6、組み交わす
◆組み交わす
この夏、久しぶりの雨が降った。
強くはないけど敷き詰めたように細かく降る雨だった。洗濯した服がこれでは乾かない。昨日の大黒さんに与えられた不快な感覚がよみがえって身震いを一つ。
『どうして蚊とかって、雨粒が当たっても平気なのかしらね』
「それはクイズかい?」
『違うけれど、どうしてかなァって。んー……本当は当たってないとか?」
「さぁねぇ」
その日は静かに過ぎていった。
会議を終え、仕事して、食事をとって、モネと窓辺で話して、仕事して……。夕方、外に配達が来ていたから中へしまう。追加したお酒だ。とんでもない量のお酒を頼み出して、いったいここはどんな人が住んでいるのかと思われていることだろう。こんなに重たいものを雨の日でも届けてくれて、本当にありがたいことだ。
『雨って、こんなに降ってよく無くならないワよね』
モネは他人事のように言った。実際モネは雨に打たれたことがない。外に出して悪い虫がついたら嫌だし、蚊がボウフラを産みつけるなんて考えるとゾッとする。モネの盃は晩酌じゃない時もお酒に浸している。昼間は飲まないとは言っても一応は蓮の花だから。それが夜になる頃には無くなるのだ。「飲んだの?」ときくと『なんか無くなったよ』といつもモネは答える。
モネの波紋ひとつおきない酒の面を眺める。
『なァーにぃ?』
と照れたようなモネの声。
「いや、ボウフラが泳いでないかなって」
『ヤだー』
僕は不忍池を思い出していた。
ナツメ————。
彼女に会ってからは晴天続きだった。雨だったことは一度もない。
ナツメは雨の日どこにいるのだろうか?
まさか雨などおかまいなしに僕を待っている? でもこんな雨なら僕が出勤するだなんて思わないだろう普通は…………普通は…………。
ナツメは普通と言えたものではない。コミュニケーション能力の欠如、意思表示の弱さ……。
考えれば考えるほどナツメが不忍池の池で待っている姿が如実に浮かび上がってきた。雨雲の下で黒い日傘をさして、真っ黒な目で池の波紋を見つめている。いつまでも。
初めて会った時、4時間も待っていたと言っていたのを思い出した。
ああ…………。
「モネ、ちょっと出かけてくるよ」
『えっ?! こんな時間に?』
そりゃそういう反応にもなるだろう。雨は止まないし、もう7時近い。
「うん。ちょっと不忍池に。困ってる人がいるかもしれないんだ」
言い訳は思いつかなかった。
『意味ガわからないよ……なんで? 困ってる人って誰?』
僕は言い淀んだ。
なんと言えばいい。
「黒い蓮の花」
大学生の時分、初めて出来た彼女と別れたきっかけもこんな感じだった。夜中同じゼミの女の子から電話があった。泣いていて、とにかく来て欲しいと言われたのだ。これはただごとじゃないと僕は安アパートを飛び出してその子の住む街へ。駅前のファミレスで彼氏の愚痴を延々ときかされた。もう心が通じていないから別れるしかないと。そうだね、そうかもね、と返事をしているうち、朝になった。そのことが僕の彼女の耳に届いたのだ。僕がその子と夜を過ごしたというなんとも雑な伝わり方で。
僕は今、モネに対してそれよりも酷い伝え方をしてしまった。
『なにソレ』
僕はやましいことはなにもないと弁解をしたが、そんなものは無意味だった。そもそもナツメという存在を隠していたことが間違いだったんだ。やましい気持ちはないとは言うものの、納得してくれるはずもない。
「ごめんね」そう言いながらも僕はスマホやケータイをポケットに入れていた。「すぐ帰るから」
駅まで走った。在宅ワークがたたってすぐに息がきれる。
電車でも落ち着きがなく、周りの乗客は警戒して僕を遠巻きに観察していた。上野の駅に降り立ち、不忍池まで急いだ。電車に傘を忘れた。
不忍池に人影はなかった。中へ進んでいくほど、音は静かになっていった。表通りを走る車の音もきこえない。雨が池に落ちる音ばかり。
全身ずぶ濡れだった。池の周りを一周してもナツメの姿はなかった。
いないならよかった。そのはずなのに、僕はまたもう一周を歩き出していた。半ばまで回って、池の方へと歩み寄り、水面を眺める。靴の中から髪の毛まで全てびしょ濡れ。そんな姿で雨音の中にいると、まるで水中に沈んでしまったような感覚に陥った。
「12時間」
背後で声がして振り返った。
「待った」
ナツメが立っていた。黒が基調の服に、雨なのに僕が渡した黒い日傘をさしている。傘の中にも雨が降っていた。晴雨兼用と謳っていた傘だったけれど朝から晩まで雨に濡れていたらそうなるだろう。滲んで垂れた雨粒は黒いナツメを濡らしていた。濡れたことによって黒の純度が上がる。あまりに黒過ぎて、光を吸収し、距離感が曖昧になる。ものすごく遠くにいるようにも見える。風景に切った写真をあてがっただけにも見える。だから、ナツメの腕が僕のカラダを捕まえた時、0より近いところまで触れられたような感触がして、僕はなさけない声を上げた。
「帰ろう?」ナツメのカラダは冷えきって震えていた。「寒いの」
ナツメにも部屋はあった。
不忍池に棲む妖精ではなかった。それでも、説明できない魔性がナツメからは溢れ出ていた。
池から歩いてわずかの距離のそのワンルームは、ただの寝室だった。他に何もない。濡れた服を脱ぎ捨てた僕達は互いの肌を強くこすり合っていた。
ナツメの指先は氷のように冷たい。しかし冷たいのはほんの一瞬で、触れ合ったところからすぐに熱を帯びていく。熱くなる。
「さびしいの」
ナツメはたった一言だけ口にした。
明かりもつけず、カーテンも閉めない薄暗い部屋に服を脱いだナツメの真っ白なカラダが浮かび上がる。普段の無表情のナツメの声とは全く異なる艶めかしい喘ぎが部屋に響き渡る。その声が僕の現実感をかき消す。深い水の中に沈んでいく。ふやけていく。とけていく。
モネの肢体を思い出した。花と葉っぱの下、根っこのモネのカラダ。盃を空けるたびに僕を惑わしたそのカラダは、今では打ち捨てられた石ころのように冷え切っていた。
僕はいま想像なんかじゃない熱いモノを抱いている。
ナツメが上になる。その時には既に僕は泥の底まで落ちていた。僕のカラダからスラリと伸びるナツメのカラダ。振り乱す黒髪は大きく広がって、まるで花弁だ。黒い花びらだ。
黒い蓮は毒をもたらす。
それから、抗いがたい深い眠りも。
視線を巡らせると、そこは不忍池だった。
池の中心だ。下から僕を引っ張る力がある。遠くに誰か立っている。黒い人影。ナツメじゃない。
『忠告をしたのに』
ニッコリと耳まで裂けた口で笑ッテいる男だった。
カラダに何かが巻きついた。植物の根のようで、茎のようで、はたまた腕のような触手が僕を捕らえ、水の中へと沈める。息ができない、苦しい!
空気をいっぱいに吸い込んで目が覚めると、僕は湿ったベッドの上にいた。隣には裸のナツメが眠っていた。
窓の外が明るい。まがいもない朝だった。
モネ!
僕が飛びおきるとナツメも驚いて目を覚ました。
「帰らなきゃ」
ずぶ濡れのままの服を着る。その不快感と言い得ぬ後味の悪さに襲われる。
「どこ行くの?」
本当に分からないという口ぶりでナツメはきいた。重ねてたずねる。
「ワタシのこと好きなんでしょ?」
「それは……」
好きとも嫌いとも、僕ははっきり言える人間じゃない。
「ごめん、いかなきゃ」
僕は部屋を飛び出して通りを走った。外は信じられないほど暑かった。不忍池を通ると、花はほとんど終わっていた。喉が渇いてしょうがなかった。帰るつもりだったんだんだ。ゆうべから、あんなことになるなんて思っていなかった。
「モネ!」
部屋に帰りつき、真っ先にモネの盃の前まで走り寄った。
モネはぐったりとしていた。盃のお酒は枯れている。
『……遅かったね』
か細い声だった。花は萎れてうなだれ、葉っぱもシワがよっている。盃の底の根っこも憔悴していた。
「いまお酒汲むから」
自分でもそんな言い方をしたのが薄情だと認識していた。汲む、だなんて。
『うん…………ありがとう』
盃にお酒を注ぐ。いっぱいになるのに時間がかかったのは、モネが注がれるそばから飲んでいたからだろう。一升瓶を空け、盃を一杯にする頃にはモネは茎を伸ばした。しかし花の方はまだ萎れたままだ。
『サミシカッタ』
モネはそれきり話さなかった。
晩酌もわずかしか飲まなかった。
茎はお酒の中に沈みかけ、花と葉っぱもお酒に浮かぶように低くなってしまった。
モネがどこを見ているのか分からない。
声も聞こえない。
僕は一人で飲酒し続けた。グラスを空けては注いで、飲んでは注いで、黙って飲み続けた。
やがて酔いがまわり過ぎて床に倒れる。天井がぐわんぐわんに歪んでいる。気分がこの上なく悪い。苦しむ僕を誰かが見下ろしたいる。目の焦点が合わない。ぐにゃりと曲がったカラダ。どうやら裸のようだった。
『もうさびしくしないで』
モネの声だった。
喉に何かを押し込まれた。苦しいがしかし、カラダは僕の言うことをきいてくれない。奥まで入り込んでくるものと吐き出そうとする力が拮抗して長いこと苦しかった。息も絶え絶え、力なくもがいているうちに先ほどまでの酩酊感も苦しみもスッとなくなった。窓の外が明るいことに気がつく。丸一日も寝ていたらしい。朝だ、おはよう……と言わんばかり僕は自然に立ち上がることができた。
しかしどういうわけなのか頭に霧がかかったように考えがまとまらない。まるで自分が2人いて、ああだこうだと言い合っているみたいだ。
11時、リモート会議の時間になる。慣れているはずなのにパソコンの操作に手こずった。会議には参加できたけど、僕の顔は映っていない。
みんなの声が遠かった。何を話しているのか理解できなかった。
日下部君が映っている画面、彼の背景はいつもの部屋ではなかった。アレ……僕はこの部屋を知っているぞ。そうだ、あの女の部屋、ナツメの部屋だ。不忍池の、黒い蓮の花。
そうか、ソの女なノね————。
心の中で、僕じゃない声がした。
ナツメ、この花ヲ手折らないといけないんだ、僕を、この人をたぶらかした女だから————。
僕は部屋を出て、通りかかったタクシーに飛び乗った。
「不忍池まで」
気持ちが良かった。わたしは、この人を、僕を独り占めしている。血酒の誓いを交わしたんだから、思えば最初からこうなるべきだったのだ。
不忍池に着く。言われた金額を財布から出すのが煩わしく、お札をぐちゃぐちゃに掴んで渡した。
タクシーを降りるとナツメの家まで走った。蓮の花が咲いていると聞いていたけれど、花は枯れていた。良い気味だ。この人にはわたし以外の花なんて要らない。
部屋の鍵はあいていた。
「ナツメ!」
予てより用意していた刃物を取り出して叫んだ。部屋の中にはナツメと日下部君がいた。日下部君は仕事をしているらしい。ナツメは一糸纏わぬ格好で日傘をさしてベッドに座っていた。
さみしいからって誰彼構わず手を出しやがって。
「紙魚河さん!? なんでここに?」
取り乱す日下部君を無視してナツメへ突進した。
「やめろッ!」
わたしたちとナツメの間に日下部君が立ちはだかった。もみ合いになる。ナツメに刃は届かなかった。
日下部君なんて突き刺して、ナツメなんて切り裂いてやる。だけどカラダに力が入らない。
日下部君が惨めったらしく狼狽えている。
「そんな……! 刺しちゃうなんて、オレこんなつもりじゃ……!」
大変だ。大変なことになったぞ。
痛い、痛い、痛がってる、痛い!
なんとかしなくちゃと部屋を飛び出した。けれどすぐに目の前が暗くなっていき、地面に倒れてしまう。血が止まらない。
わたしは、愛する人のカラダから這い出た。喉の奥から茎を伸ばし、青空の下で花を開いた。
「モネ…………」
名前を呼ばれて悦びに身震いした。
ナツメを殺せなかったことは悔しいけど、こうして彼と最期を迎える段になると、それも些末なことに思えてきた。どうでもいい。近いうちに枯れるはずだったわたしの命、血酒を交わした彼と終わるのなら、それが本望だ。
彼の血肉にやさしく抱かれて、カラダを血管に絡ませて、溶け合って、こんなに綺麗な太陽の下で死ねるなんて!
『もうさみしくないよね』
彼が呼吸を止めた。
わたしも、彼の流した血の池に睡るように沈んでいった。
『花と酌み交わす』おしまい
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