第93話 用水路の記憶


 広田和也ひろたかずやが新しく越してきたアパートのそばには水路が流れていた。

 近くにある田んぼに水を引くための用水路だろう。

 側面がコンクリートで埋め立てられた味気のない水路とは違い、形が不ぞろいな石が積まれたもので、かなり古いもののようだ。

 雨でも降らないかぎり日頃は水のかさもそれほど多くはないが、深さはかなりあった。水路に降りたら、大人の男性の肩のあたりに道路が来るくらいの高さになる。

 その水路の両側には歩道があり、道を挟んだ両側におよそ十軒ずつくらい、家やアパートが建っていた。

 アパートは水路に直角になるように建てられており、窓の前にはすぐまた別のアパートが建っているため、景観はあまりよくない。

 ただ転居を決めた二階の端のその部屋は、ギリギリ和室の窓から水路が見えた。

 夜に窓を開けておくと、水路の流れに街灯の光がきらきらと反射するのが見え、せせらぎが耳に心地よかった。

 羽虫が多いことだけは不満ではあるが、この眺めはそう悪いものではない。

 仕事終わりにビールを飲みながら、窓を開けたままで過ごすのがすっかり定番となりつつあったある日、大家がやって来て「住み心地はいかがですか」と聞いてきた。

 アパートの隣の家に住む大家は80歳近い男性だ。

 ゴミ捨ての曜日やルールをまとめたミニポスターをもらいながら、とくに問題はないと答えた。

 それだけだとなんとなく不愛想に思われる気がして「和室からの眺めがいいですね、水路が見えて。仕事終わりの癒しですよ」とつけ足して答えると、大家の表情があきらかに曇った。


「窓を開けてるんですか?」

「え? ええ……」


 誰だって窓くらい開けるだろう、と訝しんでいると、大家はさらにこんなことを言ってきた。


「なるべく夜は開けないほうがいいと思いますよ」


 なんとなくではあるものの引っかかる物言いだった。

 理由を訊ねると「防犯が気になりますから」と、ごもっともなような、それでいて奥歯に物が挟まったような台詞が返ってくる。


「寝るときは閉めてますから、泥棒とか、そういうのは大丈夫ですよ」


 和也がそう答えると、大家はどこか居心地が悪そうな雰囲気であった。

 どうやら大家は夜の間に窓を開けてほしくないらしい。

 しかし和也に対してそれをはっきり言うことはなかった。大家は当たりさわりのない世間話をしつつ、妙によそよそしい態度で帰って行ってしまった。

 どうにも腑に落ちない対応であった。

 このあたりは閑静な住宅街で、水路の両側の道も細く、車の出入りもない。

 夜になると人通りはほぼなくなるような立地だ。退屈な男の独り暮らしで、覗き見される危険もないのに、なぜ窓を開けてはいけないのだろうか。

 それからなんとなく窓のことが気にかかるようになった。

 しばらく仕事の行き帰りに水路の周辺をよく観察すると、あることに気が付いた。


 偶然かもしれないが、アパート周辺の建物にはのだ。


 もちろん、全くないわけではない。

 ただ、がないのだ。

 玄関が水路に面している家はある。しかし、窓はない。

 あってもごく小さな明り取り用の窓で、ステンドグラスやすり硝子が嵌め込まれていた。一軒だけ住人のいない廃屋と思われる家があり、そこにはごく普通の窓があるのだが、内側から明らかに家具でふさがれていた。

 すると、こういうことになるだろうか。

 このあたりの人々は、水路の間近で生活をしているのに、どうやら誰も水路を見ないようにしているのだ。

 そのことに気がついたときは、難解な数学の解がいきなり現れたような新鮮な驚きがあった。

 それから、じわじわと不可解さが忍び寄ってきた。

 この辺りの人たちがなるべく家の中から水路を見ないようにしているのはわかる。だが、なぜなのかというと、まるで答えが見当たらなかったからだ。

 解を得た日、アパートの部屋に戻り、部屋をよく観察した。

 和也の住む部屋にも窓の法則は当てはまるようだった。

 水路がよく見える和室の窓と、キッチンの窓はすり硝子。和室の隣、居間とベランダを区切る窓は水路が見える下半分だけにすり硝子がはめこまれていた。

 ただの偶然かもしれないが、なんとなく薄気味悪さを感じて、その日から夜に窓を開けっ放しにするのはやめた。

 それが春の終わり頃のことだった。

 夏場、窓を開けたい、涼し気な水路の音を聞きたいという気持ちをこらえながら過ごし、秋も深まったあたりのことだった。

 近所に新築の家が建った。もちろん立地的にその家も水路に面しているのだが、驚いたことにこの家には窓があった。それも水路に面した大きめの窓だ。

 噂話によると、家主は他の地区の出身とのことだった。

 どうやら、彼らは窓の法則を知らないらしい。

 和也はどうなることかと注意深くうかがっていた。

 もちろんそうは言っても、堂々と近所の主婦の井戸端会議に加わるわけにもいかない。

 ただただ家の様子を外から気にかけるだけだ。

 しかし、転居から一週間もしないで変化は現れた。

 玄関そばの大きな窓にカーテンが引かれたのだ。

 それから数週間ほどで、窓はステンドグラスが嵌め込まれ、開閉できないものに取り換えられてしまった。

 ステンドグラスは雰囲気に合わせて落ち着いた色調で整えられていたが、むだのないモダンなデザインの新築一戸建てにはあまりにも取ってつけたようだった。

 いったいなぜ、この地域の住人はこうまで水路を嫌うのだろうか。

 その日、出勤時に新築の家の前を通りがかると、見知らぬ若い女性が写真を撮っていた。それもスマホカメラではなく本格的な一眼のデジタルカメラだ。

 しゃがんだり、立ったり、位置を変えて何枚も写真を撮影している。


「あの……すみません」


 声をかけると、よほど集中していたのか、女性はびっくりした表情で振り向いた。

 ショートヘアがよく似合う女性だった。メイクも服装も都会的で、田舎町には似合わない感じだと和也は思った。


「この家の知りあいの方ですよね? このあたりじゃ見かけない顔だなと思って声をかけさせていただいたんですが……」

「ああ、すみません。私、グラスアート作家の宮川と申します」


 女性はそう言ってポーチから名刺を取り出した。

 宮川五依里みやがわいより、という名前とともに、グラスアート工房の住所が書かれていた。


「あっ、もしかして、この家のステンドグラスの……」

「はい、こちらは私が作らせてもらったもので、ホームページに掲載する写真を撮影していたところだったんです。家主の方にも許可をいただいています。でも、いかにも不審者っぽかったですよね、ごめんなさい」

「いえいえ、とんでもない。こちらこそ、不審者扱いしてすみませんでした……」


 お互いに頭を下げながら、和也はもしかしたらこれは水路の謎を解くのにちょうどいい機会なのではないかということに気がついた。


「あの、差し支えなければでけっこうなんですが、こちらのお宅、前は普通の窓でしたよね。どうしていきなりステンドグラスにしたのか、知っていたら教えていただけませんか?」


 いきなりそう問われた宮川は不思議そうな顔をしている。

 質問の意図がわからなかったからだろう。


「え? さあ……ただ、目の前に水路があるのが少し気になるから、視界を遮るようにしたいとだけしか聞いていませんけど……」

「そうですか、妙なことを聞いてすみませんでした」


 他人の家の事情を探るうしろめたさに、和也はすぐにその場を離れた。

 しかし、彼は心の中で深く納得していた。


 やはり問題はなのだ。

 あの水路には何かがあるのだ。


 ただ、それがわかっても、この問題について大家や近隣の住人に直接聞いて回るのはうまいやり方ではない気がした。

 おそらく大家のあの態度がそう思わせているのだろう。

 彼は休日になると、近くの図書館に出かけていき、用水路のことを調べてみることにした。

 郷土資料を中心に、地名や住所で検索をかけてみた。窓や水路に関する習俗についても調べてみた。だが、目ぼしいものは見当たらない。しかし地元の新聞社の過去記事に、ちょうどあの水路で起きた事故のことが書かれているのを見つけた。

 台風の翌日、増水していた水路に、近くに住む家の六歳の少年が飲み込まれ、そのまま帰らぬ人となったという記事だ。深夜に起きた事故で、なぜ夜間に少年が用水路へと近づいたかなど詳しい事情については、どこにも書かれていない。

 確かに不気味な記事ではあるものの、二十年以上前のごく小さな記事で追加の報道もなく、どうにも尻切れとんぼなところがある。

 たしかに痛ましい事故ではあるが、どうして水路のそばに暮らす家々に軒並み、水路に面した窓がないのか、その説明にはなっていない。

 和也はなんとなく拍子抜けした気分になって帰宅した。

 こんなことで休日を使い潰すなんてばかばかしいと思いながら、和室の窓を開けた。少しだけ換気をするだけのつもりだったのだが、何となくそれまでとは気が変わって、窓を開け放ったままにすることにした。

 彼はそのまま和室に布団を敷いて、眠りについた。


 その夜、夢を見た。

 暗い夜の夢だ。

 外は暗く、街灯の明かりがぽつんと見えるだけ。

 ごうごう、とひどい音が間近で鳴っていた。

 視界がぐらぐらと揺れる。

 カッパを着た少年が雨のなか自転車をこいでいる。

 どこかに行こうとしている。

 行かなくちゃいけないんだという強い気持ちがある。

 少年が目指しているのは、この道の先にある祖父母の家だ。

 少年の自宅はそこから離れたところにある。いまは廃屋になっているあの家だ。そこで妹が高熱をだして、苦しんでいるのだ。両親は地域の行事で出かけていなかった。夢だからだろうか。そういうことが、まるで手に取るかのようにわかった。

 妹のことで心が占められ、前方確認がおろそかになっていたのだろう。

 少年が運転する自転車の前輪が、何かの出っ張りに引っかかった。

 道の端に置かれたブロックのようなもの。

 速度がついていた自転車は大きくひっくり返り、少年は投げ出された。

 水路には柵がついていたが、少年の体はその下をすりぬけて水路へと転げ落ちる。

 そのとき、夢をみている和也の視点が少年のそれとぴったりと重なった。

 増水した水路はもの凄い勢いだ。

 かろうじて石の隙間に手がかかったが、いまにも飲み込まれそうだった。

 少年は助けを呼ぼうと口を開くが、大量の泥水が流れこんでくる。


 だれか。だれか助けて。


 必死に声を上げるが、だれも来てはくれない。

 少年は助けの手を求めて、周囲に視線をめぐらせる。


 たすけて、たすけて。


 その目が見つける。


 ……。


 少年は夜中に開いている窓をみつける。

 それはアパートの二階の、角部屋にある和室の窓だった。

 窓の向こうでは、一人暮らしの男が眠っている。

 ほんの数メートル先で少年が溺れかけているなどと思いもせずに。


 たすけて、ぼく、しんじゃうよ。

 おねがい、たすけて!


 奮闘むなしく、少年は濁流に飲み込まれて、二度と水面に上がってくることはなかった。



 目覚めた後、窓の向こうには朝日に照らされた住宅街の風景があった。

 それ以来、和也は夜に窓を開けるのをやめている。

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