4、無毒の黒蓮



◆無毒の黒蓮



 僕は例のごとく不忍池に来ていた。

 理由は分からないけど、初めて出来た彼女のことを思い出した。

 二十歳を過ぎてから大学の教職の講義で知り合った人だった。僕は結局、教職員になる道は諦めたのだけど、講義の外でも彼女との付き合いは続いた。何度もお茶をして、また明日と言って明大前駅の改札の中へと歩いていく彼女の後ろ姿を見送った。「まだ付き合ってないの?」といろんな友人に言われた。卒業間近、初めて二人で飲みに行ったチェーンの居酒屋で、頬を赤らめて話す彼女がかわいくてたまらなかった。子供が読むような大きな図鑑の1ページに彼女を加えたいとさえ思えた。みんな知らないだろう? こんなにかわいい生き物がいるんだぞ、と吹聴したかった。居酒屋を出て、初めて彼女はワンルームの僕の部屋へ来てくれた。遠回しの会話を繰り返した後、煎餅布団の上で強くカラダを結んだ。翌日からは外で歩く時は手をつないだ。彼女も僕も、言い表せない自信を携えていた。こうしている自分に、誰も文句は言えない、言わせない。そんな二人だった。お互い付き合うのは初めてだった。だから慣れていなくて、互いが他の男女と話しているのが気になった。そんな中高生みたいなきっかけと、泣き喚くみたいな言い合いで、別れてしまったっけ。

 今僕はベンチに座って一人蓮の花を眺めながら、そういう根拠のない自信に満ちていた。

 だから、突然隣に女性が腰を下ろしたとしても僕は冷静だった。冷静であるはずだった。

 こんな広い公園で、たとえば混み合った待合室でもないのに、人が既に座っているベンチに座ろうと思うだろうか。いや思わない。

 女性は若かった。二十代前半だろう。この真夏にどう太陽の目を盗んだのかと知りたくなるほどの白い肌。黒いマスクと長い黒髪、泣き腫らしたような赤い目元……、ぷっくりとふくらんだ涙袋。伏せたまつげの檻に閉じ込められた瞳は蓮の色を映している。彼女は小首を傾げて僕を見た。

「おニイさんは、ケータイがない時代も生きたおニイさんですか?」

 いきなり何のことかと面食らう。挨拶もなしに話しかけられるのは、日下部君あたりの若手で慣れてはいるけれど、あまりに脈絡がない。とりあえず「そうだね」と答える。

「誰かと待ち合わせて、その相手が来なかった時、どれくらい待ちますか?」

 言い様や見た目からして彼女はZ世代の子なのだろうか。だとしては珍しく人の目を真っ直ぐ見つめてくる子だ。まばたき一つせずに見つめられて、僕は悔い改めた囚人に見つめられる看守の気分だった。

「そうだね、学校の友達と待ち合わせていた時とかかな、その時はケータイもなければ、子供だし、腕時計なんかもなくてね」真っ直ぐ僕を見つめ続ける彼女から一度目をそらす。「時間なんかはさ、通りから見える薬局のカウンターの壁の掛け時計なんかを見て確かめるんだよ。30分は待ったね。そして不安になったり、心配になったり、1時間も待つと怒りも何も通り越して、何とも言えない寂しい気持ちで家に帰ったよ」

 今の子達は、簡単に連絡できるからそんなこともないのだろう。

「へー、そうなんですか」

 彼女はまるで僕の言葉に嘘がないかたしかめるように、未だに僕を見つめ続けていた。

「誰かを待っているのかい?」

「ええ」彼女は前方の蓮へとようやく向き直った。「4時間ほど」

「4時間? それはもう……すっぽかされたんじゃないのかな……」

「どうして?」また真っ直ぐに僕を見る。「ワタシが嫌いになった?」

「さぁ……君たちの関係性は知らないけれども」

「おニイさんはワタシのこと好き?」

 言葉を突きつけてくるような問い方だった。

「いや……好きでも嫌いでもないけれど……」

「………………」

 何も言わず、彼女は立ち上がって足早に去っていった。

 なんだったんだ……?

 気を取り直して仕事を再開する。

 そろそろ喫茶店にでも涼みにいこうか。冷たいものが飲みたくなってきた。パソコンを閉じる。背後でガサガサと音がした。まるでコンビニの袋から缶酒を取り出すみたいな————、

「コレ」

 目の前に突き出されたのはまさに缶ビールだった。発泡酒でなく本物のやつ。

「話せば嫌いじゃなくなるから」

 先ほどの子だった。走って来たらしく、息が上がり、肩が上下している。やはり目が大きい。口ほどにものを言う……感情の窓は開かれてはいるものの、その奥は暗くて臨めない。冷たい声色のセリフだけでは判断に困る。

「嫌いだなんて言ってないよ」

 相手に揚げ足をとらせるような、こういうナマやさしいセリフがいけなかったんだろう。はっきり拒んだり断ったりできない人が「私のこと好き? じゃあ嫌い? 嫌いじゃないなら好きってことね」と誘導されてしまう安いラブコメみたいだ。

 僕の隣に彼女は座った。もしこれが今日じゃなかったらこうはならなかったのではないか。僕には他人には覆せない確固たる、秘密の私生活がある。何が来たって平気だ。大学生の頃、服の下に彼女の写真が入ったロケットを忍ばせて参加していた飲み会を思い出す。いろんな女の子と普通に話せた。今こうして一回りは年が離れている女の子と話しているのはその時と同じ状況だった。

 今日じゃなかったなら。

 日が傾き始めた時間帯で、僕は彼女と小さなテーブルを挟んでお酒を飲んでいた。

「とりあえずビールでいいよね」

 不忍池で缶ビールを飲み始めた時から彼女はタメ口だった。そんなことに怒りはしないけど、ずいぶんと強引に……またはわがままに踏み込んで来る子だった。

「乾杯って言って、ジョッキを打ち鳴らす意味を知ってる?」

 とりあえずのビールが運ばれてくるなり彼女はクイズを出してきた。

「え〜〜とだね……、盛り上げるためとか?」

「ちがう」と言ったきり彼女は黙ったまま。

「じゃあ、昔そうやって賑やかな音を出すことによって、森の猛獣とかを避けてたとか……?」

「ちがう、たぶん」

「正解はなに?」

 きくと彼女は身を乗り出してジョッキを突き出してきた。

「乾杯!」

 勢い余ってビールがテーブルにこぼれた。意に介さず彼女はビールを飲む。収穫を待つ果実みたいな赤い唇についた泡を舌で舐めとって微笑んだ。

「正解は、打ち鳴らした時にこぼれたビールがお互いのジョッキの入ることにより、自分は相手と同じものを飲んでいると証明するため。つまり、毒が入っていないという意味なの」

 彼女は自分のジョッキを置き、僕の手から僕のジョッキを奪った。

「あっ」

 と言う間に半分ほどまで飲んでしまった。

 人との距離を測れない、加減をできない、人物のようだ。彼女の真っ白だった頬に、ほんのりと赤みがさす。

「ワタシ、毒じゃないんだよ?」

 モネの花びらが目の前に思い浮かんだ。白い花びら、酔いがまわってほんのりピンク。目の前にいるこの子は白というよりかは、長く伸ばした髪のせいで黒い印象がある。不忍池で出会った黒い女————、西洋の伝説によると、黒い蓮には毒があるらしい。

「はい。おニイさん」

 ジョッキを返される。

 こんなご時世、素性の知れない相手が口をつけたものを飲むなんて。

 自分でも何でこんなことをしているのだろうかと思った。腕時計を見る。7時を回る。そうだ、早く帰らなくては。モネが待ってる。

 僕は一息にビールを飲み干した。

「帰るよ」

「もう?」

「うん。ごちそうさま」と言いながらも伝票を掴んだ。その手に白く柔らかい彼女の手がかさなる。

「ナツメ」

 それは…………名前なのだろうか。

「また会うはず」

 返事はしなかった。

 僕は曖昧に笑いかけて店を出た。

 真っ直ぐ部屋へ帰る。

 玄関扉の前で

 モネは僕が軽く飲んでいることに気が付かなかった。

 僕は黒い蓮のことを告げなかった。その必要は無いと、自分に言い聞かせた。やましいところはないんだから隠すこともない。ナツメと名乗った彼女とももう会わない。

 また会うはず————、ワタシ毒じゃないんだよ——————。

 明日もやはり不忍池へ行くつもりだった。蓮の花期はまだまだ続くんだから。


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