3、モネ


◆モネ



 酔芙蓉との初飲みによる大寝坊、それにより生じた仕事の遅れと失墜した信用は、自分でも驚くほど早く取り返した。著しく仕事の効率が上がったのだ。というのも酔芙蓉との晩酌でストレスを発散したのが大きな要因だった。もちろん一朝一夕ではなかったけれど、みるみる仕事の成果を出していく僕にメンバーの見方も変わったようだった。

「もしかして彼女とかできました?」

 いつかの朝の会議で女性メンバーである梶ヶ谷さんが冗談めかして言った。僕はチラリとパソコン画面から目を離して、窓辺の酔芙蓉を見た。今は花をゆるくとじて眠っているようだった。僕のその視線の動きに梶ヶ谷さんは目敏く気が付いて「もしかして今お部屋にいらっしゃいますぅ?」と追い討ち。

「いやぁ」

 彼女ではない。酔芙蓉はあくまで晩酌の相手、飲み仲間だ。しかし花を相手に毎日楽しくやっているなどとは口が裂けても言えず、答えに困っているうちに「やっぱりねぇ〜」と彼女ができた流れになってしまった。

 酔芙蓉がうちにやってきてからも、1日1回外に出る決まりは続いている。何日分かお酒を買い込んだつもりなのに次の日には無くなってしまう。酒屋から運ぶのも重いのでお酒も配達にしてもらうことにした。買い出しなどで外に出ることはなくなったがその代わり、僕は上野にある不忍池に足繁く通うようになった。

 不忍池はちょうど蓮の花が見頃だった。1日中部屋で酔芙蓉の隣に座って仕事したりもできるわけだけど、僕はあえて不忍池の蓮の花を眺めて、そして家に帰り着き、酔芙蓉の顔……いや花を見るたびに「あーこの子が一番綺麗だな」と再認識できることが嬉しかった。初めこそ彼女の生態? の参考になればと来てみたが、その夜の晩酌の彼女の美しさに感動したのがクセになってしまったのだ。

 今日も僕は不忍池にやってきた。5種類もあるという蓮の花たちに迎えられる。今朝は三鷹から上野までの定期を衝動買い。それぐらいのことをしてでもここに来る意味はあった。

 僕の仕事がパソコンがあればどこでもできるものでよかった。鞄に入れたポケットワイファイのおかげで、池の蓮たちを臨めるベンチからでもお勤めができた。空気も清々しく、ブルーライトに疲れてパソコンの画面から目を離すと目の前に美しい蓮の花たちが癒してくれる。炎天下…………というのが玉に瑕だ。僕は日傘をわざわざ買ってきた。雨の日に傘を自転車にとりつける器具で、ベンチに固定して日陰を作ったりもした。それでも酷暑にきつくなったら一旦カフェに入り、パソコンを充電がてらクールダウン。そしてまた不忍池へ。

 毎日ここへ来ると、喋りはしないが顔見知りができる。来る日も来る日も蓮を眺める人たち…………こういう人たちはいったいどういった素性なのかと訝しんではいたけど、僕もかなりおかしな部類にカテゴライズされたに違いない。日傘をさして炎天下でリモートワークする男……。警官だったら職質するし、さもなくば同情する。

 ところで今日は仕事とは別のタスクがある。

 僕は蓮の花たちの姿を遮るように目蓋を閉じ、酔芙蓉を思い出した。

『名前をつけてほしいの』

 ゆうべのことだ。彼女が頬……いや花びらを赤らませてそう言ったのだ。

『いつまでも、君だなんて呼ばれて、わたしサビシイの』

 盲点だった。そうだ。彼女に名前をつけるのは僕しかいない。はてさてどうしたものか。

 彼女はかなりの酒豪だった。バッカス……とはじめに浮かんだけど却下。ギリシャ神話での酒の神様、バッカス。しかしあの可憐な姿にそんな語感は似合わない。バッカスなんて、ボクサーが大型犬につけるような名前じゃないか。いつしか僕は仕事をほったらかしにして名前の案を考え続けた。

 彼女は酔うと赤くなる。そして僕が寝落ちするように、酔いが限界まで達すると酒の中に沈んでしまうのだ。前に気になって、蓮と睡蓮の違いを調べたことがある。睡蓮は日が沈むと閉じてしまう。そして花期が終わると水の中に沈んでいく。普段の特徴からいって彼女はあくまで蓮であったが、酔ったその姿が僕は強く印象に残っていた。

 睡蓮、酔った蓮の花。酔、蓮。酔蓮…………。フランスの画家であるモネの代表作『睡蓮』のことが思い浮かぶ。モネ…………モネか。良い響きだ。

 モネ——————。

 良いと思う。帰ったらそう提案してみよう。

「紙魚河さん!」

 不意に名前を呼ばれて飛び上がった。はつらつとした若い声、振り向く前から誰だか分かった。

「大黒さん……」

 酔芙蓉を僕に紹介してくれたセールスマン、大黒さんが立っていた。いつもの安スーツ、ビジネスリュック、笑い口のマスク。

 彼は僕の隣に腰を下ろした。怪しい人物だと疑っていたけど、こうなってみると懐かしい旧友のようにも思えるから不思議だ。

「ずいぶんお花が好きになったみたいですね。こんな場所でお仕事だなんて。しかし心なしか晴れ晴れとしたお顔で」

「ええ。大黒さんが酔芙蓉をくださったおかげですよ。楽しい晩酌させてもらってます」

「喜んでもらえて何よりです! そのご様子だとちゃんと毎日お世話しているようですね。よかったです。あの酔芙蓉は寂しがりなので今後も晩酌を欠かさないでくださいね」

「もちろんですよ。それが楽しみで仕事も頑張れてますからね。そうだ、大黒さんも今夜うちでどうですか?」

「うかがいたいのはやまやまなんですが、ボク今日はまだ仕事がありますので。近いうちに寄らせていただきます!」

 本当に見かけたから声をかけただけらしい。彼は姿勢の良いフォームで歩いて去っていった。



 三鷹へ戻る途中、神田駅の乗り換えで電車を降りると、人並みの中に日下部君の姿があった。ちらりとしか見えなかったけど、あの覇気のない目と猫背は彼に違いない。前だったら絶対に気付かないふりをしていたはずだ。自分でも変わったと思う。僕は後を追って、彼の肩をたたいていた。

「あれ……紙魚河さん」

「久しぶりだね。今日は、何かの帰りかい?」

「そういうのじゃないですけど……」彼は目をそらした。「ずっと部屋にいるのも飽きたんで」

「そうなのか。分かるよその気持ち。在宅ワークが続くとそうなるよね。僕もね、息抜きに行ってたんだよ。上野の不忍池に。あそこはいま蓮の花が綺麗だよ」

「蓮ですか。よく分からないですけど……」

 日下部君は少々疲れて見えた。声をかけたのは迷惑だったかなと後悔しはじめる。

「紙魚河さんって、最近イキイキしてますよね。梶ヶ谷さんなんかは、彼女ができたからとか、そんなん言ってましたけど」

「そんなんじゃないんだけどね……」

「オレもそういう人とかいたら、変わるんですかね」

 出社していた時はこんないじけたことを言う人物ではなかった。

「蓮のとこ、今度行ってみます。じゃあ————」

「うん。きっと気分変わるよ。また明日会議でね」

 僕たちはそこで別れた。

 


 酔芙蓉はモネという名前を喜んでくれた。

『蓮美とか、のみ子とかになるんじゃないかって心配だったワ。良い名前をくれてありがとう』

 考えた名前をいざ口にするとなると、恥ずかしさが込み上げてきて、それにもしかしたら笑われるのではないかと怖かった。けど結果的に気に入ってもらえてこちらもよかった。

 酔蓮のモネ————。

『ねえ』

 彼女の声はいつも耳元でささやかれているようで、少しくすぐったい。

『はやく呼んでみて?』

 僕は平静を装った。

「モネ」

 返事はなかった。ただ飲み始めたばかりの白い花びらに強い赤みがさした。こちらまで照れ臭くなる。

「ところで他の候補で、バッカスというのもあったんだけど」

『そんなボクサーが大型犬につけるみたいな名前イヤよ』

 同じことを思ってる。

「蓮をレンと読んで、重ねて、レンレンっていうのもあったよ」

『そんなパンダみたいなのもイヤよー! 絶対モネがいい!』

 幼い子供の抗議のようだった。ずいぶん大人らしくなってきたモネだったけれど、幼さも残っているみたいだ。

『今日はすこし遅かったわネ』

「そう? いつも通りだったけどね」

『毎日たくさんの蓮の花ガあるところに行ってるンでしょ? わたしという存在がありながらよくそんなとこに行けるよネー』

「いやぁ……。言うなればあれだよ。彼女がいるのに趣味はアイドルグループの追っかけみたいなさ。別なんだよね」

『彼女!?』

 花びらが真っ赤になった。

「あっいや! あくまで例えだよ? その……まぁ、うん」

 朱塗りの盃のビールが無くなっていた。モネの根っこの肢体に白い泡がまとわりつく。

「泡がついてるよ」

『拭いて』

 言われるがまま、ティッシュでモネの肢体を拭いた。日を追うごとに根っこの肢体は人のカラダっぽさが増していく。胸のふくらみあたりを拭くのが少し躊躇われるほどだ。モネが一瞬身をこわばらせたように思えて、こちらはなんにも気にしてない風にふるまった。

「次は何飲む?」

 近頃モネは一杯目は「とりあえずビール」だった。その次からは気分。

『ん〜〜っとねェ……』

 モネは眼下? 丸椅子の周りにあるお酒の数々を眺め回す。あくまで植物だから、花がキョロキョロ動いたりなんかはしないのだけど。僕はモネの目線まで分かるようになっていた。いま壁に飾ってあったヨーヨーに目を留めた。大黒さんと会ったきっかけの品。

『そのヨーヨー、しぼんじャったね』

 モネの言う通り、壁から画鋲でさげたヨーヨーは空気が抜けてしまい、中身の水の分だけ僅かに膨らんでいた。口に出しはしないけど、正直それは用済みになったコンドームのようだった。そんなもの最後に見たのはいつだったろう。

「さびしいけど捨てよっか」

 僕は画鋲を抜こうとした。なかなか抜けず、力を更にこめたところで急に抜ける。床に落ちそうになったのを、僕は近年稀に見る反射神経で掴み取った。裏目にでて、針が手のひらに刺さった。

「痛ぁ!」

『大丈夫ッ?!』

 手のひらを開いて刺さった画鋲を抜いた。容赦ないほどに深く刺さっており、抜いた拍子に傷口から血が一滴、落ちた。

『あ……』

 モネの盃に血が落ちた。朱塗りの上から、もっと赤い血液が一滴。

 しばらく妙な沈黙があった。先に口を開いたのはモネだった。

『お酒、注いでよ』

 僕は血を拭こうとしたけどモネの声に止められた。

『このままがいい……』

 僕は日本酒を目一杯に注いだ。血がお酒と混ざる。

 モネはひかえめに、自分のしたことに不安を抱いているような、そんな笑いをした。

『エヘヘ……、血酒だー。あなたも飲んで』

 自分のお猪口にお酒を注ごうとして、またしてもモネの声に止められた。

『違うの、一緒に飲ンで』

「いいのかい?」

『…………ウン』

 ためらいながらも僕はモネの盃を両手で持ち上げた。お酒がゆれる。モネが息を呑んで待っているのが分かった。盃の朱色に口をつけ、傾けて、血酒を自らの口の中へ流した。盃を丸椅子に置く。ごくり、とモネもお酒を飲んだ。

『ずっと一緒にいてね?』

 僕は返事の代わりに盃に口をつけた。

 何度かそうした。途中からは、あまり盃を傾けるのは危ないからと、僕は自分用のお猪口にお酒を注いだ。その理由は本当だったけど、もう一つ、盃に口をつけ、減っていくお酒の中からモネの怪しい肢体が目に入るのがたえられなかったからというのもあった。

 おかしな気を起こしそうだった。


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