わって、そして三十路」
どうせ上手く言えないからわざわざ口にはしないが、女性の旬は若さだけに左右されるはずがない。クリスマスケーキの価値が26日からガクッと下がることから、そんな例えをされているけれど、それはおかしい。現にこないだの修羅場……鬼の形相だった29歳のコズエを思い返してもやっぱり美しいと思う。もちろん好意のフィルターがあるにしろ、旬の頂点がクリスマスの25歳だなんて失礼だ。クリスマスケーキは26日に食べたって甘くて美味しい。きっとコズエはずっと綺麗だ。
「そうだ! ところで今日はつるちゃんにプレゼントがあるんだよ」
崎野さんが手を叩いた。なになになにくれんの? と何故か田中さんがうかれる。
「お前じゃないっての。つるちゃん、なんと本社から社員昇格の許可がおりましたー!」
「イェーイ!」
はしゃぐ女性陣。当事者のおれが間抜けにぽかんとしてしまった。
「え? ほんとですか?」
「ほんとほんと。仕事覚えちゃったなら社員にしちゃえ、と人事部がおっしゃっておりました。まぁ飲食が不況の中でのオファーですがね。暇もなく、大してお金ももらえませんが、つるちゃん、どうする?」
カレンダーのおかげでいずれは社員になれると打算していたが、こうも早くに昇格のチャンスが来るとは思ってもみなかった。人事部の思惑としては、不況の飲食から逃げた頭数を補充したいという狙いなんだろうけど、おれには関係ない。やる。やるしかない。
「ありがとうございます! すぐにお願いします!」
「よっしゃ! じゃあ上に連絡しちゃうからね?」
「はい!」
最高のクリスマスプレゼントだった。
「ならほら、この後飲み決定で」田中さんの作業速度が猛烈にアップ。
「つるちゃん、早く帰った方がいいんじゃない?」
「まぁ、なるべく……」
コズエは終電近いだろう。去年はそうだった。タクシーを使うこともあるくらいだ。だけど今日はせめて顔ぐらい合わせたい。
「何言ってんだよ、先輩命令だよ!」田中さんがおれを上から下まで睨みつけ、わざと舌ったらずな感じで喋る。「先輩が血の色は青つったら青なんだよ。飲むつったら飲むんだよ」
「じゃあ……一杯だけで」
「なら、場所もここにしましょう。お店入ると長尻据えちゃうから」
「もう今夜のウチはハリケーンだからね」大荒れの予感。
正社員になるということをコズエに一刻も早く伝えたくて、折を見てLIMEしようとして、やめた。会って直接言いたい。
場の勢い、流れに流されて、おれはかり〜〜に残った。クリスマスっぽくない泡盛のソーダ割りを作って、店内で乾杯した。
「メリークリスマース!」
声高らか。多少の後ろめたさはあれど、先程のプレゼントや、接しやすい人たちとの時間に、気持ちは高揚していた。
今が11時過ぎ。終電は0時27分だ。1時間ぐらいなら飲めるだろう。ウーパーイーツでチキンが届けられた。崎野さんがいつの間にか頼んでいたようだ。ささやかながら、クリスマスパーティーを楽しんだ。
終電の時間を見計らっておれたちは店を出た。ハリケーン宣言をした田中さんは、桑原さんや他の友達と合流すると言い、「オツです!」とコンビニにふらふらと吸い込まれていった。ウコンを買うためだ。
崎野さんとおれは井の頭線に乗るべく駅まで走った。
「桑原さん、クリスマスデートの後に友達と飲むんですね」
「去年もそうだったんだよね。デート中にケンカしたとかで。浮かれ過ぎちゃう子でね……」
「はぁ……」
改札を抜け、ホームへと上るエスカレーターで息を整えながら話した。上で電車がやってくる音がするが、それはどうやら渋谷行きだ。吉祥寺行きの終電には間に合ったようだ。
少し待って、終電がやってきた。
「あっ」
自分の乗車位置を通り過ぎた車内に、コズエを見かけた気がした。
「どした?」
「いや、なんでもないです」
吉祥寺で電車を降りると崎野さんは、「ハモニカで飲んで帰るわ。おやすみ」と去っていってしまった。ハモニカ横丁、飲兵衛の巣窟。
おれは井の頭公園の方へと早足。公園の入り口あたりで、コズエに追いついた。
「お疲れさま」
コズエはおれをちらりと見て、「うん」と言った。
横並びになって歩いていく。お互いコートのポケットに手を突っ込んで身を縮める。
公園の中は静かだった。池の面が風に音もなく波を立てる。スワンボートたちが震えている。身を寄せ合っているようで実に寒そうだ。また風が吹いて、コズエのマフラーが少し揺れる。
「ウチさ」コズエが口を開いた。「最近、鶴士と話せないのが辛くって。そりゃウチがあんなに暴れたら喋りにくいだろうけどさ」
「いや、おれも変なこと言っちゃって。驚かせてごめんな。でも本当に、ただの間違いなんだよ、あれは」
「分かってる」コズエはマフラーに顔をうずめる。「信じてるし」
歩調が早まった。
「マジ寒いから早く帰ろう」
「コズエ、信じてくれてありがとう。そうだ、ちょっと報告があるんだけど」
おれは正社員になれることを話した。
「なるの?」とコズエは確認してきた。
「なる」と答える。
「よかった。おめでとう、鶴士!」
久しぶりに目にしたコズエの笑顔に胸が温まる。
「喜んでもらえてよかった」
「当たり前じゃん」そのセリフの最後の方は高く裏返った。グスッと鼻をすするコズエ。「ウチ……また捨てられちゃうかなって、1人になっちゃうのかなって……思ったら、ツラくて、コワくて……」
泣きだすコズエを温めるように肩を抱いた。
「おれは捨てないよ。待たせてごめんな」
コズエが過去を思い出さないくらい楽しく過ごせていけたらいい。虐げたり、蔑ろにしてきた奴らのことなんか忘れてしまうぐらいに。
「ウチ、ケーキ食べたい」
「うん。クリスマスだしね」
「肉まんも」
「うん。クリスマスだしね」
「えへ、なにそれ」
井の頭公園駅前のコンビニで買い物をする。
こないだ黒ちゃんと飲んだ店のそばだ。居酒屋を中を覗くと、まさに黒ちゃんが奥のカウンターに一人で座っていた。もしかしておれを待っているのだろうか。大きなビジネスリュックを前抱きにして、泡の消えたビールをジッと眺めている。
ごめん、今日は帰らせてもらうよ————。
心の中で謝った。
どうしても今夜だけは他のことは考えたくなかった。
コズエと過ごしたかった。
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