3、フットインザドア


◆フットインザドア



 その日の夜、ワタシは迷っていた。


 外は雨が降っている。シワが理由ということではなく、元々雨の日はほとんど出かけない。傘は嫌いだ。さして歩くのも煩わしいし、雨が止んだら止んだで、途端に荷物になるのも嫌い。しかしワタシは夜に繰り出すかどうかを迷っているのではなく、目の前にあるモノについて。


 持ってきてしまった。


 戦略的(?)に大黒が忘れていったスキンアイロンを食卓に置いて腕組みして睨めつける。


 デザインは古めかしく無骨。持ってみたら予想の倍は重たかった。人を殺める凶器にもなり得る。漬物石にも。誰かを殺めてその死体に結べば海底までの片道切符にもなるはず。


 はぁ? こんなものでシワがねぇ〜〜。


 美容整形などを試さず、はじめにこんなモノに手を出そうとしていることが我ながら可笑しい。バカらしい。アホらしい。


 高校の時だったか、胸の大きさに悩む友人が「1ヶ月で2カップアップ!」と謳ったうさんくさいサプリのケータイ広告を、深刻な顔で見ていたことがあったっけ。


 あのコ、あのサプリメント買ったんだろうか。突然バイトを始めてはいたけど。


 いつまでも物言わぬアイロンを睨んでいてもしょうがないので、とりあえずたまった家事をこなすことにした。しかし、何をしようと頭と視界の片隅にはアイロンがあった。ずしんっ、と食卓に乗ったスキンアイロンはワタシの挙動を観察してくる。ワタシは軽量のスチームアイロンを使ってハンガーにさげられている服のシワを伸ばしていく。


 スチームアイロンを買った時、本当にこんなものでシワが伸びるのかと疑ったものだった。蒸気でシワ伸ばしなんて想像もつかない。ちらりとスキンアイロンを見やる。今更あんな型落ちが役に立つものか。しかも服と肌じゃ話が違うし。


 夕飯の支度をしようと食材を確認するが、悲しいかな、冷蔵庫には何もなかった。じゃあ買い物に行こう! とは1ミリも考えず、デリバリーの一択。スマホでウーパーイーツのアプリを起動する。特に食べたいものはなかったけれどバーガーショップのワックが配送料無料のキャンペーン中だったため、ハンバーガーに決定。


 配達を待つ間、缶チューハイを飲む。食材はないがお酒はある。ワックはすぐそこにあるから、いくらも経たないうちに来るだろう。


 スキンアイロンを手にしてみる。何度持ってもやはり重たい。そういえばこれ、貰うのはタダだったけれど、粗大ゴミとして棄てるのはお金がかかる?


 大黒、持ってってくれないだろうか。


 でもその前に、ちょっと使ってみようかな……?


 じゃあ、電源を————ん?


 アイロンからのびているはずのコードが見当たらない。たしかにコード式だったはずだ。よく調べてみるとどうやら取り外し可能なマグネットコードらしい。思い返すと車にコードはなかった。大黒、忘れたのか。


 スマホが鳴った。確認すると「まもなく商品がお届けされます」とのこと。


「はぁ…………」


 わざと大袈裟なため息をついてアイロンを置く。


 インターホンが鳴った。恐らくウーパーイーツだろう。置き配を指定しているから、配達完了通知が…………今来た。ワタシは玄関に向かい、サンダルを飛び石にして立ってドアノブに手をかける。そこでもう一度インターホンが鳴った。


 ノブに手をかけたまま固まる。


 まだいるの?


 見てみようとドアスコープを塞ぐように貼っていた水道修理のマグネット広告をズラす。目を近づける。途端、魔物の口がワタシを丸呑みにしようと大きく開けられたかのような映像が浮かんだ。


 アイツの声がした。


「腰輪さん。大黒です。ご注文の品をお届けに参りました」


 は? なんだって?


 チェーンをかけ、ドアを開ける。大黒招吉が立っていた。手にはワックの袋。頭の上にはウーパーイーツのロゴが入ったキャップをかぶっている。スーツ姿にそれはかなりの違和感だった。


「アンタ、家まで押しかけてくるなんて……。しかも配達員だったの?」


「はい! いろいろ経験してみようと思いまして」


「副業ね。でも置き配指定のはずだけど?」


「そんな水臭いこと言わずに。まぁネタバラシしますと、実は表まで来ていた本当の配達員からボクが受け取って来たんです。腰輪の家に届けるなら、それはボクのですと言ったらすんなりくれました。不用心ですね」


 勝手な事を、大黒も、配達員も。


「アンタは外で何やってたのよ」


「ご近所の目もあるんで、よかったら、あのう……入れてもらえませんか?」


「入れるわけないじゃない」


「そうですか…………、腰輪さんのお役に立とうと思ったんですが」


 大黒は後手にリュックからある物を取り出した。

 スキンアイロンのコードだった。


「たくっ……」


 普段ならありえない。だけどなぜなのか、心変わりした。初めてになるだろう。男……、他人を家にあげるのは。


「分かったわ。入れるからちょっと待って」


 チェーンを外すため一旦ドアを閉めようとすると大黒はずいっと足を挟んできた。


「これは、フットインザドアという交渉テクニックです! 大先輩が「時には強引に」と笑って教えてくれたものでして……」


「だから開けるから一旦閉めるってんだよアホ!」


「あ……」


 アホな大黒を部屋へと上げた。


「おっ、おじゃまします……」


「そんな初めて女の部屋入った高校生みたいな反応するな。じろじろ見回すな」


 入れたからには、コードを置いてとっとと帰れとも言えない。


「なんか飲む?」


「チューハイ飲んでたんですか? あ、じゃあボクとりあえずビールで」


「居酒屋みたいな頼み方すんな。それに仕事中じゃないのアンタ」


「いやぁ、ボクは仕事が私生活みたいなものでして」


「照れながら何を言ってんのよ。遠慮がちかと思えば無遠慮に。ゆとり世代か」


「ゆとりを悪く言うということは、つまり腰輪さんは違うんですか?」


「アイロンで衝動的に人を殴って殺す、というシーンから始まるドラマが昔あったわね」


「いやいやいや、殺人をほのめかさないでください!」


 舌打ちをして冷蔵庫を開ける。困ったことにビールはあった。本物のビールと、第三のビールと呼ばれる発泡酒。発泡酒を取り出して食卓においた。礼を述べて、大黒はすぐにビールを口にした。


「あー! やっぱり勤務中のビールは最高ですね!」


「そこは普通、勤務後の……でしょ。初めてじゃないんかい」


「言ったじゃないですか。ボクは仕事が私生活みたいなものだって」


 大黒はリラックスしたように椅子にもたれて、部屋を見回した。


「だから見るなって」


「スミマセン。でもずいぶんとシンプル……というか、あっさりというか、…………っていう部屋ですね」


「ピンクの水玉カーテンに、衣装箪笥の上には家族写真とテディベアが飾ってあるような部屋を想像してたの? 童貞かよ」


「ズバズバ言いますね!」


「ズケズケ来るからよ!」


「それにしても実用的、いや実用性しかない部屋に思えまして。なにかワケがあるんですか?」


 なんて無遠慮なやつだ。

 ワタシも似たようなものか。


「他に何も要らないの。ワタシひとりだけいればすべて済む。ワタシの生活は」


「散々夜遊びしているようですが、ご家族は?」


「さぁ、いるんだかいないんだか。知らないわ。自分から増やす気もないし」


「お寂しくないですか? 夜毎襲ってくる孤独感に耐えかねて、んっ! なんてことは」


 大黒はいつのまにか首吊り結びにしていたアイロンのコードで、窒息するモノマネをした。ワタシは大黒からコードを引ったくる。


「その前にアンタを殺してやろうか! ワタシが死んだ後も寂しくないように!」


「わー! スミマセンスミマセン! ほら、怒るとシワが増えますよ」


「テメェ…………!」


「でもご心配なく! このスキンアイロンがあればどんなシワもパリッと伸ばせます! あ、そうそうせっかくなんでハンバーガーも食べましょう」


 大黒は食卓にハンバーガーやらポテトを広げた。たしかに自分の分だけ頼んだのになぜか大黒の分もある。なぜ…………といちいち驚いていたら話が進まない。たまたま店側が間違えたんだ。


 大黒はトレードマークであろう笑い口のマスクをさっと外した。


 あ、絶対に素顔を見せないキャラクターとかこだわりはないんだ。変なマスクだったからてっきり。


 彼は普通の顔だった。人気アイドルグループの一番人気が無い地味なメンバー……という印象。ワタシがまじまじ見ていると大黒は噛むのを止める。


「あっスミマセン、自分だけさっさと食べちゃって。お腹減ってまして」


「大先輩とやらにはマナーは教わらなかったのね」


「はい! 大先輩は「そのままでいなさい。きっとお客様の心を掴むキャラクターになれますよ」と笑って言ってくれたんです」


「こんなやつが野放しになってるのはソイツの責任でもあるわね」


 えへへ、と大黒が照れた仕草をした。ウチの職場のおばさんが好きそうな感じだ。ワタシは違うが。褒められ(た気になって)、大黒はご自慢の商品の準備を始めた。コードとアイロンを繋ぎ、そして電源を探している。空いているところが見当たらず、既に挿してあるところを無断で挿し替えた。冷蔵庫のだよそれ————とつっこむ気にも最早なれず、ワタシはそのコードを優先順位の低いものと挿し替えた。


「さっ、あったまりましたよ! どうぞ腰輪さん」


 熱い面をこちらに向けたまま大黒はアイロンを差し出してきた。こいつは人を突き刺すモーションでハサミを渡してくるタイプの人間か。


「ほんとに熱くないんでしょうね?」


「はい! シワがあるところは大丈夫です!」


 こんなことするなんてどうかしてる。これで大火傷したら冗談でなくこいつを殺しかねない。


 左手を食卓につき、その上、ちょっと離してアイロンを持ってくる。パンジーと虫眼鏡の思い出が想起される。じんわりと手のひらが熱くなってきた。錯覚なのだろうか。こんなもの押しつけて熱くないわけないのに。


「ボクが後押しさせていただきます」


 パチッ! と部屋の照明が一度瞬いた。


 大黒が右手を宙に差し出す。そしてゆっくり、空気を混ぜるみたいに手招きを始めた。


「おいで、おいで、おいで————」


 大黒のいるあたりが霞みがかったかのように暗くなる。地面が傾いたような、または片足を沼に呑まれるような感覚だった。


 催眠術の類いか? 口の中がかわく。記憶のアルバムを無造作にめくられているかのような不安に駆られる。


 綺麗にならなきゃ。

 シワを伸ばさなきゃ。


 ごくりと生唾を飲み込んだところで、大黒が突如奇声を上げた。


「ぴゃーーーーー!!!!!」


 ガツンと棍棒で頭を振り抜かれたかのような衝撃。


「な、なによ!?」

「スミマセン! ボクなりにタイミングをはかろうと思って……」

「びっくりした。なんにしても「ぴゃー!」は違うでしょ」


 妙な手招きで行動力が招かれたのかなんなのか、不思議と心は決まった。


「火傷したらアンタを燃やすからね」


 ワタシはアイロンを持つ手に力を込めた。

 やってみよう。

 100%の美しさに戻るんだ。

 指の関節を伸ばすイメージでスキンアイロンをあてがった。顔が歪む。ワタシの顔は醜くシワくちゃに歪んで…………あれ?


「あつくない……」


「はい! 情熱では火傷しないんです」


 にんまり笑って? 大黒はワタシの手……には触れないようにアイロンをどかした。ワタシの左手、伸ばした指の関節にあるシワがつるんと無くなっていた。曲げ伸ばしを何度も繰り返す。不思議なことにシワはできない。


「すごい……!」


 婚約指輪をはめられた女の仕草で左手を眺める。


 アイロンを持ち替え、右手も同じようにした。熱は感じない。しかしシワは伸びた。


「これの性能、わかっていただけましたか?」


「ええ!」


「では本命のお顔のシワといきますか。メイクを落として洗顔してからやってください。このアイロン、シワがあるところには熱くなりませんが、シワがないところには絶対に使用しないでください。ウッカリ髪の毛なんかを焦がさないように」


 大黒は玄関の方へと。


「どこ行くの?」

「帰ります。引き際です、引き際」

「大黒くん」


 ワタシは大黒を呼び止めた。くん、なんてつけてしまった。


「フットインザドアっていうのは、ドアに足を挟んで……っていう由来があるけれど、意味としては、初めは小さい要求を相手に飲ませて、徐々に要求のレベルをあげていき、最後に本来の要求を呑ませるってテクニックのことよ」


 彼は思案するように首を傾げる。


「はい! 合ってますよ! では、またよろしくおねがいします」


 合ってる?


 ふと焦げくさい臭いが鼻をついた。手元に垂れた髪の毛がアイロンのかけ面にふれ、そこが焼け焦げて薄く煙を出していた。慌てて髪の毛を離す。シワがあれば熱くない。裏を返せばシワがないところにはアイロンとして本来の高熱を発するわけだ。使用には注意しないといけない。


 ワタシはそれからカラダ中にアイロンをかけ続けた。指の関節やひざなど、シワが寄って当然のところなど。


 そして最後に、目尻のシワに。髪の毛を後ろに結って、できうる細心の注意をはらってアイロンをあてがう。アイロンの先端の尖っている部分を、慎重に……。


 こんなに集中したのはいつぶりだろうか。アイロンをおく。集中して重みを忘れていたみたいだ。腕がパンパンになっている。しかしそんなことは苦じゃない。


 ワタシの目尻からシワは消えてなくなった。


 ワタシは完璧な美しさを取り戻した。シワというヒビ割れからの美しさの流出が止まった。全身をくまなく、隅々まで美しさが駆けめぐる。ノーメイクでも非の打ち所がない美貌を、ワタシはずっと眺めていた。夜が更けるまで見惚れていた。飾りが一つもない実用性しかない部屋で、たった一人、完璧な美しさでワタシは存在していた。


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