霊柩者
1、ココドコ、ボクダレ
——————『霊柩者』
『誰も彼もアナタもワタシも
隠れて流すココロのナミダ
そっとお拭きいたします
みんなに幸せ行き渡るまで
この世の暗闇から手招きを』
今回のお客様:櫃木官(ヒツキ ツカサ)22歳。
◆ココドコ、ボクダレ
この世の中に自分の名前が書けなくなったことのある人はどれほどいるのだろうか。声が出にくくなって、詩の朗読という発声練習を経験した人は? 数をかぞえるそばから忘れていく人は? 時間の感覚が薄れた人は?
前にあてもなく自転車で街を放浪している時、警官に呼び止められたことがあった。自転車の防犯登録の確認のためだと彼は言った。
「名前は?」
慌てることなどないのに僕は言葉に詰まった。自分の名前は、当然知ってる。ただほんの一瞬忘れているだけで。
「名前は? いくつ? 学生さんかな?」
「いや、学校は行ってないです……」
名乗りを渋っていると思われて当然だった。彼はパトカーの方を振り返る。車内で待機していたもう一人が「やれやれ」といった調子で車から降りてきた。僕はやっと自分の名前を思い出した。
「あっ! 櫃木官(ヒツキツカサ)です」
早く言いなよ、と警官はボヤいた。無線に話しかける。
「警ら中のサエキより、自転車の防犯登録の照会おねがいします。ナンバーは————。所有者はヒツキ」
自分の名前を人の口から聞き、思い出したことがあって僕は口を挟んだ。
「でももしかしたらその時はまだ別の苗字だったかも」
サエキといったその警官は片眉を上げる。何か言うより先に、無線の返事でこの自転車が僕の物だと証明された。後から来たもう一人が、
「複雑な家庭なんだね」と言った。
「複雑なんかじゃありません。シンプルです」
どうしてこんな思いをしなければならないのだろうか。僕は何も悪いことなんかしていないのに。これまでも、これからもきっとしない。
「あの……もういいですかね」
「一応、身分証見せてもらえる?」
サエキが自転車のハンドルに手を置いた。
身分証…………僕は免許証などを持っていなかった。いや、辞めたばかりの大学の学生証があったはずだと財布を調べると、ありがたいことにまだ残っていた。かなり緊張していたようでサエキに差し出す時に学生証を彼の足元に落としてしまった。サエキは拾い、一瞥して僕に返す。「それじゃあ」と更に言いかけたところをもう一人が遮った。
「もう行っていいよ」
サエキは何か言いたげだった。
僕はいつまでも背中に視線を感じながらそこを後にした。どこに行くつもりだったのかも忘れ、来た道を引き返した。
それ以来、自転車はほとんど乗らなくなった。
だからわけもなく街を歩き回るプチ放浪は、もっぱら歩きでとなっていた。これがまた、自転車に乗っている時より忘我の境地に陥りやすく、知らない街でハッと我にかえることも少なくなかった。
今日の僕もご多分に漏れず、名前を知らない駅で意識を取り戻した。
見覚えのないバスロータリーに知らない人々。時間的に帰り道の途上だろう。暗くなりだした日射しにいくらか俯いて。
今日はどこだろう————。
2年だけ通った大学で同じ中国語のコマをとっていた男がいて、彼が「下北沢で飲んでいたはずなのに、気づいたら経堂の路上で寝てた」と言っていた。目覚めたら知らない街で怖すぎたと。
目覚めたら知らない街…………というシチュエーションはコワいのかと僕はその時思った。
当時から僕は毎日に現実感がなかったり、時間感覚に異常を来たしていた。呆けた昼行灯だった。プチ放浪は日常茶飯事。そんなものだから、彼の言うコワさがイマイチ理解できなかった。「下北沢と経堂だったら遠回りになっても1時間位かな」などと頭で地図を展開していたくらいだ。
今日の僕も微塵の恐怖心や驚きも無しに、駅舎へと近づき駅名を確認した。「新小平」とある。
ああ、ここか、隣町じゃないか。
切符売り場で路線図を見上げ、脳内のマップに印と線をつける。ここいらの土地は何本もの路線が通っている。プチ放浪の行く末はだいたいがどこかしらの駅周辺だった。無意識に人のいる空間を求めているのかもしれない。ただこれだけたくさんの駅があると、そこに行き着くだけで「知らない街に来た」という気持ちにさせられる。こんな場所にも人がいて、それぞれいろんな暮らしをしているのだ。路線に沿って生活の流れがある。僕ばかりがまるでヒキガエルのように、そこに止まったままだったり、ノロノロ動いたり。どの街でもさぞ流れの邪魔になっていることだろう。
新小平駅から大通り……見知った青梅街道へ出る。車が多く、踏切もいくつかあるので、いつもちょっと混んでる印象がある。この道路を東へ歩いて、そして北上すれば僕が帰る小平駅の街はすぐだ。
いったい今回はどれほど歩いたのか。何時に部屋を出た? けっこう疲れたな……、お腹も減った。
ぷくぷく小さな泡のように浮かんでくる気持ちも僕にはどこか他人事だった。
歩いて何台も車を追い越していく。
道の向こうでクラクションが鳴った。今日は車の流れがずいぶんと遅いようだ。大方すぐそこの踏切で詰まっているか、迷惑な駐車車両があるのだろうなと思っていたが、どうやら違った。
僕と同じ進行方向の車道の真ん中あたりに、赤黒い、なにかうごめくモノがあった。
宵闇が滲む鋭い西日の中、夜の国から気の早い魔物が這い出てきたのかとさえ思えた。数本の触手が、気が触れたように宙を切り裂いている。
しかしよく見ると違った。
うごめいているのは三毛猫だった。胴体から赤黒い管のような物を振り回し、4本の手脚で宙を引っ掻いている。のたうち回っていた。恐ろしい形相で牙を剥いてはいるが、吠え声も呻き声はしない。時折り寸鉄のような鋭い爪がアスファルトを掻く音がジャリジャリと聞こえてくるのみだった。
車かバイク、さもなくば自転車にでもはねられたんだ。
往来の車は道路を動き回る猫を避けるのに手こずる。僕は「血栓」という単語を思い浮かべた。車の流れを押しとどめる血まみれの猫。
このように、日が沈んだほの暗い時間帯を薄暮という。交通死亡事故が多く起きるそうだ。
あんなに苦しんで、かわいそうに————。
憐れみばかりが胸の内を占めていくのに僕は何もできなかった。
歯がゆい思いで帰路を歩きだす。踏切を越える。いつまでもあの引っ掻く音が聞こえる気がした。
何に突き動かされたのか、僕は踵を返して小走りになった。踏切に差し掛かったところで警報機が鳴った。赤の点滅の中、遮断機がもったいつけるように下りてくる。
ふと反対側にいる男に目がいった。スーツに大きなビジネスリュックを背負っている。こちらを見ているようだった。警報機のランプに目がやられ、まぶたを擦る。男は僕を見ていた。薄暗いのでよく分からないが、耳まで裂けたような口で笑っているようだ。
電車が通過していく。轟音の最中、春先の繁殖期の猫の、野太い声を耳にした気がした。
遮断機が上がると男の姿は消えていた。見間違いだったのだろうか。夕暮れ時は逢魔時とも呼ばれる。魔の物に最も逢いやすい時間。まさかな。
先ほどの現場に戻った。
猫は死んでいた。
その亡骸を目の当たりにした僕が覚えた感情は、安堵と言っても差し支えなかった。
「道路で死んじゃった猫ちゃんがどこに行くかって?」
仕事から帰ってきて部屋着に着替えたミナミさんが、更にその上からエプロンをつけながら言った。
「んー道路にはそれぞれ管理してるところがあるからね。でも基本的には市町村に連絡すると思うよ。それでその後は委託されてる業者さんの仕事になるんじゃないかな」
「はぁ……、ご苦労さまです」
「私は何もしてないよ」
「役場に勤めてるって言ってませんでした?」
「もー、言ってないよ。事務だよ、ずっと」
また間違えてしまった。同居人の…………居候としては部屋主の仕事くらい把握していなくては。
ミナミさんは広くない台所で僕と肩を並べた。同じ洗濯機で同じ洗剤で洗っているはずなのに、彼女の服からはいい匂いがする。
彼女が僕の課題が入っているフライパンの蓋を開ける。「ふむふむ」という反応。おかずと汁物を作るのは彼女から与えられた課題だった。
僕が出来たものを皿に盛る。洗い物もすすめていく。野菜を切る。ミナミさんが副菜を作る。明日の朝食の用意を少しする。そして食卓に座るまでの全てがパターン化されていた。
いただきますのタイミングで、僕はいつも思い出したように言う。
「おかえりなさい」
ミナミさん曰く、彼女が帰ってきた際に漏らさず言っているらしいが、僕はここで初めて、やっと彼女の帰りを喜べる。ミナミさん自身も夕食の段になってようやく背負っていたリュックを下ろしたみたいにリラックスする。
「今日はどこで目覚めたの?」
ミナミさんは箸をすすめながら聞いた。テレビではミナミさんが好きなナントカっていう(何回きいても覚えられない)俳優がクイズ番組に出ていた。つい1、2ヶ月前にかつてドラマで共演していたナンチャラっていう女優と結婚が明かされた時、ずいぶん嘆いていたけど、まだその俳優のことは好きなようだ。今日の曜日は別のバラエティを観ているのに、今夜はこのクイズ番組に出るという情報を仕入れたんだろう。思えば帰宅してすぐさまテレビをつけていた。
「今日は新小平でした」
「健脚だなぁ」
2箇所の距離は歩いて30分ほどだが、思い返せば僕は西側から…………小平とは新小平を挟んで反対側から歩いてきたから、もっと遠い場所まで行っていた可能性も高い。
「そこで轢かれた猫を見たんです」食事時に話すことではないが、ミナミさんは日報だとして僕のことを聞いてくる。だから僕も続ける。「まだ死んでいなくて、とても苦しんでいました」
「えーー、かわいそう……」
「ほんとに」
最後はちゃんと死んだ。
あとで課題の一つである日記にも書いておかなくて。そう、あともう一つ。
「それから、幽霊も見ました」
「えっ?!」
ミナミさんはものを口に入れて頬を膨らましたまま僕を見た。
「はい。まるで幽霊みたいな」
僕はテレビを観た。あの俳優が悩んでいる。答えはこれかな? と予想したのがあったが、その俳優と一緒に不正解だった。「あー」と少々落胆。
「いやいやいや、幽霊の話をきかせてよ!」
「大したことじゃないんですけど、踏切の反対に口が耳まで裂けたみたいになってて、笑ってる男性がいて」
「えーーっ、男版口裂け女の再来?」
男版口裂け女、という言葉がおかしくて少し笑った。
「だけどあれですね。マスクしてるのが常識の今、口裂け女もやりにくそうですよね」
「昔だったら、マスクしてる人いたら目立ったんだろうね。でも今いたら、自分のアイデンティティがゆらいじゃうかもね」
「もしかしたらですけど、普通の日常を送っているかもしれませんね」
「顔隠すのに慣れちゃったからねー、みんな」
ミナミさんは咀嚼する口を手のひらで隠しながら話す。僕はちょうど30歳になるという彼女の手に見入った。僕が学生の頃なんかに想像していた30歳はもっと老いて、意地悪で、乾燥しているはずだった。だけどミナミさんは「おばさん」などと呼ぶ気にもなれない若々しさがあった。微笑によって浮かぶ小ジワさえ気にならない。
「私……綺麗?」
声色を変えてミナミさんは僕にたずねた。
僕は笑って目を逸らし、料理に箸をのばした。
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