5、じゅるるる
◆じゅるるる
不忍池へ出勤するとナツメの姿は既にあった。
僕がよく使っているベンチに腰掛けて蓮の池に視線を投げていた。関わりたくないので、僕は見つからないように別の場所へと移動。しかし数分もしないうちに、気がつくとナツメは僕の隣に座っていた。何を言うわけでもなく、ただジッと蓮を見つめている。面倒だったので声はかけない。他人を決め込む。とは言え、当然だが隣に無言の人がいると集中できない。今日は早めに切り上げることにした。せめて別れの挨拶だけはしようか。帰ったことに気づかず、4時間ここで待ったら不憫だし。
「僕は今日はもう帰るよ。ナツメちゃんもテキトーに切り上げなね」
ナツメは例の感情が読めない大きな目で僕を見返してきた。黒髪と黒いマスクの間から覗かれると、まるで監視されているような気分になった。
次の日、ナツメはやはり僕より早く出勤していた。
池の周辺は水気のおかげでいくらか涼しいとは言え炎天下には変わりない。僕は池の周辺を歩き、空いているベンチに腰を下ろした。ほどなくしてパソコンから視線を上げると、ナツメが目の前に立っていた。もう驚きはしないが、よく僕がいる場所がわかるものだ。
「暑くないのかい?」と聞けば、
「暑い」とにべもない一言。
ため息をついて仕事を再開する。
作業中での瞬間的なブレイクの際は蓮の花を見ていたのに、僕は知らずにナツメを確認するようになっていた。
「これ」僕は鞄から出勤前に買った黒い日傘を取り出した。「よかったら使いなよ」
ナツメは日傘を受け取ると、開きもせずにしばらく見つめていた。うん……と頷いたかと思えばようやく開いてさしてくれた。妙な安堵を覚えた。
時が経って、ぼちぼち帰ろうかなと凝り固まった肩を回す。肩甲骨のあたりが何度か音を鳴らした。
あれ、隣にいたはずのナツメがいなくなっている。背後でガサガサとコンビニの袋から缶ビールを取り出すような音がきこえた。ような……というか、そうだった。
「コレ」ナツメが僕にビールを差し出す。「お返しだから。だいたい、等価だから」
「あ……? ああ、そう」
ビールは2本だった。レシートも渡される。お金を払えということか? いやお返しと言ったし……。ナツメを見上げる。黒い日傘の柄から名札が垂れている。300円均一の店で買った物である。もしかしてとレシートを見ると、言葉の通りビール2本で「だいたい等価」であった。
「ありがとう……」僕はパソコンやらを鞄にしまった。「毒が入ってやしないだろうね」
ナツメはかぶりをふった。
「じゃあ」僕は缶ビールを1本手渡した。「証明してくれるかな」
2人で缶を開ける。キョトンとしているナツメと、
「乾杯」
「…………乾杯」
無表情と温度のない声とは裏腹に缶をぶつける力は強かった。そうか、あくまで彼女は無毒を証明しようとしただけ。だからかビールを一口飲んだだけで固まっている。
「あ、いや……一緒に飲もうかって」
「…………なるほど」
僕らは日傘の陰に隠れるようにしてビールをすすった。
ナツメはお酒が入ると喋るタチらしかった。初めて会った日もよく喋っていたし、僕と会う前から飲んでいたのだろうか。待ち合わせがどうとか言っていたっけ。4時間待ってすっぽかされたと。
「おいしかった。ありがとう」
「…………うん」
ビールを飲み終わると立ち上がった。僕はナツメに、また明日と言いそうになったのをすんでのところでこらえた。
「じゃ、僕は帰るから」
返事を待たずに歩き出す。またあした————と聞こえた気がしたけど振り向きはしなかった。
ナツメとの付き合いが始まって1週間が経った。いつもナツメは僕が仕事を切り上げようかなというタイミングでビールを買ってきた。はたから見たらパソコンをいじってるだけなのに、よく終わり間近なのがわかるものだ。
ナツメとのおかしな逢瀬以外は、僕の私生活は充実していた。モネとは仲良くやっている。彼女、最近お笑いにハマっているのだ。仕事も順調だった。健康も良好だった。
11時からのリモート会議…………が終わって、メンバーがログアウトしていく中、日下部君が僕を呼び止めた。彼は日に日に元気がなくなっていく。僕と彼だけの会話となった。
「どうかした?」
「あーなんていうか、こないだ紙魚河さんが言ってた、花がきれいとかっていう所ってどこでしたっけ?」
「ああ、それか。上野にある不忍池のことだね。まだ咲いてるよ」
「そうですか。いや、なんか行ってみようかなとかって思って」
「そうか。もしかしたら昼間のうちは僕もいるかもしれないけど」
「はぁ」
それで通話は終わった。こちらまでため息をついてしまう。モネが言った。
『飲みにでも誘ってみたら?』
「彼をかい? いやまぁ、会ってみてそんな流れになったらいいんだけど、こんなおじさんと飲むかね」
『分からないけれど、飲んだら元気になるじゃないの。行って来たら? わたし待ってるから』
モネに快く送り出された。
そもそも日下部君に会える保証もなかった。それに飲みに誘ったって来るとは思えない。だから彼と飲みに行くと決まった時は、その運命の巡り合わせに少なからず驚いた。そこにはナツメもいた。それからもう1人。
「みんなでパーーッ、といきましょう! それっ、パーーッ!」
強引に僕らをまとめたのは大黒さんだった。両手を開き、腕を空に広げ、「パーーッ」を表現していた。
「こんな蚊の多いとこはやめて飲み屋へ行きましょうよ!」
この人誰ですか? という目を向けてくるナツメと日下部君。
「この人は大黒さん。セールスマンやってる方でね、三鷹のお祭りでたまたま知り合ったんだよ」
「ええ! ここでこの4人が集まったのも何かの縁です、さぁ! 参りましょう!」
大黒さん……既にちょっと飲んでいるんじゃないか……?
彼についていく形で僕らは池を後にした。
モネはいつもの無表情。意外だったのは日下部君が飲みに行くことにやぶさかではない様子だったことだ。「ちょっとお金おろしてきますね」とコンビニに小走りする姿を見送っていささか安堵。
「大黒さん……あの花のことは、2人には」僕は大黒さんに耳打ちした。「内緒で……」
「わかってます! この仕事は信用第一ですからね!」
彼については、不安だ。
上野の名所のアメ横、そこと線路を挟んだ通りにある店に僕らは入った。
「4人で待たずして入れるなんてラッキーですね! ここはいつも満席なんですよ。みなさん一杯目はとりあえずビールでいいですか?」
まだ日も高いのに店は盛況だった。戸籍的な髭を生やした店員さんは僕らを店内でなく外のテーブルに案内した。案内というか、アゴでしゃくった。
「大統領になった気分で昼飲みですよ〜!」
アゴで席に通される大統領たちか。
まだ4人が座りきらぬうちに大黒さんは、ビール3つでと指を3本立てたのち「と、ハイボールで」と注文した。「あ、ご覧のとおりボクは一杯目じゃないので」と笑った。多分マスクの下でも。
「もう飲んでたんですか?」日下部君がたずねた。
「ええ。僕は仕事が私生活みたいなもんで、もう自分の裁量で進めらるんですよ」
上野には昼間から飲んでいる人が多い。この店でスーツ姿なのは彼だけだったが。
お酒が運ばれてきた。僕はナツメに「優しめにね」とささやいた。
「ではみなさんグラスを持っていただいて」大黒さんはハイボールをたのんだくせにビールジョッキを手にした。
なんてやつだ、けっこう酔ってるぞ。
「乾杯!」
四つのグラスが合わされる。注意は無意味だった。ナツメは勢いよくグラスを突き出す。大惨事にはならなかったけど、テーブルの中央にそこそこのビールがおこぼれた。
「もったいない」大黒さんがふっとテーブルに顔を近づけた。
え、まさか? と僕らは固唾をのんだ。
大黒さん! こないだもうちでそれをしようとしたけど、その時は耐えたじゃないか、やめろ!
「じゅるるるる…………」すする、いじきたないサウンド。そしてハッと顔を上げる。「あれ? ボクそういえばハイボール頼みませんでしたっけ?」
日下部が大笑いした。
「いや紙魚河さん、大黒さんってヤバいっスよ!」
「あははは、ちょっと変わった人でね。まぁこのご時世だからちゃんとテーブルも消毒してあるよ」
「…………無毒」
どうなることかと思っていたが、大黒さんのおかげで気まずい酒席にはならずにすみそうで一安心だ。日下部君もかつての職場でも見たことないくらいに笑ってくれてホッとする。案外簡単だったなと拍子抜けすると同時に、彼はほんの何日か前の自分なのだと気付かされる。
「ところで紙魚河さん、ナツメさんとはどこで知り合ったんですか?」日下部君がきいた。
「不忍池だよ。あのエリアに踏み入れると知らないうちに隣にいるんだ」
「なんですかそれ、蓮の妖精か何かですか?」
「んー…………」なんて説明すればいいのか。隣に座るナツメに目をやる。「君は蓮の妖精かなにかかい?」
ナツメは思案顔。
「ここはそういうことにしておきましょう」
君は場をおさめるために人間をやめてしまうのか。
「なるほど……妖精さんですか。じゃあ大黒さんは?」
「よく聞いてくださいました! ボクは神出鬼没のセールスマン、大黒招吉! 宵闇の貴公子! どうかお気軽に『黒』とお呼びください」
「まだ宵闇感ゼロの真夏日だよ」
「貴公子はこぼれたビールすすらないっスね」
「そんな同じ職場で徒党を組んでつっこまなくても! 悲しいなぁ、ナミダが出るなぁ。ねぇナツメちゃん?」
「黒はワタシの色」
「いやいや! ボクから黒をとらないでください! イメージカラーなんですから!」
「ワルいんですけど、オレは大黒さんのイメージ、ビールをすする人になってますよ、もう。黒はナツメさんですね。髪や服装も決まってますし」
「ボクだって黒いのに……」
宴もたけなわですが。
飲みは日が傾いてきた頃にお開きになった。
大黒さんが酔い潰れ、どうしてももう一杯! とたのんだサワーをこぼしたのが店を出るきっかけだった。
千鳥足の大黒さんに肩を貸し、タクシーを探した。日下部君も顔が赤く、目がとろんとたれている。そんな彼にお酒で口数が増えたナツメは「蚊が繁殖してしまうような水溜りを作ってしまった家が罰金をとられる国があるの知ってる?」とクイズを出している。
酔いに酔った大黒さんが声を絞り出した。
「紙魚河さん、ちゃんと花のお世話をしていますか……?」
「ああ、毎日ちゃんと晩酌をしてもらっているよ」
話を聞かれていないかと2人を振り返る。大丈夫そうだ。あと、正解はシンガポールらしい。
「何度も言いますが彼女は寂しがり屋です。これは、うぷっ……ちゅ忠告ですからね……」
「わかったよ」
「それからあの子には気をつけてくださいね。蓮池で出会った黒い妖精だなんて、実に怪しいです。うぷっ」
「しっかりしてくれー」
「忠告を破ったらもう後戻りできませんからね」
「後戻りねぇ、わかったよ」
じゅゆるるる……と耳元で嫌な音が聞こえた。
「ひっ!」
肩のあたりに生温かいものが……!
どうやら彼の口から後戻りしてきたものだった。
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