2、酔芙蓉
◆
翌日。午前11時の定例リモート会議が始まった。
朝のこの日課、はじめの頃はよかったけど、今ともなるとメンバーみんなの身だしなみがテキトーになってきた。
コンタクトがもったいないからか、会社では見なかった眼鏡姿になっていたり。明らかに寝巻きだろうスウェット姿だったり、髪が盛大にハネていたり、一人暮らしのはずがチラリと背後に誰かが映り込んだりなど。
「定例会議やるよー」
ウェブディレクターの金澤さんが一声。見た目は一番整えてはいるけど、膝にはいつも猫を乗っけているらしい。
今後のスケジュールの確認や、全員の作業の進捗状況を報告し合う。
「紙魚河さんの方はどうですか? 素材作りの方は」
「一応だいたいはできてるんですが」
「もしかして昨夜送ってきたやつ? 変更点ってたしかめた?」
「変更点?」
「メールで送ったやつだよ」
「あ、今朝はまだ……」
ため息がきこえた。画面上に並んだメンバーを見ていると、みんながため息をついたようにも見えた。
「はぁ、すいません……」
「お願いしますね、ホント」
金澤さんはそう言い俯いた。定期的に猫を撫でているらしい。
「日下部クンの方は?」
「あ〜〜、オレは別に。とりあえず新しい案件のやつはワイヤーフレームだけやったカンジですね。あとこの前のやつ、素材もテキトーに作りました」
「そうなんだ。じゃあ見せてね」
「一応さっき送ってますんで。メールの方で」
「え? そうなの? ごめんごめん」
さすが日下部君だ。今起きましたと言わんばかりの寝ぼけ眼だけど仕事ははやい。今年入ったばかりなのに、いくつかの案件を並行して進めることにも問題はない。抜きん出てセンスもいい。「とりあえず〜〜」とか「テキトーにぃ」と作ったモノがそのまま採用されることもよくある。「こういうカンジでいいんスよね?」と入社したての彼が先輩の僕を振り返る時にしていた顔を思い出す。「うん、そうそう」僕は特にアドバイスもできずに自分のデスクに戻っていた。
「あぁ、なるほどなるほど。良いね。はい、分かりましたー」
もう10年も下っ端の僕。金澤さんは僕より2、3コ若いけど、周りをまとめるウェブディレクターとして働いている。
自分の考えや希望も曖昧なクライアントたちと話したり、メンバーの調子をうかがって仕事を納期までに間に合わせるなど、そんな面倒なことはまっぴらだと僕は思っていた。けれど、まっぴらごめんと言うより、僕はそんな仕事をこなせないのだと実感してきた。人と話し合って、折り合いをつけたりするのは僕には向かない、絶対。
そんな感じで、向上心もなく、何年も経ってしまった。
金澤さんを中心にいくらか会話があって、ほどなく会議は終了した。マイクが切れたとこで、部屋のインターホンが鳴った。1DKの狭さに響くアナログちっくなその音は大き過ぎて嫌いだった。
なにかネットで注文したいたっけ? 配達は全て置き配にしていたはずだが……。
「はい?」
玄関に向かって声をかける。
「こんにちわ! 昨日はどうも」
若い男の声。ヨーヨー店で会った大黒さんだった。
家まで知っているとは……。外に出て応対しようと扉に近づいた時、扉横の格子窓にヌッと人影が浮かび上がった。覗き込むようにゆがんだ黒い輪郭に、耳まで裂けた真っ赤な口。
悪魔だ!
直感がそう告げ、僕は身を固くした。
いやしかし、見間違いだろう。影は扉の裏に戻った。
「大黒です、紙魚河さーん」
声の他にバシバシと何かを叩く音がきこえる。まだヨーヨーを持っているのか。
扉を開けると、昨日と同じ安スーツにビジネスリュック、笑い口のマスクの大黒さんが立っていた。片手にヨーヨー、もう一方にはなんと一升瓶を握っている。
「紙魚河さん、いきなりですがおねがいがあります……!」
「なんですかいきなり」
「暑くてたまらないので中に入れてください……」
あまり人を部屋に上げたくなかったが、外に出るのも彼が言うように暑そうだ。扉を開けっ放しではクーラーの冷気が逃げてしまう。そういうことも計算づくなのかどうなのか…………僕は彼を中へ入れた。
「ありがとうございます! いやぁもう誰かを怨んでるみたいに太陽が照っていて……」
小さな食卓に冷えたお茶を起き、一つしかない椅子を大黒さんにすすめた。「いえいえアナタがどうぞ」などといったマナー的押し問答もなく、彼は腰を下ろした。
「昨日の今日で、仕事熱心なんですね。そのお酒は? もしかして昼間から一杯やろうって話ですか?」
お茶を一息に飲み干す大黒さん。ぷはぁ〜〜。
「半分正解で半分あたりです」
「それ全正解じゃないですか」
「あっ、半分あたりで半分ハズレです、はい!」
彼はスマホを取り出した。文明の利器を駆使して説明してくれるのかと思いきや、彼はあたりをキョロキョロして、
「充電あります?」と言った。
関係なかったらしい。授業中に学生が「先生トイレ」と無遠慮に放つ台詞のようだった。「先生はトイレじゃありません」と返したくなる。
「これ使ってください。今使わないなら挿しときますよ」
「どうもスミマセン。で、ですね、人付き合いも趣味もなく毎日をうら寂しい思いで過ごされている紙魚河さんにこんなモノをお持ちしました」
大黒さんは大きなリュックに両手を入れてガサゴソと探った。整理されていないのは一目瞭然だった。住んでる部屋も散らかっていそうだと想像してしまう。
「あった! コレです!」
元気よく取り出されたモノを見て僕は身を引いた。彼の手のひらには、なんと言えばいいか、手脚の無い胎児と言うか、羽根をもがれた雛鳥と言うか、ともかく未完成の命を思わせる、ぬらりとした固形物だった。
「なっ、い……いったいコレはなんですか!?」
「コレは酔芙蓉の幼生です」
「スイフヨウ……? 芙蓉の花のことですか? 幼生って……」
「はい! そうです」
僕は彼の手にいつまでも乗っている「幼生」が気の毒に思え、台所から洗って干してあった食品トレーを持ってきた。2、3枚のティッシュを敷いて、食卓に。大黒さんはそこに幼生を寝かせた。
「この子はウチで独自に改良、進化させた品種でして。酔芙蓉って名前ですが、蓮の花です」
「ちょうど今外で咲いてるあの芙蓉の花とは別?」
よく見かける花だ。散歩に出かけるとどこかで一度は目にする。大判の葉っぱに、白やピンクの大きな花弁をもつ花。花期が長く、夏の間はずっと咲いている印象がある。
「その芙蓉とは別です。芙蓉という言葉は中国では蓮の花の別名なんですよ。酔芙蓉、酔った蓮の花」
大黒さんは一升瓶の蓋を開け、中身を幼生へと注いだ。ぴくりと幼生が動いた。僕は身震いした。死んでいたと思っていた害虫が脚を動かしたみたいな、そういう不快感を覚える。これから嫌なことが起きる予感がして、幼生に対しては不憫だが、バシンと叩き潰したい衝動にかられた。
「見ててください」
酒を吸って、幼生は膨れた。トレーから酒がこぼれる。
大黒さんはリュックから大きなお盆、いや盃を取り出した。朱塗りのきれいな赤が映える。うん、最初から出してほしかった。
「これは武蔵野盃という器です。一升のお酒がなみなみと入るサイズになってます。名前の由来は、広い広い武蔵野は一回では見尽くせない。野が見尽くせない、のみつくせない、飲み尽くせない! という洒落からきております。江戸時代には酒戦と称した飲み比べがしばしば行われていたそうですよ」
幼生を盃に落とし、とくとくとお酒を注いでいく。
「一升が、一升瓶がまるまる入るんです……」
見たところ盃はいっぱいになったが、まだギリギリお酒は注ぎ切れていない。なんの意地なのか、彼は表面張力を見定めるように顔を近づける。膨らんだ幼生の体積を考えてほしい。ほら、こぼれた、そうなるよ……。
「ちょ、ちょっと大黒さん、無理ですよ、入らないですよ」
「おかしいですね……」
僕はお猪口を2つ持ってきた。大黒さんがそれにお酒の残りを注いだ。ちょうど無くなったらしい。こぼしてスミマセンと言い彼は食卓に顔を近づけた。まさか吸い上げるのか!? と危ぶまれたがさすがにそれは彼もダメだと判断したらしい。勝手にティッシュで拭いていた。
「紙魚河さん、お近づきのしるしに」
お猪口を渡される。僕らは酔芙蓉に乾杯した。お酒は上等だった。
「大黒さん、コレ本当に花が咲くんですか?」
「はい! 綺麗な大輪の蓮の花が咲きますよ。このままお酒を飲ませ続けてください。今晩か、明日の早朝にでもなれば成長した彼女とご対面できるでしょう」
「彼女って……そんな言い方。花を育てることが僕に何か影響するんですか?」
自分の口から「さびしさ」とは言いたくなかった。
「もちろんです! 毎晩彼女と晩酌をしてください。そして話しかけるんです。声をかけて、逆に花にも耳を傾けること。お世話はシンプルです。お酒は毎回たっぷり注いでくださいね。それだけでアナタの気持ちは晴れていきます」
マスクをずらし、クッとお酒を飲み干し、大黒さんは立ち上がった。リュックを背負う。
「いやでも、こんなの置いていかれても困りますよ」
「大丈夫です! ボランティアなのでお金はいただきません! お客様が幸せになればボクも幸せなんです」
「そう言うことではなくてですね……」
酔芙蓉に目をやる。表面張力で膨らんでいたお酒は、ぱっと見で分かるほどまで減っていた。
「育ててみれば分かりますよ」
大黒さんは右手を僕の方へ差し出した。ゆらゆらと宙をかくように動く。
「おいで、おいで、おいで——————」
その言葉と共に視界が歪んでいく。耳鳴りがした。お猪口たった一杯で酔うわけがない。薬を盛られたのだろうか? 浮遊感を覚える。心の底から本音が顔を覗かせる。うら寂しいな……話し相手もいなければ趣味もない。ため息ひとつ吹きかければ、飛んでいきそうな薄い毎日。酔芙蓉の沈んだ盃から声が聞こえた気がした。耳鳴りが止んでいく。なんだか気分が晴れていく。
「では紙魚河さん、ボクはこれで失礼します!」
バタンという玄関扉が閉まる音で我にかえった。
残されたのは僕と、武蔵野盃に沈む酔芙蓉の幼生だけ。
まぁ……騙されたと思ってやってみるか————。
後でお酒とツマミを買いにいこう。冷凍庫で氷も作っておいた方がよさそうだ。
さぁ、そうとなればさっさと仕事をしてしまおう。
しかしあの大黒というセールスマン。名前や住所を調べあげたりする点はイリーガル臭が拭えないが、人にこんな代物を押しつけていって、とりあえずは仕事の第一段階はクリアしたわけだ。無遠慮なとこや空気の読めないふるまいの数々は、実は全て計算し尽くされているのかもしれない。
そう感心しかけていると、突如として玄関扉が開いた。
「スミマセン! 充電してたスマホ忘れました…………」
少なくともこれは誤算だろう。
仕事を一段落させた夕方、僕は駅前のスーパーでお惣菜を買い込み、中央通りの酒屋で日本酒、焼酎、ウイスキー、ビール、三鷹限定のキウイワインなどを調達。
昼間は仕事しながら窓辺の丸椅子に乗っけた酔芙蓉をちょくちょく観察した。見るごとに大きくなり、手脚のような根を伸ばし、一本の青々とした茎を水面へと伸ばしていた。見た目の気持ち悪さが緩和されていくと、それに比例して成長を見届けたいと思うようになった。お酒は、どの種類がよく作用するのだろう。
部屋に戻り、手洗いうがい、アルコール消毒を済ませる。窓辺の酔芙蓉を確認する。イメージしていたものより小さめの葉っぱが数枚、水面から茎を伸ばして広がっていた。水位がかなり減った……ちょうど水面の中央から、葉っぱたちを抜く高さまで伸びているのが蕾だった。真っ白い花びらがぷっくり重なる。今に開くんじゃないかとこちらの胸まで期待でふくらませる。
時刻は6時前。真夏の空はまだ明るい。深い青と艶を含んだ白い雲。アパートの2階の部屋からは中央通りから一本ズレた道が見える。駅方向から帰路をたどる人影がちらほら。僕は照明をあえて点けず窓辺に腰を下ろした。
お酒は何にしようかと悩んだ末、盃にいくらか今朝の日本酒が残っているのを見て、僕も日本酒を飲むことに。
お猪口に日本酒を注ぐ。残りは酔芙蓉の盃へ。器の朱色が酒に浸っていく様はきれいで目を奪われた。雲が跳ね返したかすかな西日がそこへ射して金色にきらめく。ふんわりと甘い香りがただよう。今までの人生で経験がないほど畏まり、そして厳かにお猪口と盃をぶつけた。千里の旅の果てに手に入れた霊薬をいただくような気持ちでお酒を口にした。
「おいしいな」
そうこぼした矢先、まさに僕が見ている目の前で盃のお酒が減っていった。喉を上下するのに似たリズムで消えていくお酒。盃を乗せた丸椅子を調べるが水漏れはしていない。盃の中央に沈むあの「幼生」に吸い込まれているんだ。ついにお酒は全て無くなった。盃の底には小人のような根っこが横たわっている。人の形をしていた。若い肢体だ。それが根であるから、茎はそのカラダから伸びている。ちょうど首があるはずの位置から伸びている茎を目でたどると蕾までいきついた。そして、
「あっ!」
蕾が開いた。
熱をもったため息を感じた。事が済んだオンナの吐息を思わせるものだった。艶やか白い花びらは先端を少しだけピンクに染めている。
美しい。
あまりの見惚れていると、ふと空っぽのお猪口を手にしているのが気恥ずかしくなった。すれ違った美人に見惚れて転んだみたいな気持ちだ。日本酒はもう無い。僕はワインの栓をあけた。
そのワインは三鷹の一部の店で取り扱っている限定のキウイワインだった。前々から気になっていたけど一人で飲むのもつまらないなと買うまでには至らなかった銘柄。白、ロゼ、にごりの3種類のうち、今回は白を購入。キウイの爽やかな香りが鼻をくすぐる。
心の中で何かの言い訳をするみたいにワインのことを喋り続けた。そこで大黒さんの言葉を思い出す。
「声をかけて、耳をかたむけて…………か」
花に話しかけて飲酒するなんて、誰かに見られたら気が触れたかと噂されてしまうだろう。いや、たしかにいくらかはおかしくなっているのかもしれない、僕は。
「三鷹のキウイは大きくて質が良いらしいんですが、それはキウイ発祥の地のニュージーランドの土壌が、三鷹の関東ローム層に似ているかららしいですよ。お土産向きな気がしますが、僕らが飲んだら地産地消でね、良いですよね。あっでも実は、キウイのルーツは中国にあるとかないとかで」
ペラペラ喋りながらワインを口にする。
「おいしいなぁ。久しぶりだなぁこんなのは」
気付くと盃は空だった。「ごめんよ、別のを注ぐからね」と手近にあった焼酎を持ち上げた。酔芙蓉の花はほんのりと赤みを増した。不思議なことに花から喜びのオーラ……なんて曖昧な表現しかできない何かが発散されているようだった。
感じられる、花のことを。
「良い飲みっぷりだね」
僕たちは飲み続けた。気持ちの良い酔いがまわり、日が沈みきって夜になった頃には、僕は花の声を聞く事が可能になった。彼女の声は透き通った、若い女のそれだった。
『お酒、もっと注いで?』
よく飲む花だった。大学生の飲み会の空気が想起した。
いつしか僕は寝落ちして、寝坊して、翌日のリモート会議を欠席してしまった。
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