5、湯治
◆湯治
ゆうべ、金曜日の夜は早寝をした。土曜日の朝1番にレンタカーを借りた。一泊だけなので荷物はそれほど多くない。
「それ持ってくの?」
ミナミさんは僕が必要なものを入れた鞄とは別に、棺のリュックを手にしているのを見て言った。中身の時間の流れがおかしいリュック……、死骸を入れていくらか経つと骨にしてしまう代物。
「置いていってほしいですか?」
「んー……まぁいいかー」
子供がお気に入りのぬいぐるみを旅行に持っていく…………それぐらいにしか思っていない様子だった。こんな摩訶不思議なアイテム、ハナからさほど信じてはいないのかもしれない。
少しタバコ臭いレンタカーに乗り込む。
「しゅっぱーつ!!」
明るい声とは裏腹にハンドルを握るミナミさんは緊張の面持ち。アクセルが踏まれるたびに背中を強く押される感覚だった。踏切を一時停止せずに横断したミナミさんは、数秒後、
「やば! 一時停止しなかった今! 窓も半分開けてない!」
と叫んだ。
これから有料道路でスピードを出すのが怖くてたまらなくなってきた。ただならぬ緊張感が車内にたちこめる。
「ごめん、大丈夫だよって一言言ってくれるかな……」
ぎちちっと音がするまで強くハンドルを握り締めながら、ミナミさんはなんとも頼りないことを僕に言った。
「大丈夫だと信じてます…………」
「そんな頼りないこと言うなよー!」
「すいません、無免許で!」
「あっ! 見て! 富士山!」
「前を見てください!」
休み休みでゆっくり行き、僕たちは箱根湯本に到着した。山道はこわいからと、そこから上に登らなければならない宿はあきらめ、箱根湯本駅周辺の宿を予約していた。ひとまず宿の駐車場に車を停めた。そこでようやく肩の力が抜けた。
「着いた……」
「お疲れ様です本当に……」
湯本の町の商店街を浮遊感を帯びた足取りで歩いていく。
「マヌカ蜂蜜だってさ」
「あそこで昆布を薄く研いでますよ」
「とりあえず温泉に入ろうぜ。話はそれからだ旦那」
「湯葉丼はいいんですか?」
商店街を端まで歩き、ミナミさんが僕を振り返った。
「そうだよ! いくぞ! 話はそれからだ旦那!」
件のお店はすぐそばだった。箱根の山の中腹の清水「姫の水」を使っているとのこと。優しい出汁の味に2人とも長い嘆息を放出。口の中で囁いた「おいしい」がやまびこのようにカラダの隅々にこだまする。
お店を出る。宿とは別にどこかで温泉に入るつもりでいた。無計画に箱根登山鉄道に乗り込むつもりでいると、箱根湯本駅の建物内にさつまいもスイーツの専門店を発見。
「食べたばかりだから……」
と落胆するミナミさん。「知っていますか?」と僕は切り出す。
「温泉宿に行くとおまんじゅうなどの甘味が部屋に置いてありますよね。アレって、汗を流す前にちゃんとエネルギーをとってね、ってことらしいですよ」
「…………つまり?」
「僕らはこれから温泉に入りに行きます。ええ、つまり?」
「エネルギー補給じゃ!」
食後のデザートもばっちしで、箱根登山鉄道に乗った。急勾配を登るための仕掛け…………スイッチバックを何度か繰り返し、電車は山をえっちらおっちら。たしか2年前だったはずだが、強力な台風によりこの鉄道は一部運休となっていた。いろんな人の尽力によって、こうやって僕らが山の景色を楽しめることがとても有り難い。
あえて高級旅館を選んで、僕たちは温泉に浸かった。要予約だから入れもしないのに「混浴」という2文字に目がいってしまう。隣のミナミさんは「タオルとか忘れたけど大丈夫かな」と。「大丈夫じゃないですか」と僕。
まだ日のあるうちの入浴だった。こんなに旅行を楽しいと思ったことは人生で初めてだった。いや、旅行なんてしたことはそもそもなかったかもしれない。
昔は家政婦さんとの二人暮らしだった。僕を時間通りに起こし、食事をさせ、学校に見送り、掃除し、買い物し、夕飯を作り、おやすみなさいと言う仕事の人。いや、曖昧な記憶の中で本当に彼女が家政婦だと認識しかけていたが、その家政婦とは実の母親だったのだ。揉めに揉めた離婚の際に、男に言われたらしい。「お前は家政婦みたいなもんだったよ」と。母は気が触れて、だから、家政婦になった。家政婦と旅行なんて行かない。学校行事には修学旅行なるイベントもあったが、泊まり込みでいじめられに行くのもアホらしいので、行かなかった。話し相手がいない長い永い時間の中で、僕は時間を忘れてしまった。
ハッと目覚めると、僕は温泉を出ていて、瓶牛乳の自販機前の籐椅子に座っていた。
「お待たせ」
と僕の肩をたたいたミナミさんは頬をぽっかり赤く染めていた。
「牛乳飲んでるの? 私も買おう。これは湯治客の当然の権利である」
僕は手に牛乳瓶を握っていた。結露して、もう冷たいとは言えない温度になっていた。
「苺か否か、チョコか否か、フルーツ牛乳……んんんん」
口の中に牛乳の味があった。どうやら僕は2本の牛乳を買っていたようだ。一つは飲んでしまった。いま握っているのはミナミさんに飲んでもらおうとでもしたのだろうか。
「選ばれたのは、チョコ味でした」
ミナミさんは熟考の末にチョコ牛乳をチョイス。隣の籐椅子に腰を下ろす。
「かんぱーい!」と言われるがままに瓶をぶつけ合う。
彼女は牛乳を飲みかけ、ふとやめる。僕の方へ手を伸ばす。熱い指が僕の唇に触れた。恥ずかしいことに僕は唇に白い髭を生やしていたらしい。
「お待たせ」
もう一度ミナミさんが言ってくれた。
「なぜここまでしてくれるんですか?」
思いがけないことを口にしていた。
「当然じゃない?」
彼女は牛乳を口にした。
熱が冷めないうちに山を下り、宿に向かった。
湯本の土産物屋で地酒の瓶ビールとツマミを買い込みチェックイン。素敵な宿だった。部屋に入るなりベッドにダイブするミナミさん。僕はビールなどを冷蔵庫にしまい、窓の向こうの景色をたしかめた。日が沈みかけ、山間にあるこの建物は早くも宵闇に包まれていた。暗くて分からないがかすかに川の音がきこえる気がする。
「川の流れる音がしますね」
言ってみたが、返事はなかった。どうやら彼女は寝てしまったらしい。僕は日記を書くことにして、座椅子に腰を下ろした。ペンを走らせるうちに僕まで眠ってしまう。
2人が目を覚ました時、部屋はほとんど真っ暗だった。
「いま何時?!」と飛び上がるミナミさん。「夕飯の時間だ!」
食堂に行ってみたが、どこの席も埋まっていた。見た様子だと指定席のようだ。スタッフにたずねるとリストを確認して「申し上げにくいのですが……」と衝撃の事実を告げられた。なんと僕たちは夕飯ナシのプランを申し込んでいた事が発覚。
「朝食はついてるようでよかったですね」
「そうだね」
宿の外で済まそうとしたが時間のせいもあり良いところが見つからず、夕飯はコンビニで……とあいなった。
「旅の思い出ということで」
「楽しいですよ」
部屋で全国放送のバラエティを観ながら、ご当地ビールをたしなんだ。
迷ったのは就寝時、ベッドがツインベッドだったことだ。いつも2人で寝ている理由は、ベッドが一つしかないからだった。今夜は2つある。
僕らの関係ってなんなのだろう。
当然じゃない————?
結局当たり前のように一つのベッドで眠りについた。川の流れる音が聞こえた。
翌日、朝から贅沢な食事に舌鼓。
「朝風呂入り損ねた」
と残念がるミナミさん。
「早朝の澄んだ山々の空気がとても良かったです。ミナミさんにも一応声かけたんですけど、今日はいい……って言ってましたよ」
「ホント? 誰だ、私の口を借りて嘘ついたやつは」
「返却されてますか、口」
「うん。あじの開きが美味しすぎる」
始めこそ丁寧に骨を除きながら食べていたが、最終的には頭から尻尾まで胃袋に収められた。彼女の言うとおり全身おいしかった。
チェックアウトの時間ギリギリまでゆっくりして、僕らは宿を後にした。
朝風呂に未練があったミナミさんの提案で、僕らは帰る前にも違う温泉に浸かった。
「疲れをお湯で流したところ恐縮なんですが」帰る段となった。「帰りも安全運転でお願いします」
「お願いされました」
箱根の地を去る。
「大丈夫ですよ」
強く背中を押されるようなアクセルの踏み方。捉えようによってはスキップしてるようにも思えてきた。
「寝てていいよ」
意識が途切れ途切れになっていた頃、ミナミさんが言ってくれた。
「ゆうべあんまり寝れてないんでしょ?」
「まぁ……、場所が変わるとなかなか」
「ただし私がナビが欲しくなったらこの拳で叩き起こします」
「どうか声をかけて起こしてください」
お言葉に甘えて僕は目を閉じた。
すぐに眠りに落ちた。
明晰夢を見た。
交差点を曲がってすぐのところに、死んで落ちてきたハトがいた。死んだハトはそんなところに落ちたがゆえに、交差点を曲がってきた車に何度も踏み潰される。楽しくない夢だなーと僕が信号機に腰かけ見下ろしているうちにも、ハトは何度も轢かれていく。だんだんとハトは形を失っていく。血肉も少しずつタイヤの溝にくっついて減っていき、羽根も散っていく。固まった血糊にかろうじて羽毛がこびりついているなと思うと、風で飛ばされた。もはや黒ずみだった。無理やりこの世から消されてしまった。グンと背中が下に引っ張られた。背負っていた棺のリュックが突如として重くなったのだ。僕は真っ逆さまに落ちた。地平線まで車の列が続いていた。
ドンッ————————————。
鈍重な衝撃と、短く鋭い悲鳴で目覚めた。
車の前、道の真ん中に子供が倒れていた。
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