過去をめくって
1、使えないやつ
——————『過去をめくって』
『誰も彼もアナタもワタシも
隠れて流すココロのナミダ
そっとお拭きいたします
みんなに幸せ行き渡るまで
この世の暗闇から手招きを』
今回のお客様:役田鶴士(ヤクタ タズシ)29歳。
◆使えないやつ
おれはビールジョッキを片手に二つ持って、狭く騒がしい店内をうろついていた。
ディテールのぼやけた喧騒の中で、記憶をたどっていく。たしかにあの席の四人組の内2人がビールを頼んだはずだった。しかしいざ持っていくと「たのんでないっスけど」と返されてしまった。キッチン側の提供台からビールジョッキを持った時、伝票だってたしかにこの席の物だったのだが……。
店内中央で4人テーブルをいくつかくっつけた、見るからに忘年会勢の、恐らく幹事だろうスーツの男が、「あれ? それウチのですか?」とおれに声をかけてきた。このテーブルは飲み放題のコースだ。宴もたけなわで大いに盛り上がっている。2人ぐらいビールを頼んでる人もいるんじゃないか?
「はいビールきたよー。だれー?」
幹事らしき彼が声を張り上げる。リーダー質の、よく通る男の声だった。さっきまで騒いでいた若手たちが意外なほど真面目な顔で振り返る。
「ビール? いや、たのんでないよな?」と仲間にきく。
誰かたのんだ? という疑問と質問が全体に伝播していく。しかし誰もビールを受け取ろうとする者はなかった。
「お兄さん、それウチのじゃないみたいですよ?」
幹事らしき彼がにっこり笑った。
すいません、すいません、と謝ると、彼は「お兄さんは——」とおれの名札を見て「役田くんは何年生?」ときいてきた。おれはためらいつつも答える。
「いやなんというか……29年生です」
この質問は大嫌いだった。マスクのせいで人相が掴めないせいで、ポンコツばかりやっているとしばしば学生バイトだと勘違いされることがある。だから向こうの予想のはるか上の年齢を口にすると、
「あーーーー」
と、なんとも微妙な回答である。ここを笑いに転換できるスキルがあったならおれの人生も違ったはずだ。だけどおれは気の利いたことを言えるタイプじゃない。
気持ちは手にしているビールの泡のようだった。誰にも飲んでもらえずに減ってしまった泡。ジョッキは誰も口をつけていないのに、人が口をつけた物感……が滲み出ていた。
後になって社員さんにしこたま…………怒られたという事もなく、後片付けの最中にただひたすらネチネチと嫌味を言われた。
「もし僕だったらとても働けないですけどね」
ミスばかりのオレより、彼は2、3コ歳下だった。
今日はど平日の夜だったから人員が減らされていた。ウイルスのせいで入店客の予測がつきにくいというのもある。今夜はキッチンとホールにそれぞれベテランがいたが、おれの戦力が1にも満たないならまだしも、0以下のマイナスになるだなんて、おれも含めて誰も思っていなかった。
「飲食経験豊富です!」
と面接ではアピールした。したけど、それはあくまで採用されたいがための方便だ。たくさんの飲食店を経験してきた。嘘ではないのだが、どの店も長くて3ヶ月ほどで辞めている。クビだ! と罵られたことはないとはいえ、おれに嫌味を言ってきた彼らのオブラートを取り除けば、「使えないお前」というセリフが共通して向けられてきた。
また次にいくかぁ……、おれってなんでこんなに仕事できないんだろうなぁ————。
退勤した職場から、酒と飯と煙草臭い服のまま駅へ歩いていく。嫌な匂いだが、年末でこうも寒いと嫌でも襟に顔を埋めてしまう。
ココ、京王井の頭線の永福町駅から、住処の部屋がある井の頭公園駅までは電車に乗ればすぐなのに、おれは交通費をケチって歩くことにしていた。約200円を節約だ。交通費は職場に申請すればもらえる。そこをおれは「乗った」と言って、歩いて帰る。貧乏人の悲しい嘘だ。本来なら2時まで働いているはずだが、こんな世の中でそんなに遅くまでやってもしょうがないと、早めの閉店になっている。イコール、稼ぎが減る。
井の頭公園駅まで歩いてきた。
ここは歪な……くの字形をした井の頭公園の端っこだ。急行の止まらない静かな駅。ここから住宅街の方へ入れば、部屋まではすぐだ。それなのにおれは途中で足を止めた。
誰かが植え込みに顔を突っ込むようにしてうずくまっていた。安っぽいスーツに大きなビジネスリュック。新社会人かな。
こんな平日に吐くまで飲むかー……?
背中くらいさすろうとか、水を渡そうとかのお節介が頭をよぎるけど、こんなご時世に知らない人から触られたり物をもらったりするのも気持ち悪いか。だけど彼、近くに連れの姿も見当たらない。これから電車に乗って帰るのか? 駅は目と鼻の先だけど、この人そもそも駅までたどり着けるんだろうか?
お節介だと自覚しつつおれは自販機で暖かいお茶を買い、彼の隣にしゃがみこんだ。かなり飲んだらしい。植え込みの根本が汚く湿っている。地面に置かれた彼の手のひらを、蜘蛛が1匹、通過していった。
「あの、大丈夫ですか?」
「ええ………なんとか」
振り返った彼の顔にゾッとした。
異様に長い顔で、口が人喰いの魔物のように大きく裂けていたからだ。しかしそれはすぐに見間違いだと分かった。その口はマスクらしい。漫画風の笑い口が描かれたマスクで、それを顔の下にずらしていたんだ。暗いのも相まっておかしな見間違いをしてしまった。
ちゃんと観察すると彼はかなり若い。本当に新社会人かもしれないな。いいなー。おれよりも希望があって。おれよりも世の役に立つことをしているんだろうなぁ。
「コレ、あったかいお茶です。よかったら飲んでください」
「どうもスミマセン…………お優しい方ですね」
「お互いさまですよ」
彼はお茶を受け取るやいなや、むせながらも一気に飲み干してしまった。熱くないか……? 明日の朝シラフになって喉の火傷に苦しむパターンじゃないか?
「いやぁ! 地獄に仏とはこのことですね……だいぶラクになりました」
師走の寒さの中、コート無しなんだなこの人。小学生の時にもいたけど、年中通して半袖短パンと格好が変わらないわんぱく男子みたいだ。たしかに体育会系のようで、細身だがしっかりしたカラダ付きだけど。
「お茶の代金をお支払いします。ちょっと待ってくださいね……」
彼がスーツのポケットに手を入れる。おれは慌てて止めた。
「いやいや! いいんですよそんなの!」本当は小銭でももらいたい文無しだぜ。
「そうですか? じゃあお礼に一献さしあげます」
「大丈夫ですよ、ホント」タダ酒は大好きだぜ。
「一緒に飲みましょうよ」
「それじゃあまたあなたにお茶を買うことになります」エンドレスじゃないか。
「んー……そうですか。ではまたお会いすることがありましたら是非」
おれたちはそこで別れた。ちゃんと歩けてるだろうかと途中で振り返ると、彼は駅ではなく井の頭公園の薄闇へと消えていくところだった。
帰り着いた部屋の玄関の前で鍵を取り出そうとしていると、中から扉が開いた。
「おつかれー」
部屋着姿のコズエがスマホをいじりながら言った。
「ただいま」
と言葉を返す。部屋に入るとおれは無意識のうちに鼻をひくつかせた。食寝分離のとれた1LDKのリビングに美味しそうな匂いが満ちていたからだ。
「おっ」おれはリビングで立ち止まる。「なんかあるぞー」
コズエが夜食を作ってくれていた。居酒屋から着てきたコートに染み付いた雑多な料理の匂いとは違う、出来上がりの……食欲をそそるいい匂いだ。
コズエも立ち止まっていて、難しい顔でスマホをいじっている。仕事のことだと分かっていた。おれはコートを脱いだり、手を洗ったりと、ゆっくりコズエを待つ。彼女は「よしっ」とスマホをポケットにしまって満面の笑みで振り返った。
「今日の飯はスゲぇぞー」
そう言い意気揚々とコンロに乗っていたフライパンを火にかける。
「まーさん来てますか?」
「まーさん来てるねー。いっぺーも来てるねー。米よそって、あっためといて」
「わかった」とおれは言われた通りご飯をよそう。まーさんといっぺーの分も……とはならない。おれとコズエの2人分。
コズエと初めて2人で食事をした時、彼女が「まーさん」と唐突に言うので「誰?」と返した。彼女は笑って「いっぺー、まーさん」とゆっくり言った。おれは「だから誰と誰のこと?」ときいたっけ。
まーさんもいっぺーも沖縄の方言だと教えてくれた。まーさんは、おいしい。いっぺーは、とても。いっぺーまーさん……とセットで使って、とてもおいしい、という意味だと。
コズエと2人暮らしをしていると、いっぺーもまーさんも度々登場する。
食卓に料理をおいて2人とも椅子に腰掛けた。
「今日のはどうしたの?」
「お店で出た余り。三元豚だぞ?」
コズエは渋谷にある行列ができるレストランで働いている。季節限定のメニューをしょっちゅう出してて、これはその余りだそうだ。
「なかなか食べられないぞ? トンテキにしてみた!」
「絶対まーさんじゃん。いただきます!」
一手目からトンテキを口に運ぶ。厚切りなのに柔らかくジューシー。たった一口でスタミナ超回復。三元豚ってなんだっけ。たしかブランド名ではなく3種の豚さんを掛け合わせたものらしい。日本人の好みを追求された味。詳しくは知らないがとにかく美味しい。
「美味いか?」
コズエが箸も持たず、頬杖ついて、じーっとおれを見つめていた。
「まーさん到来!」
「ふふん」
おれのそのセリフをきいてコズエはようやく箸を手にした。
「作ってよかった」
美味しいというまで許さないぞ……という凄まじい圧があったが、これまで彼女の手料理でまーさんが来なかったことは一度もなかった。彼女の料理が大好きだ。完全に胃袋を人質にとられている。
「最近バイトどう?」
コズエがきいた。
おれは喉にものを詰まらせたみたいに動きをとめた。
「まぁ〜、いつも通りかな……」
「ふう〜ん」
無言で食べ進めていく。ハッと何か気付いたようにコズエは箸を止めた。
「えっ? それってまた辞めるかもってこと?!」
言い淀んでいると、コズエは大きくため息をついた。大きな目がぎろっとこちらに向けられる。沖縄出身の目鼻立ちのはっきりしたその顔に見つめられるとドキッとする。付き合い始めの頃は良い意味のドキッ。同棲を始めたあたりからは悪い意味のドキッ。
「まぁつまりはそういう波に乗っている感じしますね……」
「なにが波だよオマエ。もっと食らいついていけよ!」
コズエは三元豚をがぶり。白い歯が覗く。
出会った頃、沖縄から出てきた彼女はほんのりと日に焼けていた。彼女が笑って大きな口から、厚めのクチビルの間から白い歯が見えるのが好きだった。同い年ということと、バンドが好きだということで話が合った。笑わせたくなる人だった。言葉は元々キツめだったけどそんなのは些事だ。しかし近頃はというと、残念なことに、冷たい牙を剥く機会の方が多かった。
「すいません……」
おれもこんなにへこへこしてはなかったのに。
重たい気分で食事を終えた。
「先にシャワー浴びるから」
コズエはそう言い残して浴室へ。少し催していたのだが、このウチは風呂とトイレと洗面台が一体化した3点ユニットバスだ。「入りたきゃ入れば?」と向こうは言うものの、カラダをきれいにしているところに御不浄だなんて、自身の衛生観念が許さない。潔癖ってわけじゃないが、それは違うだろ、と思う。
浴室からシャワーの音がきこえる。おれは皿を洗うことにした。この時期、それに皿が油っこかったので正直なところお湯を使いたいが、風呂と流しで同時にお湯は使えない。いや、水は熱くはなるにはしても、浴室の水の出が悪くなるのだ。それに熱も不安定になって突如として冷水に変わったりする。コズエはそういうこと、知っているんだろうか。
食器を洗い終えて、タオルで手を拭いていると、突如浴室から悲鳴が聞こえた。
何が起こったかの想像もしないうち、咄嗟に木ベラを掴んでいた。心もとないが、とりあえず浴室へ向かう。
「鶴士ぃ!」
びしょ濡れかつ一糸まとわぬコズエが飛び出してきて、おれに抱きついてきた。熱をもった大きな弾力に一瞬思考が消える。
「出た! 出たの!」
「何がっ?」
おれは浴室を覗きこむ。何もいない。天井にオバケも、鎧窓の向こうに出歯亀もいない。トイレの中も覗きこむが何も出てない。とりあえず掛けてあったバスタオルをコズエに渡す。コズエは守りの姿勢なのか、秘部を隠すようにしていた。普段、素っ裸でテレビの前をうろうろする彼女を見慣れていたから、そういう態度をとられるとドキッしてしまう。良い意味で。
いやそんな場合じゃないぞ。
「どこに、何が出たの?」
「蜘蛛よ! そこ、そこに!」
そこが全くどこかわからないが、おれは靴下を脱いで浴室を調べる。じっくり見回してようやく見つけた。浴槽にかけるカーテンの縁についていた。
「あーこの子かぁ」
おれはトイレットペーパーをくるくる。
「はやく殺してよ!」
コズエが遠巻きに浴室を覗いて叫んだ。
「まぁ待ってよ」
おれは蜘蛛をそっとつかんだ。
「終わった?! ねえ?!」
「だからちょっと待ってって」
おれは手元に集中したまま玄関へ向かう。自動点灯のライトがついた。玄関扉を開けようとすると、
「ちょっと! 逃げた! 落ちた!」
蜘蛛はおれの手から足下にジャンプした。コズエが喚いている。蜘蛛は素早かったが、なんとか屋外に逃すことができた。
「終わったよ」そう言って振り返った。
「なんで逃したのよ! ちゃんと殺してよ!」
バスタオルをカラダに巻いたコズエはきれいな顔を歪ませておれを責めた。
「いやさ……殺したら可哀想じゃないか」
部屋から追い出したんだし、いいじゃないかとは思うけれど、コズエは納得しない。沖縄なんてたくさん虫がいただろ? と前に聞いたことがある。「蜘蛛は別なの!」とその時は怒られた。蜘蛛を殺さないおれの優しさは、彼女にとっては優しさじゃないみたいだ。
コズエは、憎しみと言っても差し支えない表情でおれを睨んだ。
「ほんっとに、使えないわね!」
その言葉はわりと、けっこう、いやだいぶ、ショックだった。
鶴士って優しいよね————。
そう言ってくれてたじゃないか。
「役立たずか……」
いくら口が悪くても、仮に言う相手がおれじゃなくて、社員同士の愚痴り合いの場でも、人に対して「使えない」なんて言い草はしてほしくない。たしかにおれは役立たずさ。仕事もできないし、気の利いたこともしてやれない。でもそんな言い方はないよ。「使えない」なんてさ。人は誰しもアイテムじゃない、駒じゃない。
コズエのそこだけは、前から嫌だった。
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