第72話 ×××××

 怪異退治組合やつか支部には、いかさま建屋にそぐわない立派な看板が設えられている。


 やつかの天狗山から切り出された、杉の木の一枚板につやつやとした漆で大書されたそれを、週に一回の朝一番、椿油で丁寧にみがくのも相模雪也さがみゆきやの業務の一つだった。


 使い込んでこなれた磨き布をごしり、ごしりと伸すようにあてるうち、てれん、とした光沢が木肌に宿る。毎夏台風が訪れる度吹き飛びそうになる安普請の事務所は、朝日を照り返す看板にもたれかかられ、いやおうにもくたびれて見えるのだった。


 その日は偶然、相模が看板を磨くその曜日だった。


「――うん?」


 と、首を傾げたのは、磨き上げを終え道具袋に一そろいを納めた時だ。


「うん、うん……うぅん?」


 得も言われぬ“ナニカ” が、つむじのあたりを騒がせていた。


「なにか、なんだろう。なにか……」


 座りが悪い。


 昨日変な物でも食べたかしらん。などと頭をよぎりながらも、相模は事務所の扉をくぐるなり、真っすぐに最奥のデスクに向かう。


『虫のしらせ』は、ことこの業界においてはジンクスや気の迷いとは見なされない。それが例え狩人資格のない一事務員のそれであったとしても、退治組合という組織に属している以上は、れっきとした報連相に値する情報なのだった。


 相模は持ち前の生真面目さから、この手の報告を欠いたことは無かった。


 もちろん相手は、やつか支部長たる七尾である。


「支部長」

「うん? ああ、看板磨き終わったか。ごくろうさん」

「ああ、はい。いえ、そうじゃなくて……」

「どうした?」


 今日も今日とて、天下泰平とばかりに扇で顔を仰いでいる。今日の一首は『ありま山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする』である。


「なにか、なんか、変なんです」

「……」

「なにか……」


 何とは言えないが。


「空気、というか、間、というか……」

「…………」

「行間というか……」

「……うん」

「……すいません。やっぱり気のせいかもしれないです」

「うん。おう。よし、わかった。『シラセ』だな。気にするな。大事なことだから」

「なんか、ほんとすいません」

「だから気にするなって、相模くん。どこの支部も『シラセ』を遠慮してトチッた経験があるもんだ。むしろどんどんやってくれたらいいんだ。な?」

「すいません……」


 そんなやり取りが、あったのだった。


 その時は、相模は(ああ、なんか恥ずかしい)と思っただけだった。報告を受けた七尾ですら、『シラセ』は外れるのが当然なのだから、と、心の隅に留めているばかりだ。


 しかして、相模のつむじから、その違和感はいつまでも去らないのだった。


(なんなんだろう)


 十時、バイト職員の賀田舞が出勤し、ややも遅れて狩人の的矢樹が(依頼が無く暇だという理由で)事務所に顔を出す。前夜に所属の狩人が対処した案件についての事後報告書に七尾が目を通し、軽い朝礼が行われ、「的矢、おまえ暇なら溜めてる書類全部やってから帰れ」と小言が飛ぶ。


(なんなんだろうか)


 いつもの事務所の風景である。変哲のなさたるや、いつぞややつかで起きたという『一ヶ月四日間の四月一日ループ・エイプリル・フール事変』が今一度訪れたかというほどに。


 にもかかわらず、相模にはどうしょうもなく、いつもと違う、まるで根底から全く違うように、思えてならないのだった。


 世界そのものが、トーンを変えたような。


 聞き馴染んだ歌のハーモニーパートだけ耳にしたような。


 実家の味噌汁の味噌が別物に代わったかのような。


 違和感。


(でも、一応報告したし。支部長ならなにかあったらすぐ気づくはずだし)


 やはり、昨日の食事かなにかが差し支えているのかもしれない。そう自分に言い聞かせながら細々とした仕事を淡々と片付けて行く。


 午前中はルーチンワークを一掃する時間、と、相模は決めている。


 支部職員の業務は大きく分けて二つになる。やつか町の住人からの依頼メールのプリントアウトや、狩人たちの報告書に依頼対処計画書、諸々の経費の領収書の精算などの事務作業。そして狩人たちの依頼遂行を補給通信などの裏方として、時には直接現地に赴いてサポートするバックアップ業務。


 怪異の多くは真夜中に活動し、残りのほとんどは人が活発に動く昼日中に動く。午前中から狩人たちが行動することは河童保護活動などを除けば極々稀であるので、いざそうして動かねばならなくなる前に、事務仕事、特に日々繰り返されるようなそれを片付けてしまうのが、怪異退治組合の事務員として仕事を溜めない秘訣ひけつなのだった。


 一方で、『仕事を溜めない秘訣』など生まれてこの方考えたことも無いのが、的矢樹まとやいつきである。


 事務所の空きデスク――七尾の目線を遮るものが何一つない位置のそれ――に押し込められた的矢が囲まれているのは、およそ三か月分に及ぶ諸々の書類の山であった。(それはつまり、三か月分の書類が近々相模たちに襲い掛かるということである)


「漫画でしか見たことないよあんなの……」

「漫画だったら、すごく仕事する人の表現ですけどね」


 おもわず呟いた相模に賀田が軽口を言う。


 率直に言って、賀田舞かたまいは的矢樹を好かない。理由はいくつかあるが、大きな一つがあの書類の山を年に二度も三度も作り出すことだ。


 早く片付けてこちらに回してもらわねば困るが、一気に片付けて怒涛に押し寄せられても困る。


 結局、ああも溜め込んだ時点でどう転んでも、この二人は苦労しかしないのだ。どうしてこれで好けようか。


「漫画だったら、あの状態でお菓子食べ始める人はリアリティがないって叩かれますね」

「うん……」


 そういって二人は、真正面から七尾に睨まれているにもかかわらずスナック菓子を取り出した的矢をみて、溜息をつくのだった。


「あ、賀田さん」


 軽口ついで、ふと事務所の壁掛け時計に目をやって、相模は思い出した。


「悪いんだけど、今日は早めに昼休憩してくれる?」

「いいですけど。マメタくんですか?」

「うん、今回は火の気のある仕事になりそうだからって」


 そうきいて賀田はわずかに微笑んだ。語られたのは、やつか支部の狩人、宿毛湊すくもみなとが同居している豆狸のことだった。


 宿毛湊はやつか支部でも指折りの実力をもつ狩人であり、また、魔法という技能の多彩さ、万能さから対処可能な依頼の幅が段違いに広い。自然、やつか支部の中でも特に困難であったり、宿毛以外に対処できない類の依頼が集中する。


 ここのところ、彼は同居狸のマメタを現場に連れ立っていくことが多かった。が、そうした面倒な依頼は日をまたぐことが多く、その上獣であるマメタと相性の良くない依頼を受ける際は、昼過ぎ頃にこうして事務所にマメタを預けに来るのだった。


 事務所としては、これもまた狩人が依頼をこなすサポートであるから当然受け入れるし、また事務職員たちの個人的な感情としても丸々と茶色いちいさなけものがやって来るのはなんら忌避するものではない。むしろ諸手を上げての大歓迎だ。


 しかし、歓迎の気持ちが勝ちすぎて、ついつい甘やかしがちになる。


 昼休憩に「どこいくの? ついてっていいー?」と聞かれれば抱っこして行ってしまうし、休憩先で食事をじぃっとみられると、端から口に入れてあげたくなってしまう。怪異とはいえ狸は狸なので、人の食事は体に悪く、我慢をさせると食べているこちらの心に悪い。


 なので、事前に預かることがわかっている日は、いつも交代で行く昼休憩を早め、宿毛がやって来る前に仕舞っておこう、と、二人は決めているのだった。


 それに、宿毛が迎えに来たならば、マメタは「その日誰から何を貰ったのか、それがどんなに美味しくて嬉しかったか」をその場ですぐに話してしまう。その度宿毛は「マメタがご迷惑を……」と頭を下げ、相模や賀田は「勝手におやつを……」と頭を下げ、ややも収拾がつかなくなるのだ。


 しかし、そんなことは些事である。


 意図して的矢のデスクから目を逸らしながら、今日はどんな玩具でかまおうか、二人は思いを馳せるのだった。


:::


「それではマメタをよろしくお願いします」

「おねがいします!」


 訪れた宿毛湊が諸々の道具類(フードにおやつ、ペットシーツといった消耗品とマメタのお気に入りのブラシ)を差し出しながら頭を下げると、元気のいい声でマメタが繰り返す。


「はいたしかに。明日の今頃にお戻りの予定ですね」

「一応……。フードは三日分入れてあるので、何か想定外があっても十分足りると思います」

「いまフードっていった? もうごはんのじかん?」

「違うよマメタ君」

「そっかぁ」


 すこし、お尻を振りながら事務所の床を歩き。


「――さがみくんのかん違いとかではなくて?」

「そうだよ。まだご飯の時間じゃないよ」

「そっかぁ」


 往生際が悪い。それもまた可愛らしかった。


「こらマメタ」

「やーん」


 宿毛からお小言の気配を感じたマメタがふりふりふり、と小走りをして賀田の後ろに隠れる。満更でもないのが当の賀田である。――マメタも、そうして隠れて喜ぶような相手をわかって選んでいる節がある。


「まったく」

「まぁまぁ……」


 腕を組みため息をつく宿毛をなだめながら、今一度、相模は例の違和感を感じた。


 それも、朝よりもずっと強く。


 思わず眉をひそめた相模を見て、宿毛がいぶかしんだ。


「相模さん?」

「あ、いえ、すいません。なんだか朝から具合が変で」

「……『シラセ』の類ですか」

「はい……。支部長には報告したんですけどね」

「良ければ詳しく」

「詳しく、というほど何かがあったわけでも無くて……」


 説明できることと言えば「朝のある時から違和感が付きまとって消えない」ということに尽きる。細かなニュアンス、ディテールをつけたそうにも、相模も言葉使いが人に比して巧みというでもない。語れば語るほどに伝えるべき何をり零しそうで、結局は、「違和感がある」としか、言えなかった。


「ただ、強いて言うなら……」

「言うなら?」

「人の雰囲気が違う、ような……」

「事務所の?」

「それもそうなんですけど、こう、なんか」


 なんか。


「絶対にわっちゃいけない人が、別人になっちゃってるような、そんな気がして」

「ふむ……。狩人として、まず考えるのはドッペルゲンガーですが」

「ドッペル……」


 相模にとって、ある意味因縁深い名前に思わずおののく。まさか、今この場の誰かがそうだというのだろうか。「しかし」と宿毛が言葉を継いで、続ける。


「あれは怪異の中でも相当に知能が高い、わざわざ狩人の集まる組合の人間を貌盗かたどりの相手には選ばないでしょうし。なによりこの場には支部長がいます。並大抵の怪異であの人に気取られないわけがない」


 それに。


「――的矢もいますしね。霊的な探知範囲もカバーされているわけですから、日頃より一層この場は安全なはずです」

「まぁ、確かに」


 書類仕事に飽き飽きしているが、昼食後でおやつの気分でもないのだろう。悩まし気な(だけの、理由のない)表情で窓の外を見ている狩人を、二人してみる。


「やっぱり気のせいなんですかね。すいません宿毛さん。これからお仕事なのに」

「いえ、どの支部も『シラセ』を軽視して痛い目に遭ったことが一度はあるものですから。これからもどんどん伝えてください」


 七尾と全く同じことを言う宿毛に、そう言えば二人はずいぶん長い付き合いらしい、と思い出す。


 どことなくおかしみを感じ、また、心強くもなった。


「ありがとうございます宿毛さん、気が楽になりました。——どうか今度の依頼もお気をつけて」

「はい、相模さんもいつもマメタをありがとうございます。また、明日の今頃に」


 狩人の仕事は危険が多い。帰りが遅れることもあれば、まさか、、、の事だって、あり得ないわけではない。


 それでも「また明日の今頃」と。その一言だけでいつもと変わらない事務所の光景がちゃんとこの場でみられると、根拠もなく信じることが出来る。


 それが一流と呼ばれる狩人の資質なのかもしれない。


 柄にもなく、そんなことを相模は思うのだった。


「それじゃ的矢! お前もちゃんと書類仕事片付けろよ!」

「ああっ! 宿毛先輩! やっぱりワテも連れてって欲しいでゲスよぉ~!」

「駄目だ!」

「げ、ゲスゲスゲスぅ~~~~! トホホぉでゲスゥ~!!!!!」


「でもやっぱり、なぁんか違う気がするんだよなぁ……」



 第68話 怪異『作風の違い』

 著 絹谷田貫

 https://kakuyomu.jp/users/arurukan_home

 代表作:『異世界転生真剣将棋』

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054885921040


 原作・プロット 実里晶(ミノリアキラ)

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