・与那覇近況


 安アパートの一室は荒れ果てていた。

 洗濯や掃除など、家事は行き届かず、闇が押し迫るような時間帯になっても明かりひとつつかない。

 しみだらけの畳の上に座している若い女は、何もかもに疲れ果てているようにみえる。痩せて、着ているものはくたびれ、同じように疲れ果てた小学生の長男は、母親のひざに取りすがるようにして眠りこけていた。


「怪異……コンサルタント……?」


 乾いて罅割れた唇から、慣れない響きが漏れ出た。

 光のない瞳が、ちゃぶ台のむこうに座った人物をかすかにうつしている。

 夕暮れとともにアパートを訪れた人物は男とも女ともつかないような不思議な容姿をしていた。しかしどのような容姿であれ、高級ブランドのジャケットを着たセールスマンは彼女にとっては幻想のものだったろう。


「はい。この度はまことにお得なプランをご用意させていただきました」


 彼は銀色のアタッシュケースから薄いパンフレットを取り出してみせた。

 クリーム色の表紙には、ほがらかに笑っている家族がハートマークを囲み、手を取り合っているチープなイラストが描かれている。


「こちら、最新の怪異医療のご案内となっておりまして、ただいま非常に格安となっております。大学病院で臓器移植をお待ちになられている次男様にぴったりですよ」


 三池沙代里は黙ったまま、パンフレットからはわずかに外れた、あらぬ方向を見据えている。

 彼女が難病の息子を抱えて、路頭に迷っていることはすでに調査済である。父親には逃げられて、必死に集めた寄付金は医療系のNPOにだまし取られ、病院で移植を待つ息子はただ天命を待つばかりの日々だ。


「このプランはドッペルゲンガーを故意に発生させて、その臓器を移植に用いる画期的なものです。臓器提供までの待機期間も拒絶反応もなく、違法なブローカーに大金を支払い警察の捜査におびえる必要もありません。さすがに国内では施術できませんので、海外に出てもらうことになりますが……」

「でも……うち、お金なんかもう一銭もありません」


 三池沙代里は絞り出すような声音で言った。その体はか細く震えている。怒りによるものか悲しみによるものなのか、あるいはそのどちらもか。容易に切り離せない感情が、その暗い瞳のなかに渦巻いている。


「では……お金は必要ない、と言ったら……どうでしょう。無料です」


 与那覇は薄っぺらな笑みを顔面に貼り付けたまま、言葉を重ねる。


「渡航費も手術代も必要ありません」

「そんな都合のいい話、あるわけないでしょう」

「もちろんこちらもビジネスです。少しばかり私の仕事に協力してもらいたく存じます」

「仕事って……違法なことですか……?」


 そうたずねたときの三池沙代里は、無料だと言われたときよりも前のめりになっていた。何事にも代償がともなうものだが、それはむしろ代償があるほうが安心できるからかもしれないと与那覇は思った。


「その通り、犯罪行為です。こういった性質の交渉事ですから、多少のリスクは負ってもらいます。でも息子さんの命が助かるなら安いものですよ」


 三池沙代里は迷っているふうだった。

 でも迷っている人間を落とすほうが簡単だ。迷いの中には選択肢がある。人間はどんな窮地にあっても、希望を夢見ていたいものなのだ。


「三池さん、こうして目の前に助かる方法があるのに……みすみす逃していいんですか。息子さんに、ただ黙って死ねとおっしゃるんですか?」

「何をすればいいんですか」


 与那覇は微笑んだ。あまりにも簡単な狩りだったからだ。


「九州の片田舎に、ちょっと厄介な爺さんが住んでいましてね。その家からある品物を持ち出してほしいんです」

「それをしたら、本当に息子を助けていただけるんですね」

「ええまあ」

「だったら、わたし――」


 与那覇は決断の言葉を言いかけた沙代里の言葉を遮る。


「ただし、やるのはあなたではなく、彼です」


 差し出された人差し指が、眠りこける子どもの頭を示していた。





 田舎の邸宅は思いがけず広々としたものだった。母屋と離れ、大きな庭と納屋、そして古い蔵がある。

 西古見にしこみ、と表札のかかった邸宅から賑やかな声が漏れ出てくる。

 母屋のほうからは、たくさんの大人たちの話し声と、子どもたちの駆け回る音がする。

 その合間を縫って玄関先に現れた主婦は、突然現れた与那覇にも、にこやかに応対に出る。


「もうしわけありませ~~ん。せっかく来ていただいたのに申し訳ないんですけど、おじいちゃん、今日は腰が痛いから誰とも会いたくないって……」

「そうですか。残念です」

「わがままですみませ~~ん。いつもは、飛び込みのセールスでも、話くらいは聞いてあげるんですよ。今日は機嫌が悪いのかしら」


 彼女は怪異コンサルタントという仕事をまるで理解していないらしい。牧歌的な風景に、与那覇は自然と微笑んでいた。


「いえいえ、こちらはお願い申し上げる立場ですので。それにしても、今日はにぎやかですね」

「ええ、地域の皆さんの集まりなんですよぉ。それと、おじいちゃんの親戚筋の方が結婚のあいさつにいらっしゃる予定で、朝から大騒ぎ!」

「それは大変なときにお邪魔してしまったようです」

「入ってお茶だけでも飲んで行かれませんか?」

「いいえ、このままおいとまいたします」


 与那覇は軽く頭を下げ、長いアプローチを門まで引き返していく。

 その途中、ふたつ並んだ大きな蔵に目をやる。

 西古見博士にしこみひろしは陰陽術の大家であり、この地域の重役だ。そして怪異にまつわる様々な道具の収集家でもある。

 西古見氏が仕事で必要ないくつかの道具を抱えていると知り、与那覇はすぐに目をつけた。

 しかしその収集庫に近づくのは容易ではなかった。

 収集品が納められた蔵には、子どもたちとヨーカイザーとかいう不気味な道具で遊んでいるじじいではない、彼の陰陽家としての実力が施されている。与那覇のような下心を持つ人物が一歩でも近づけば、文字通りだ。

 門をくぐり、のどかな田舎道を歩いていると、前方から家族連れが近づいてきた。

 田舎の風景には似合わぬ、きちんとしたジャケット姿の父と小奇麗な母、お仕着せを着せかけられた男の子は三人である。

 与那覇とすれちがうとき、父母は目礼をしてみせた。

 三人が無事に門をくぐったのを見届け、与那覇はめずらしく勝利を確信し、ほくそ笑んだ。


「――いかに西古見氏とはいえ人間だ。子どもに手は出せまいよ」


 与那覇の見守る前で、何事もなく西古見邸にもぐりこんだのは、数か月前、子供の手術費用をだしに交渉を持ちかけた三池沙代里とその長男であった。

 息子のほうには、与那覇の商売道具をいくつか与えている。いずれも怪異や魔術にまつわる品々で、収蔵庫に近づきさえすれば目的のものは手に入る算段だ。いかに守りが固くても西古見氏も子どもを殺すわけにはいかないだろう。

 自分の孫や地域の人間たちが見ている前ではなおさらだ。


 こうして与那覇は魔法工学の産物であるとあるVRゴーグルを手に入れた。


 彼がゴーグルにこだわったのには、それが有用だからというだけではない。はっきり言うと西古見博士という人物との力くらべという意味もあった。

 どれだけ優秀ですばらしい力を秘めていようと、人間はしょせん人間だ。

 感情に支配されて、少しでも可能性があると囁かれたら後先も考えずに飛びつくしかない。未来を予測することができず、過去を忘却することも難しい愚かな人間の一部でしかないと確認したかったのだ。

 そうして目的のものを手に入れて自宅マンションに帰った与那覇は、そこではじめて自分の失策を目のあたりにした。

 いつも通り、ドアの向こうにあるはずのワンルームは様相をまるで変えていた。

 室内は灰色と黒の濃淡で染め上げられ、そして正体不明の怪物が三体、たたずんでいた。怪異だとか、現代妖怪だとかいう生易しい存在ではない、怪物だ。

 その内訳は、木桶を手に正座している牛頭の女がまずひとり。そのうしろに壁に向かって泣き声を上げている老婆がおり、右手側のキッチンの近くに巨大な肉切り包丁を手に、ゴム製の前掛けをつけた大男が立っていた。男には頭部がなく、濃灰色の血が絶え間なく噴出して音を立てている。

 部屋からはすべからく奥行きが奪われていた。怪物たちとベッドや家具が一枚の絵画のように平板な画面に描かれている。

 そして与那覇は、仕事をひとつ終えた安心感から何も気負うことなく、遠近感を喪失したその奇怪な絵画に一歩足を踏み込んでいたのだった。


「――――おっと」


 事態の重さに比して、彼は薄ら笑いを浮かべたまま、軽い感想を投げた。





 暗い画面に光がともる。

 四角く切り取られた空間に、どこかの居間がうつりこむ。建て付けは伝統的な和室のものだ。

 そして子どもの声がした。


「おじいちゃーん、テレビ電話つながったよ~!」

「おやおや。ありがとな賢太」

「じいちゃん、ここ座って。マイクはこれ、カメラはこっちね」

「はいはい、わかっとるよ」


 しばらく間があって、白髪の老人の姿が画面にうつりこんだ。

 その姿を七尾支部長は苦笑で出迎える。


「ほっほっほ。お初にお目にかかります、わしが西古見博士ですじゃ」


 それが本当なら、ヨーカイザーというトンチキ道具で数々の妖怪たちを思うがままに操っている集団の首魁ということになる。インターネット通信ひとつ覚束ないとは思えない。


「さっそくじゃが、このワシの不始末のせいでおたくを騒がせてしまったことお詫びしたい。この通りですじゃ」


 西古見博士は深々と頭を下げる。

 西古見氏が急に連絡をしてきたのは、ホリシンが誘拐されるより少しだけ前のことだった。怪異退治組合はそこそこ忙しいものの、のどかな午後である。

 相模くんは昼休憩、七尾支部長がひとりというタイミングであった。


「まあまあ、VRゴーグルの件でしたら、もう済んだことです。あれはゴーグルを盗まれたせいというよりも、間に妙な人物が絡んでいたようですからな」

「はて、人かどうかは怪しいところですな」

「ふむ。人ではありませんか」

「どうじゃろうな、なんとも言えませんな。霧のようなものじゃろうと思いますのじゃ」

「貴重なご意見ありがとうございます。うちでも警察とも連携して、犯人の足取りを追っているところです」

「ほっほっほ、お手並み拝見ですのう。しかし誠に差し出がましいことながら、ワシのモノに手をだした落とし前はつけさせてもらいましたよ」

「……と、いうと?」

「死んではないが、相当の深手は負ったはずですじゃ。七尾さん、ありゃあずいぶん手強い相手じゃよ」

「落とし前とは物騒な話ですな」

「なーに、たぬきと狐の化かしあいのようなもんですじゃ」


 西古見氏はにこりとする。

 七尾支部長はヨーカイザーのことなど、一通りの注意はした。聞きたいことは山とあるが、他の支部の担当であるので深くは聞けず、悩ましい案件である。西古見氏もそれがわかっているのかのらりくらりとかわすばかりだ。


「子供の遊びとはいえ度が過ぎますよ。わかってますね」

「はいはい、それじゃ、わしは昼ごはんの時間ですから、このへんで」


 通信を切るほんの一瞬前、ひどく冷たい声で「殺すつもりじゃったのになあ……」とつぶやく声が聞こえた。

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