花と酌み交わす
1、無趣味
——————『花と酌み交わす』
『誰も彼もアナタもワタシも
隠れて流すココロのナミダ
そっとお拭きいたします
みんなに幸せ行き渡るまで
この世の暗闇から手招きを』
今回のお客様:紙魚河内也(シミガ ナイヤ)36歳。
◆無趣味
1日1回は外を歩くようにしている。
決まり事にでもしないと部屋の中で全てが完結してしまう。趣味でもあればいいのだけど、生憎、僕は夢中になれるなにかを知らない。ウェブデザイナーとして少しでも発想の糧になればと、仕事帰りは本屋に足しげく通っていた。興味がないジャンルの本を読むためだ。クライアントはさまざまな要求をしてくるから、「ではこういうのは?」と提案できる引き出しは多いにこしたことはない。そうしてスポーツや手芸や料理やら、見よう見まねで手を出してはみたものの、一心に打ち込めたことはなかった。
ほぼ完全に在宅ワークと化した仕事。食事もウーパーイーツが増えた。食材も日用雑貨もネットで事足りる。外に赴く必要性がなくなってしまった。これじゃあ運動不足は不可避だし、なによりも精神衛生の観点から見ても外の空気を吸うことは重要だった。感情も発想も塞ぎ込みがちになっているのが分かった。
部屋を出て大通り————三鷹駅から真っ直ぐ伸びている中央通りへと。今日は祝日らしい。歩行者天国となった道路には何のイベントなのか、出店が並んでいた。そうか、夏祭りか。
この町は時折こういった催しがある。今回、店を構えるのは子供と若い親御さんばかりだ。地域の子供会が一枚噛んだイベントなのかもしれない。マスク姿の往来からは不織布やウレタン越しのモゴモゴとした話し声が聞こえた。
どこかへ出かけたい。
マスク生活が始まったばかりの頃の、週に2、3回の出社日が懐かしい。36にもなって会社は嫌いだった。割り切れなかった。人付き合いがわずらわしくて在宅ワークが増えることには賛成だった。最若手かつ優秀な日下部君が「コレ意味あるんすか?」と言ったことでオフィスの空気は「だよな」「それな」という流れをもった。当時の僕は喜んだ。今となっては出社することはほぼゼロだ。しかしこんな思いをするなら反対すべきだったと後悔している。スケジュール管理や進捗報告などのために、平日は毎朝11時のリモート会議を行なう決まりになった。僕の社会との繋がりはそれのみだ。
退屈だなぁ————。
力なく歩を進めていく。
久しぶりにラーメンでも食べようか、いやお腹は減っていない。若い時みたいに煙草でも吸おうか、いや値上がり続きの高額がばからしい。居酒屋にでも入るか、こんなに日が高くちゃやってる店もないか。暑いしプールにでも、いやなんだかわずらわしい……。
「おじちゃん!」
幼い声がして手を引っ張られた。いきなりだったのに加えてすっかりカラダがなまっていたので危うく転びかけた。子供の母親だろう、出店の方からとんできて、僕に謝る。
「いやいや、いいんですよ。ところでこちらは?」
「うちはね! ヨーヨー釣りやってるんだよ!」
戦隊系のキャラクターがプリントされたマスク越しに子供が教えてくれた。
「ヨーヨー釣りか、昔よくやったなぁ」
「よかったらおねがいします!」
元気よく勧められる。実に商魂たくましい。
屈託のない笑顔の子供を見ると心がほぐれた。
「そうだね、じゃあ僕もやらせてもらおうかな」
よっこいしょと地べたに腰を下ろす。
風船ヨーヨーを浮かべたビニールプールの前には先客が1人いた。決して上等ではない…………というより安っぽいリクルートスーツに、大きなビジネスリュックを背負った男だった。中腰の状態で姿勢を上手く保ちながらプールを覗き込む姿には、体育会系の体幹の強さがうかがえた。
プールの中でぷかぷか浮かぶヨーヨーを眺めていると、部屋を出てきてよかったと心から思えた。袖をまくって、自分がどの色を狙おうかと視線を巡らせていることに気がついて我ながらおかしくなる。
「1回100円です!」
「はい。わかりました。ちょっと待ってね〜」
小さな店員さんに小銭を渡すために財布を出そうとして、どきっとした。首元にプールの水を悪戯でかけられたのかと疑いもした。
「財布……忘れちゃったみたいだ」
声に出してみるとこの上なく情けなくなった。ガッカリさせてしまったかなと顔を上げると、子供は嘘偽りのない心配顔で、
「ほんとうですか?! もしかしたら道で落としたのかもしれません! ぼくさがしますよ!」
とまで言うではないか。なんていい子なのだろう。
そうはさせまいと記憶をたどる。財布は落としたのではない。単純に忘れただけだとわかった。
「ありがとう。でも大丈夫だよ。おじさん、おうちに忘れてきちゃったみたいだ。いま取りに————」
「ちょっと静かにしてくださいますか!?」
隣にいた男性が声を上げた。
驚いてそちらに顔を向ける。彼は水面をじっと見つめ、こより紙についたフックをどこに落とすかを思案しているようだった。額に玉の汗をかいて、あまりの真剣さにこちらまで固唾を飲んでしまう。
「このお客さんね、もうずっとチャレンジしてるんです。糸が切れちゃっても1コもらえるんですけど……」
子供の言葉には耳も貸さず、彼はこよりを持った右手をゆっくり下ろした。彼のマスクは漫画調の笑い口がデザインされていたが、その下で唇をキツく噛んでいるのが想像できる。左手を見ると、千円札が2、3枚くちゃくちゃに握りしめられていた。いったい何回目のチャレンジなのだろうか。
にぎやかな通りの一角で、ここだけが別空間のように空気がはりつめている。ヨーヨーから伸びたゴムの輪っかが沈まずに浮いているところを狙うのは基本だ。当然彼もそういうのに狙いをつけていた。けれど……、こよりは水にふれ、ヨーヨーを持ち上げようとしたところでプッツリと切れた。
「あっ! またダメだ! もうっ!」
声を荒らげる男性を僕は思わずなだめた。まぁまぁ、今日は諦めましょうよ…………、しかし彼はめげない。
「いや! もうちょっとで獲れるはずなんです! 釣れるはずなんです! もう一回やります!」
彼は千円札を突き出した。子供の店員さんは身を引いて困り顔。楽しいお祭りなのに、こんな切羽詰まった血眼の大人の姿を見たくはなかっただろうに。ひょっとしたら自責の念にすら駆られていそうだ。
「はい…………100円になります…………」
「いや! 10回分お願いしますね!」
彼は新たなこよりを手にする。僕は彼を制止した。
「お兄さん待って!」
「止めないでください! ボクはこれを獲らなきゃ今夜寝られません! 何も成せない男になってしまう!」
スーツを着ているからには休日の今日も仕事だったのだろう。ヨーヨーが欲しかったら、残念賞でもらえるものを受け取ればいい。こんな若者をここまで狂わせるのは冷たい世の中のせいなのか。僕は先ほどまでの楽しげな気分をすっかり見失ってしまった。彼はあまりに不憫だ。神は残酷だ。
「君、貸してください。こよりを強化します」
僕は彼の手からこよりを取った。どうやらティッシュをくるくるーっとよって作ったものらしい。ネットで安くこよりの束なんか買えるのに、この子が一生懸命おうちで用意したに違いない。しかしこの子には申し訳ないが少し細工をさせてもらう。僕はこよりを逆にねじってほどいた。
「何するんですか!」
「キツくねじった方が強度が増します。このこよりじゃ心許ないですよ」
加減は分からなかったが、ねじり直すとあらかじめ用意されたものよりギュッと丈夫そうに出来上がった。フックを噛ませてねじるのではなく、ねじってからフックを取り付けた。これでフック接する面も強くなる。
「こんなのアリですか…………」
彼は驚愕した様子で強化版こよりを眺めた。ちらりと子供店員さんを見やると「がんばって!」と言うようにかわいいこぶしを固めていた。
「いざ……」
3人がプールを覗き込む。もはや周りの喧騒は掻き消された。しじま。男性のアゴから汗がひとしずく滴り落ちた。水面が揺れる。フックが水に触れる。ゴムの輪っかにかかる。こよりはまだ濡れていない。ゆっくりと手が上がっていく。
「おいで、おいで————」
彼が呟いている。知らないうちに3人で呪文のように唱えていた。
おいで、おいで……。
上まで腕を伸ばしきり、ゴムとこよりの力比べが始まる。こよりは切れない。ヨーヨーが起き上がり、そして、水面を離れた。歓声のような息が漏れた。ヨーヨーは雫を落としながら宙を移動する。そして今、彼の手の内へ……。
「や…………ったーーーーーー!!!!!」
3人の声が重なった。ハイタッチしたり、握手をかわしたり、肩を叩き合ったりと、喜びを大いに分かち合った。よかったよかったと目頭を熱くさせながら、はて僕はいったい何をしていたのだろうと疑問が渦巻く。
「これ、おじさんにも!」
子供店員さんが僕にもヨーヨーをくれた。青いマーブルの模様だった。うん、せっかくなんで部屋に飾ろう。
「僕はやってないのに、いいかな?」
「はい! おじさんのおかげでお兄さんも獲れたので!」
お兄さんと呼ばれた彼を見ると、満足そうにヨーヨーを手で弾いていた。僕も同じように手のひらでポンポンと弾く。少年時代を思い出す。懐かしく、小気味よい感触。
「いやぁ〜、やっと釣り上げることができましたよ。ご助力に感謝します、紙魚河さん」
名前を言われてこれまでの興奮がスッと冷める。
「えっ、どうして僕の名前を……?」
「このご時世、誰かの名前を調べるなんて簡単なんですよ、紙魚河内也さん。あっ、申し遅れました。ボク、こういう者です」
名刺が差し出された。取り乱した僕は取り損ねて、名刺はプールに落ちる。
「すいません!」
「大丈夫ですよ! この名刺はウォータープルーフになってます」
彼は濡れた名刺をスーツの袖で拭いて、改めてこちらに寄越してきた。
「大黒招吉と申します! セールスマンやってます」
元気のいい人だ。大学を卒業して、若さと元気が取り柄で就職しました……という手合いだろう。押し売りは勘弁だ。名刺には「ココロのナミダお拭きします」とある。宗教まがいの商品を売りつける気だろうか。さっきの一時の心の触れ合いを侮辱されたようで大変に気分が悪い。
「そ、そうですか。では僕急ぎますんで……」
「急ぐ人がヨーヨー釣りなんてやるもんですか! ちょっとここで待っててください! 飲み物買ってきますんで!」
大黒という男がヨーヨー店の向かいにあったコンビニに駆け込んでいった。
「もうおともだちになったんですね!」
子供が言った。この子の前で強く言うわけにもいかず、黙って立ち去っても、親が近くにいるとはいえこの子があの男に何て言われるかわかったもんじゃない。僕は彼を待つ他なかった。
「お待たせしました!」
大黒さんが戻ってきた。手には3つのソフトクリームがある。飲み物…………と言ってなかっただろうか。
「はい、はい、どうぞ」
ソフトクリームが僕とヨーヨー店の子供に配られる。バニラ味が2つに、1つだけはナッツが散りばめられたチョコ味だった。それは彼の手に。
「かんぱーい!」
大黒さんだけ楽しそうだった。ものすごい勢いでアイスを舐めている彼にいささか面食らう。一体何が目的なんだ。僕は子供に「アイスおいしいね。もうお店に戻りな。ありがとね」と言い、遠回しに逃した。それも意に介さず、自分だけチョコ味のアイスを舐める大黒さんに問う。
「それで…………、あなたはいったい」
「ああ、スイマセン! もう暑くて暑くて……」
彼は道の縁石に腰を下ろした。少し距離をおいて僕もそうした。
「ボクはココロにナミダしている人たちをお助けするボランティアなんです。紙魚河さん、あなたずいぶんと塞ぎ込んでいるようですね。ボクでよければお話をお聞かせください!」
お客を隣においてアイスを舐めるセールスマンを信用する人などいるだろうか。聞くとか言いながらペロペロぺろぺろ舌を出す姿に呆れは禁じえない。
あやしいけれど、まぁ、変な話なら断ればいいんだよな————。
「僕は……まぁ名前はご存知なんですよね。僕はこのへんに住んでるウェブデザイナーなんです」
「ほー、カッコいいですね」
「カッコいいですか? たしかに、昔はそう言ってくれる知り合いもいましたよ、もう10年以上も前の話ですがね。この仕事、需要はあるんですよ。去年だっけな、とある調査によると、日本のインターネット広告費が、テレビやラジオなどのマス広告費を上回ったそうなんです。これはつまり、ウェブのプロモーションにお金を費やすとこが増えてるってことなんですよ。だから僕らみたいなウェブデザイナーが活躍する機会が多くなったってことです。はぁ…………でもですよ、デザイナーが増えたらその分、仕事が遅いとかセンスが悪いとかで淘汰される人たちもいるんですよね」
アイスに一度も口をつけずに話した。
対して大黒さんは「はぁ、大変ですね」と一言、そしてアイスをペロペロ。
彼、決して営業成績は良い方ではないだろうな…………。
「人付き合いは面倒だなっていうクチだったんですけどね、こうしてマスク生活が始まり、仕事もリモート中心となると、やっぱり人との会話だとか、ストレスを発散する趣味が欲しくなってきちゃって」
「ふむふむ」
ペロペロ。
「ふらっと居酒屋なんかに入ったとしても、交流があるわけじゃないですからね。こんな状況なんで、誰も知らない人とは極力話さないようにしてますし」
「ですよね」
ペロペロ。
「弱りましたよ。日々の活力もなくなっちゃって……」
「ペロペロ」
どんな相槌だよ。
「僕ね、ハッキリ言って寂しいですよ」
「わかりました!」
一心不乱にアイスを舐めていたはずの大黒さんがポンっと手を打った。ヨーヨーをばしばしやりながら、笑い口のマスクを口元に戻す。
「……なんです?」
「ボクがアナタのお悩みを解決してさしあげます!」
「解決するって、でもどうやって」
「ボクにお任せください! 紙魚河さんにピッタリのサービスをご提供させていただきます。では今日のところはこれで」すっくと背筋良く立ち上がった。「大先輩が『セールスは恋と一緒。押しては引いての駆け引き』と笑って教えてくれたので」
こっちは引きっぱなしの時間だったけど。
彼は三鷹駅の方へと颯爽とした足取りで歩いていった。
大丈夫だろうか…………。
指に冷たいものが触れた。アイスが溶けてたれていた。
「あららっ」
慌てて舐めていく。
キーン————と頭が痛くなった。
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