5、焦げた匂い
◆焦げた匂い
職場の給湯室で珈琲を淹れている時だった。
「よかったら私のもおねがい」
と先輩に言われ、はーいと返事をしようとした時、言葉より先に胸の底から込み上げたものに耐えきれず、ワタシはシンクに顔をうずめた。何事かと駆け寄ってきた先輩に背中をさすられる。
「ネェ、あんたもしかして————」
そんな台詞ききたくなかった。
「おめでたなんじゃなあい?」
苦しくて涙がにじんだ。何がめでたいものか。
「お相手はもしかして、映画のお相手?」
何も答えられなかった。相手など分かったものじゃない。男とそういうことになった場合、ワタシはどんなに酔っていても避妊をしていた。「別にイイよね?」なんてノリで言うやつにはビンタをかましたことだってある。記憶を辿り誰かなのかを推理しようとか、できない。みんな平等の条件だった。だから誰との間の子か分かりようがない。
他人に言わせたら、毎回違う相手じゃそりゃそうなる……なんてなるのかもしれないけど、ワタシからしたら恋人の百回と違う相手の百回に相違なんてない。たとえ愛し合ってる二人だって、避妊した一回に、そうなる可能性を見出していなければいけない。
シンクの冷たい銀色を見つめて言葉につまるワタシ。いやしかし……、頭が真っ白なのはこうなった時のことをしっかりと想定していなかったからだ。実に情けない。
「なんか、焦げ臭いです」
「え?」
「焦げてます」
シンクに反射する蛍光灯が真っ白にワタシの瞳を焼いた。
「別になにも火にかけてなんかないけど……」
「すいません。休ませてください」
ワタシは通称子供部屋と呼ばれる、キャラクターもののカーペットを敷き詰めた小部屋へ向かった。ミスをしたドライバーが説教タレの主任に連れ込まれる六畳ほどの空間だ。そこの机に突っ伏してワタシは眠りに落ちた。
遠い昔の夢なんかを見た。
ワタシのことなど1ミリも興味がなかった両親の顔は、モヤがかかって判然としなかった。寝たり起きたりを繰り返しながら、親の顔を思い出そうとしたけれど、それはかなわなかった。
起きた時、ワタシは懐かしい気持ちを抱いているだけで、なんの夢を見ていたのかさえ忘れていた。
寝て時間を過ごすという給料泥棒みたいなマネをしながらも、定時に上がり、部屋に帰ってきた。
とてもじゃないけどこれから出かける体力はなかった。
妊娠検査薬を使った。陽性だった。
高校の時だったか、一度コレを使ったことがあったっけ。相談できる人が身近におらず、校医に泣きついた記憶がある。彼女は「親切」というワードで浮かび上がる人物だった。もうアラサーじゃんとしばしば彼女に軽口をたたいていたけれど、ワタシは当時の彼女の歳を上回ってしまった。元気だろうか。
また食材を買い足すことを忘れて、ご多分に漏れず今夜もウーパーイーツを利用することにした。野菜が食べたくて、ファミレスのサラダを注文した。
カラダのメンテナンスをしようと、ほとんど習慣的にスキンアイロンの電源を入れる。毎日のことだと、伸ばすシワなんてほとんどないけれど。
ウーパーイーツのアプリで、ドライバーがどこを走っているのかを地図上で眺めながら、玄関近くの壁にしゃがんでよりかかっていた。
ほどなくしてインターホンが鳴った。スマホにも「配達完了」の通知がきた。ワタシは大きく息をついてカラダを起こし、玄関扉を開けた。いつも開けてすぐそばの床に頼んだ店の袋が置いてあるが、今回は違った。薄汚れたスニーカーを履いた足がそこにあった。何かを判断するより先にその汚い足が部屋の中に踏み込んできた。扉が乱暴に開け放たれる。
知らない男がそこにいた。目が合うより早いか、ワタシは突き飛ばされた。痛みと衝撃に耐えながら視線を上へとやると、男は閉じて施錠した扉を背に、怒りと侮蔑に満ちた目でワタシを見下ろしていた。
ワケガワカラナイ。
ワタシは台所の方へ駆け込んだ。男はそれを予想していたようだ。先回りしてワタシを押し除けた。土足だった。話が通じる相手じゃない。男はワタシがしようとしたことをした。台所の棚から包丁を取り出したのだ。すぐさまそれがワタシに向けられる。
怒りが込み上げてきた。それなのに言葉は出てこない。身勝手なコイツに千の罵倒をぶつけたい。だけど悔しいことに切れ切れの息の果てに出てきたのは、
「なんなのよッ!」
そんな短い言葉だった。それに男は答える。
「お前が悪いんだ……!」
男が一歩二歩こちらへ寄ってくる。ワタシも床を這って距離をとる。男は大股で距離を詰めてくる。ワタシがほとんど使うことのなかった包丁が、男の脂ぎった顔の横でぬらりと光った。
「なぁー、オレを覚えてるかァ……?」
なんとか立ち上がることができた。ただ「逃げる」としか頭になかった。部屋の奥まで行こうとする。どうするのかという算段を立てる前に、脇腹あたりに鋭い痛みが刺しこまれた。声を上げることもできず、足が何回か宙を蹴ったようになり、ほとんどその場に倒れ込んだ。
この男は誰なんだろう。恨みを買うようなこと、ワタシがしたろうか。これっぽっちも、みじんも覚えがない。ただ夜を堪能していただけなのに。
希望があるわけじゃない。だけど逃げるしかなくて、ベランダの方へと這いつくばっていった。強い力で肩を掴まれ、カラダを仰向けにされた。胸ぐらを掴まれて揺さぶられる。
「お前は! オレの顔を目に焼きつけて死ぬんだよ!」
痛い。苦しい。
なんで?
ワタシが飛び越えていった夜のどこかにこの男がいたのかもしれない。けれどワタシは誰とも連絡先を交換しなかったし、ましてや相手の顔や名前を記憶に刻むようなことはしなかった。しかしワタシには、仮にこの男がいつかワタシと言葉を交わして、時間を共にした誰かだとは思えなかった。ワタシにとっては泥臭すぎた。
「わかったかぁッ!!」
意識が朦朧としてくる。痛みがするあたりから熱がじんわりと広がっていく。そして逃げていく。寒気がした。出血しているからだ。
床に捨てられるように放られる。男はどすどすと足音を立てて部屋を出て行った。助かったと思ったのも束の間、脇腹の痛みが増していく。
助かってなんかいない。はやく救急車を呼ばなければ。
部屋の向こうで誰かの悲鳴が聞こえた。その声の主がワタシと同じ目に遭わなければ警察に通報してくれるだろう。けれどそれまでもつだろうか。傷口を押さえる指の隙間から熱いものが漏れているのがわかる。どうにかして助けを呼ばないと。
スマホは食卓の上にあるはずだった。しかしどうしたってそこまでいける力はなかった。叫びを上げようと試みるが、息を吸うと脇腹に激痛が走る。
ダメかもしれない————。
目を閉じると、お腹に宿った小さな命のことが思い起こされた。
まだ名前もない小さな命。
「勝手に作られて、勝手に一人にされて、勝手に終わらせられるなんて、むごいよね……」
ワタシはいい。勝手に両親に捨てられたけど、なんとかできた。生きてきた。
この子だけでも生かさなきゃならない。
視界が光でチラつく。
「一人にさせないからね」
寂しい思いはさせたくない。ましてや日の目も見ずに終わるなんて。この子には、最悪一人っきりになっても生きていく権利がある。助けなければならない。
命が焦げる臭いがした。それはトラウマによる錯覚だと承知していた。ボヤけてきた視界の隅に、ローテーブルに乗っているスキンアイロンが映り込む。アレは電源が入っている。昔、ヘアアイロンで失敗して盛大に髪を焦がし、火災報知器を鳴らしたことがあった。この部屋の報知器は煙を感知するタイプだと知っていた。駆けつけた消防隊員に「古いし、埃もたまってるかもしれませんから替えてください」と言われて、けれどずっとそのままだった。
もう一度作動してくれるだろうか…………?
うめき声を上げながらローテーブルまで這う。アイロンのコードは外れやすいマグネット式だ。気をつけなかければ。些細な動作も傷に響く。ワタシは死力を尽くしてアイロンに手を伸ばした。喉に込み上げるものがあった。鉄の味が口いっぱいに広がる。半端に指に引っ掛けたアイロンがワタシの顔に落ちてきた。
「キャァァーーーーーーッ!!」
さっきは出そうとしても出なかった声がカラダの奥から絞り出される。シワのない顔をアイロンは容赦なく焼いた。
口からは血反吐を吐き、目からは涙が溢れた。
今の叫びで誰か来るだろうか。ダメだ、期待しちゃいけない。一刻を争ってるんだ。ワタシは振り乱された髪にアイロンをあてがった。強烈な匂いが部屋に充満していく。煙を立ち上らせる髪の毛。燃え上がろうと火が輝くとワタシは手で握り消した。そしてまた煙を出す為に焦がす。死に物狂いで何度も何度も繰り返す。やがて火災報知器がけたたましく鳴り響いた。ワタシはアイロンを放って、コードを抜いた。
しばらくしてサイレンが聞こえた。部屋の中を赤色灯がリズミカルに照らす。その度に、ワタシの目の前で真っ赤に広がる血液が鮮やかに光った。
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