6、しわくちゃ


■しわくちゃ



 その男は血に塗れた包丁を手に夜の住宅街を走っていった。


 時折すれ違う通行人が悲鳴を上げる。かまわず男は走り続けた。あてがあるわけではなかった。ただ走り続けていれば目的の場所に、またはそこを示してくれるどこかにたどり着く気がしていた。そう信じていた。しかし男が求める場所は一向に現れない。やがて走り疲れて、男はその場にへたり込んだ。どのタイミングでケガをしたのか、包丁を握っている手からは血が流れていた。


 痛い、痛い。


 これも全部あの女のせいだ————。


 ある程度息を整え、男はまた走り出そうと震える脚で立ち上がる。すると後ろから若い男の声がした。


「こんばんわ!」


 男はそれが自分に対する言葉だとは思えなかった。包丁を手にした血まみれの男に挨拶する者があろうか。体力を惜しむようにゆっくり振り向く。


 誰かいた。しかし不思議なことに、かけられた声とはどうも距離感が合わなかった。十数メートル先の街灯の下、安っぽいスーツの男が立っている。


「こんばんわ!」


 まただ。ある程度の距離があるのに、声はすぐ近くでする。

 血まみれの男はそれを無視して走り出そうと前へ向き直って絶句した。後ろにいたはずのスーツの男が目の前にいたからだ。


「お伺いしたいんですが、なぜあの方を刺したんですか?」


 スーツの男はふざけた漫画調の笑い口がデザインされたマスクをしていた。背中には大きなビジネスリュック。


「オマエ、あの女の、かっ、かか彼氏か!?」


「違います。あの、あなたはあの方にお金でも騙し取られたんですか?」


 見当違いのことを言うヤツだと、血まみれの男は内心嘲けった。


「違うようですね。んー……じゃあ、痴漢の疑いをかけられて捕まり、あげく職を失ったとか?」


「ちげぇわ!! ボケッ!! オメェに関係ねぇだろ!」


 血まみれの男は包丁をちらつかせた。


「あっ、申し遅れました。ボク、大黒招吉っていいます。セールスマンやってます」


「知らねえよ!」


「ですよね。ボクもあなたを知りません。はっきり言いますとノーマークでした。お客様のリサーチ不足。完全にボクの失態です」


 大黒と名乗った男が凶器に微塵も怯まないので、血まみれの男の方が狼狽えた。


「後学のためにお聞きしているんですが、なぜあの方を襲ったんですか?」


 ほとんどヤケになって男は言い返す。


「あの女が美しすぎるからだよ! ああいうヤツはな、オレみたいな男をなんとも思っちゃいないんだ! コケにしやがって……、オレが勇気を出して笑いかけたって、バカにしたような微笑みを返すだけだ。他人をなんとも思っちゃいねェんだよ! あんなヤツは死んで当然だ! 美人は悪い奴ばっかりだ!」


 男は腰元に包丁をかまえて大黒に突進していった。


「なるほどぉ〜…………」


 大黒は少しも動じない。その様子に凶刃を手にする男の方が怯む。そして訝しむ。目の前にいる相手に向かって突進しているはずなのに、その距離が一向に縮まらないからだ。虚しく地を擦るように両足が空回る。


「おや? どうされましたか? そんなところで」


 大黒は左手をカラダの前に出す。そして宙を掻くようにゆっくり動かした。


「おいで、おいで、おいで、おいで————」


 鋭いつむじ風が吹き荒れたかのようにあたりが乾き、そして研ぎ澄まされる。チリチリと肌がめくれていく感覚が男を包んだ。かと思えば男の足や腰、胸元にじっとりと湿ったモノが触れる。それは男のカラダを物色するように這い回る。そしてケガをした手に集まる。


「彼女、ボクのお客様だったんです」


 わななく男は見た。目の前で手招きをする男の口……笑ったマスクが大きさも空間も無視して、更に笑って裂けるのを。


 男の手の傷からナニモノかが中へ入り込んだ。その途端、一際大きな弾ける音があたりに響いた。響いて、消えて、そしてそこにはもう影も形も残っていなかった。







 本を読むようになった。

 同室でベッドも隣のサカイさんという人が、ワタシに本を貸してくれたのがきっかけだった。


「読む?」


 ときかれ、ワタシが小さく頷くと、サカイさんは律儀にアルコールで文庫本のカバーを拭いた。それからベッドに乗ったままこちらへ身を乗り出す。感染症対策でベッドの間隔が広めにとられていたから、ワタシもそちらへ手を伸ばす。脇腹の痛みに耐えながら、呼吸を整え、ゆっくりと身を乗り出す。たったそんなことでも始めは一苦労だった。


 サカイさんはいつも枕元に本を積んでいた。ワタシが一冊読み終えると、また「読む?」と言って別なのを貸してくれた。いつも借りてばかりだから、ワタシもそのうち病院の図書室で本を読み、「これ面白かったですよ」と彼女に勧めるようになった。返事は決まって、「わたしも好きよ」だった。その単純な、「わたしも好きよ」という言葉が含んだ優しい響きを夜中ふと思い出して、涙を流したこともある。


 ワタシはあの日、知らない男に脇腹を刺され意識を失った。断片的な夢を見たような余韻と共に病院のベッドで目が覚めた。しばらく朦朧としていたけれど、お腹の子供は無事だときかされ、ワタシはようやく現実に戻った。


 よかった。本当によかった。


 医者から顔の火傷の痕はほとんど消えることがないだろうと告げられた。受け取った手鏡を覗き込むと、顔の半分に見事なアイロンの痕がついていた。髪の毛も無惨にほつれ、短くなっていた。


「ワタシ、きれいですか?」


 と呟くようにたずねると、医者はこの上ないほど沈痛な面持ちになり、言葉に詰まった。それとは裏腹にワタシはどこか納得したような、安心した心持ちだったから不思議だ。


「髪、短いのもいいかもしれない」


 言ってみると、医者はなんとか頷いてくれた。


 ワタシはもう顔のことはどうでもよかった。覚えてこそいないけど、夢の中で開かれたサミットにより、その話は決着がついたと分かっていた。ワタシの最重要項目はだから、お腹の中の子供になっていた。


 絶対にカラダもココロも健やかに育てあげてみせる。


 お腹も大きくなり、脇腹の傷とは別の妊婦検診で、問題なしと言われるたびに嬉しくなった。小ジワ一つなく膨らんだお腹をそっと撫でている時が何より幸せな時間へと変わった。


 4Dエコー写真なるものを初めて撮った。当然前のワタシは知らなかったけど、超音波をお腹に当てて中の赤ちゃんの様子をさぐれるとかで。正直なところ内心、超音波ねぇ〜〜と半信半疑だった。しかしいざ赤ちゃんの姿が鮮明にうつし出されると、ワタシは感激して声をあげてしまった。


「元気そうですか?」

 と医者にたずねると、数秒の沈黙の後、


「ええ…………」

 と答えてくれた。


 ある日、看護師がワタシに言った。


「腰輪さん、面会の方が来られてますよ」

「えっ? ワタシにですか?」


 ワタシにお見舞いに来るような身内はいない。誰だろう…………、入り口の方に目をやると、懐かしささえ覚える男が入ってきた。


 安っぽいリクルートスーツに大きなビジネスリュック。元気と若さだけが取り柄ですというような明るい両目。そして漫画風の笑った口がデザインされたマスク。


「失礼します!」


 こちらが面接官の気分にさせられる、フレッシュで緊張した挨拶だった。


「大黒くん! 久しぶり。どう? 仕事の方は」

「いやぁ、これがなかなかどうして」


 後ろ頭をかく大黒。面会者用の丸椅子に目をやり、合言葉のように、まるでなにか確認するようにワタシにたずねた。


「お一人ですか?」


 ワタシは膨らんだお腹を撫でた。そして椅子を指し示し、「お座りください」とわざと事務的な言い方をした。大黒もそれこそ面接を受ける学生のような仕草で腰を下ろす。やっぱりリュックは背負ったままだった。


「ご無沙汰でしたね腰輪さん。どうですか、傷の方は」


「大丈夫そうよ。ありがとう」笑って、早く退院したいと続けた。


「そうですか。お元気そうで何よりです。ところでききましたか? 思い出したくないでしょうが、アナタを襲った犯人について」


「いや……?」


 それについては、あまり知りたくなかった。警察にも「ワタシに更なる危険が及ぶ可能性がない限り何も言わないでほしい」と言ってあった。


「完全な逆恨みだったみたいです。でももう大丈夫と、ボクから一言だけ、言っておきます」


 それを聞いて安堵した。不思議と大黒が言うと妙な説得力がある。


「腰輪さんがお幸せそうで安心しました」


 キョロキョロと落ち着きなくあたりを見回す大黒。ワタシ越しにサカイさんと目が合ったのか、「あっ、どうも。大黒招吉です。セールスマンやってます、はい」と自己紹介。名刺を取り出したが、何を気にしているのか、椅子から座って動かない。ワタシはそんな大黒から名刺を取り上げ、サカイさんに差し出した。身を乗り出して物を受け渡しするのも慣れた。サカイさんはジッと名刺を眺め、積まれている本に間に挟み入れた。


 少しの間、沈黙が流れた。


「じゃあボク、仕事があるんで」


 いそいそと立ち上がる大黒。


「もういっちゃうの? 来たばかりじゃない」


「ええ。これでもボク忙しいので。…………おや、これは?」


 大黒はベッドサイドに置いてあった物に目を留めた。


「ああ、それね。見ていいわよ」


 先日撮った赤ちゃんの写真だ。是非見てほしい。


「あー、これはこれは」


 微妙な笑いをする大黒。


「シワ寄せがこっちへ来てしまいましたか」


 写真には指を咥えて眠る赤ちゃんが写っている。


「ワタシの子なのよ。美しくはないけれど————」


 顔が普通よりもっと……、まるで百年生きた老人のようにシワくちゃの赤ちゃん。


 ワタシの子。


「とってもかわいいでしょ?」


 火傷の痕と、年相応のシワが刻まれた顔で真っ直ぐ見つめ、ワタシは大黒にきいた。


 大黒は何も言わない。

 だけど、ワタシにはマスクの下の笑顔が見えた。







——————『招かれざるセールスマン 大黒招吉』

………………『シワ寄せ』

…………

……

おしまい

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