5、なんくるないさ
◆なんくるないさ
日雇いの仕事で生活リズムが崩れがちだけど、早起きは得意な方だった。朝日と共に目が覚めるタイプの人間だ。
コズエも10時前には渋谷の店に行かなきゃならないが、それより早くおれは起きて、カレンダーをめくってやぶいた。
昨日の経験があったから、やぶいた瞬間に電車に轢かれるのではと危惧していたが、思い出したシーンは全く別モノだった。
じっとりと脇に汗をかいて、そのくせ口内はねばねばと乾燥していた。ここはどこかのオフィスらしい。おれ……前世の人間はかなり緊張していた。ずっと背中に強い視線を感じる。まるで服の上から刃物の切っ先を当てられているようだ。身動きできない。呼吸も浅い。眠れていないのか、頭がぼーっとしている。意を決して立ち上がった。向かったのはトイレだ。個室に入るつもりが足がもつれる。立ち小便の便器に吐いた。すぐ後で誰か入ってくる。顔は見えない。見てない。誰か分かってるんだ。鋭い視線の主だ。突き飛ばされて便器の脇に倒れた。男は吐瀉物のたまった便器で用を足した。飛び散ったものが、顔にかかる。
なんてムナクソでサイアクな記憶だ…………。
人の小便が顔にハネた感覚がなかなか消えなかった。
本腰入れて、居酒屋かり〜〜で働くつもりだったが、他に数回は日雇いの予定が入っていた。
電車で埼玉近くまで行って弁当のおかず詰めをしたり、印刷所で轟音の中で封筒の印字をたしかめたり、鼻毛もつららになる冷凍の倉庫の整理をしたり。かり〜〜をちょいちょい挟みながらも色々なことをした。なんと一度もドヤされなかった。それどころか他のバイトの人たちに助力できるほどだった。
すごい。
経験値2倍ってのがこんなに有益なことだとは……。
カレンダーをやぶくごとによみがえる記憶は辛いモノばかりで、前世の追体験はえぐいものだったが、それに付随する潜在的な経験は本当にありがたかった。これで前世人の普段の鬱な気分が移るなら困りものだがそういったことは今のところない。追体験さえ済めば、余韻があるにしろそれで苦痛はおしまい。
1週間めくって12月16日。
前世人の予想のプロフィールはこうだ。2人兄弟の長男。家族仲は悪くない。学校では決して目立つ方ではなかった。付き合った女性は分かるだけで2人。西東京で一人暮らし。飲食のバイト経験アリ。仕事は営業系らしい。職場の上司のとてつもないパワハラで悩んでいる…………くらいだ。細々した幼少時の思い出が幸せなものばかりで、仕事の記憶との温度差がツラ過ぎる。
「なんくるないさー」
朝、部屋で身支度をしながら呟いていた。かり〜〜の崎野さんがよく口にする言葉だ。自分のミスでは言わないが、バイトの子がウッカリしでかすと、のんびりした口調で口にするのだ。
なんくるないさぁ〜。
なんとかなるさ、という意味で広く日本で知られている沖縄方言だ。
口癖が知らない間に移ってしまったらしい。今かり〜〜の仕事では、キッチンの勝手を教わっている。肩がたまにぶつかる狭いキッチンで崎野さんが「なんくるないさ」を繰り出すのを何度も耳にしている。彼女は深く息を吸ってそのセリフを言う。たぶん、その深呼吸で自分でも気持ちを整えているんだろう。相手もケアして、自分もイライラしないように。
いい言葉だ。
「なにが?」コズエだった。「なんくるないさって」
「え?」
コズエはベッドの上で半身を起こして寝ぼけ眼をこすっている。おれはテキトーなことを言った。
「いや、スマホ充電し忘れたけどなんとかなるかなって」
「……ふうん」
低血圧で寝起きはすぐに活動できないコズエ。おれはなんだか可愛くてたまらなくなって、彼女のおでこに口づけした。
「なに」
彼女はおでこをこすったが、嫌そうじゃない。
「バカじゃないの?」
と言ってベッドから抜け出た。
荷物を背負い、玄関で靴を履いていると、寝巻きのままのコズエが駆けてきて、おれの頬にキスをした。
「鶴士、気をつけてね」
毎朝こうやって見送られるのが夢だ。
「寝起きなのにちゅらさんだなコズエは」
ふふっとコズエが小さくふきだす。
「だから、バカじゃないの?」
何と言われてもいい。コズエは美しい人だ。
昼間の日雇いバイトを終えて、下北沢のかり〜〜へと向かった。
料理などはできたとしても、店の仕込みの量とかは教わらないと分からない。早く仕事を覚えて一人前になりたい。そしたら崎野さんにも暇ができる。キッチンを回せる社員が増えたら、バイトがいるからには必然的におれと崎野さんが顔を合わせるタイミングがなくなる。おれが入ることで、もしバイトの子達のシフトが減ってしまったら申し訳ないな。
さっきまで日があったのに、ふと見遣ると真っ暗な窓。
食材の仕込みをしながら、崎野さんと2人きり。
てっきり崎野さんは沖縄のうみんちゅかと思ってたけど、違った。
彼女はハーフだそうだ。ギャンブラーの父と絶世の美しさのフィリピアーナとの間に生まれた。お母さんは「親が不治の病だ」と言ってありったけのお金を持って消えてしまったらしい。「実は沖縄とは一切縁がないの」と魚をさばきながら、囁くように教えてくれた。
つつがなく仕事が終わり、田中さんを含めた3人で閉店作業をしながら安泡盛を飲んでいた。
「お二人さんはクリスマスは仕事ですかー?」
田中さんが掃き掃除しながらきいた。さっきコッソリ泡盛を継ぎ足したのをおれは見逃さなかった。
「仕事だよ」
「仕事だね」
おれと崎野さんが同時に答える。田中さんはケラケラ笑う。
「じゃあ2人でホワイトクリスマスじゃないすかー!」
崎野さんが冗談混じりに声を荒らげる。
「じゃあじゃあテメーはなんだってんだい!」
「あ、あたしはほら、スケジュール帳的にホワイトクリスマスなんで……」
「じゃあ仕事入れや!」
「いや……まだ希望は捨てません……」
希望か。学生の彼女か言うととても明るい言葉にきこえる。
田中さんが退勤した後、崎野さんはおれのグラスに泡盛を足した。
「いいんですか?」ときくと、
「いいんだよ。じゃなきゃ雇われ店長なんてやってらんねえよ」
飲酒しながらおれは社員としての仕事を教わった。これもなんとなく理解できた。
「この調子なら即社員じゃん。まじ店長立つ瀬ねえぜ。威張れねーぜ」
社員になる流れになっている。状況から言って本当に即なりそうな勢いだ。
「シフトは2週間のスパンで出すことになってるの。今日で年末まで出す流れなんだけど、予定ある? クリスマスは?」
崎野さんはノートPCを見ながらきいた。当然彼女は入っているんだろうな。
「予定ないですよ。フルで入れちゃったください」
「オッケー、なんくるないさー」
カチカチ、とマウスをいじる音。
コズエのことを思い出す。こうやって不本意ながら働いてるんだよな。イベントの日も、休日も、祝日も、風邪をひいてる日も。
崎野さんより先に退勤した。
井の頭線線、井の頭公園駅で下車。
コズエはもう帰っているらしい。LIMEで連絡が来ていた。わざわざ連絡をくれる時は機嫌が悪くない時だ。帰って今日あったことなどを話したい。ききたい。顔が見たい。けれどなぜかおれの足取りは重かった。
「ずいぶんお疲れのようですね」
少し丸めたおれの背に声がかけられた。懐かしさすら感じる、黒ちゃんの声だった。
「お疲れ様です! どうですか、その後は」
おれは力なく笑って見せた。それでようやく、自分が思った以上に疲れていることを知った。井の頭公園駅は住宅街にある駅だが、そんな中でも一件ぽつんと居酒屋がある。目の前だ。おれはそこをアゴでしゃくった。
「飲んでくか」
ニコー……っと笑ったように、マスク越しなのに思えた。
飲み屋に入る。外観からは立ち飲み屋のようだったが、中に入ると席はちゃんとあった。コの字形のカウンター席に2人並んで座る。席の下には荷物置きのカゴなどがなかった。黒ちゃんはリュックを床に置くのが嫌なのか、邪魔に違いないのにカラダの前に抱いた。
「なんでしたか? 前世の方は」
その質問だけでおれは笑いがこぼれた。笑い続ける。厨房からビールが目の前に差し出されてようやく終わった。
「人だったよ。よし、じゃあカリー!」
「あっ、カレー……?」
ジョッキを合わせて、口を泡まみれにしてビールを呷った。
「ぷはぁッ! やっぱビールだよな」
「そうですね! でも人だったならよかったじゃないですか。いいなぁ、虫なんて食べてないんでしょう?」
「ああ、でもその代わりこないだは書類を口につっこまれたよ。人間シュレッダーだ! って言われてね」
「えー、なんですかそれ……。ヤギじゃないですか」
もつ煮が2人分、きた。夜も更けて、最強に美味そうな匂いがする。「パワハラだよパワハラ」おれはわざと冷まさずにモツを口に運んだ。アツい。幸せだ。ビールで流し込む。
「つまりおれの前世はさ、やばいパワハラで死んだヤツだったんだよ。電車に飛び込んで自殺だぞ。ホントにこわかったよ」
「考えたくもありませんね〜〜。生きてるのに死ぬことを追体験ですか。ところでボク、タズさんに忠告するの忘れてました」
「忠告?」
「はい。あのカレンダーですが、ちゃんと毎日自分でめくってくださいね。めくらないならいっそ捨ててください。まぁせっかく占い機能もおまけで実装したのにもったいないことですが」
「わかったよ」軽く返したが、黒ちゃんは真剣だった。
「たのみましたよ? さもないとタズさんの運命を守れなくなります」
おれは線路に立ち尽くして電車を待っているシーンを思い出す。蝉の声みたいな耳鳴りがした。
「わかったって。ところで黒ちゃんの方はどうだい?」
彼はフッと緊張を解いた。
「大変ですよ……。どうやったらお客様が幸せになってくれるか分からなくて。タズさん、大変な前世を引き当てたようですが私生活はどうですか?」
黒ちゃんはもつ煮をはやくも平らげた。なんか食えば? とおれはメニューを差し出す。
「おれの方はさ、びっくりするぐらい順調だよ。仕事がホントにラクなんだよな。カンタンなんだよ。で…………なろうと思えばだけど、このまま今んとこで社員になれそうだよ。アザス」
軽いノリでジョッキをかかげてみせたけど、黒ちゃんは厨房内のマスターに声をかけるところだった。乾杯空振り。
「ハツと砂肝とレバーを」
マイペースなやつだ。彼は卓上にある塩を手の甲に少し振りかけて、それをチョロっと舐めた。アル中の人がそういうことをすると聞いたことがある。塩をツマミにって……。
「なんか言ってました?」
「あ……いや、おれ社員になれそうなんだよなって」
「えっ!? ホントですか?! それはよかったですね。彼女さんもさぞ喜んだんじゃないですか?」
「いや、それが、まだ言ってないんだよな」
「えーー! なんでですか?」
あの店を最終決定にしたくない。まだ話せない。
「ちょっとサプライズがしたくてさ」
「へーー、意外とめんどくさいんですねタズさんって」
相変わらずすごいセリフを言うやつだ。下手にしたら喧嘩に発展してもおかしくない言い草だが、まぁもう慣れた。彼の良さだ。
飲み屋で黒ちゃんとは別れた。会計の際彼は難しい顔をして、「えっと、つまり1人1526円ですね」と一の位まで算出した。千円でいいよ、と気取らず言ったら、信じられないくらい喜んでくれて、なんだかこちらまで元気が出た。
静かな住宅街を歩いて、アパートを目指す。ちょっと前まで帰るのが億劫だったのに、今ではコズエの顔が見たくてしょうがない。
「ただいまー」
扉を開けると、リビングのメインの明かりは消えていた。どうやらコズエは先に寝たらしい。キッチンの明かりだけついていた。かすかに芳しい匂いがする。コンロの上のフライパンを見ると、すき焼き風の煮物があった。メモ書きが貼り付けてある。
『オイ知ってるか? 動物の脂は30度くらいで白くかたまっちまうんだよ。冷めちまったよ、遅かったな! おつかれさま!』
料理はたしかに、ところどころ白く固まった脂を浮かせていた。見るからに冷たそうだった。黒ちゃんと飲むのは楽しかったけど、真っ直ぐ帰るべきだったな。
音を立てぬように寝室を覗いた。コズエが眠っている。広くないベッドの半分を空けてくれている。
「ありがとね」
そう囁いた。コズエは起きない。
数年前、あの寝顔を初めて見た時、おれは肩をたたいて起こしてしまったっけ。
友人と沖縄旅行に行った帰りだった。慣れない飛行機内で緊張して何度もトイレに行った。何度目かの席に戻る際に、見知った顔を見つけた。ちょっと前に辞めた職場にいたコズエが、腕を組んで眠っていた。すごい偶然だ。何度か2人で飲みに行ったりしたが、下らない言い争いをして、それきりだった。その時の争いなんて忘れて、おれはコズエを起こした。
「どこ行ってたんだ?」離着陸の場所が決まっている飛行機で言うセリフじゃない。「あ、沖縄か」
コズエは悲しい顔で目を覚まして、おれの顔を見て、そんなくだらない質問をされて、ようやく少しだけ笑った。
「バカじゃないの?」
なんとかなるさのなんくるないさには補足しなくちゃならないことがある。
まくとぅそーけーなんくるないさ。
本来はそういう定型句があるらしい。意味は、正しい行ないを続けていればなんとかなるさ、ということだ。
時間がないからなんだ。
飲食同士だって幸せになれるはずだ。
一生懸命に働いて、まずは社員になろう。そこからだ。死に別れるわけじゃないんだから。
おれは歯を磨いて、寝巻きに着替えて布団に潜り込んだ。明日の午前はフリーだ。コズエは早いらしい。共有できるスケジュールのアプリに書いてあった。コズエが寝坊しないように、おれも早めに起きよう。
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